2008年6月「向上」
空気を読む、ことが何故これほど注目されるようになったのか。KY、すなわち空気が読めない人間だと言われるのは、それだけで駄目人間の証である。あの人ちょっとKYよね、と言われてしまえばもう仲間はずれになったようなもの。会社の経営者や、政界にあってのKYば無能の烙印のようなものだ。だから皆が必死に空気を読もうとする。友達や知人の間で、上司は部下の、部下は上司の、人が集まるところでは誰もが「空気」を察することに必死だ。なんか疲れる。
そもそもそんなに必死に読まねばならない空気とはなんだろう。空気を読む、にはそのまえに「その場の」が付くことが多かった。その場を満たしている雰囲気、とでも言うのだろうか。論理や道理や合理性やそのような明確な輪郭のある道筋だったものではなく、もっともやもやと漂っている曰く言い難いもの。それを吸い込んで自分の中に満たし、同じ色になりその場に馴染む。常にその場から突出しないように努める。あるいはもっと能力のある人間ならばその空気を「盛り上げる」わけだ。
世間を騒がせず、万事を丸く収め、大過なく過ぎる、というのは日本人が昔から大切にしてきた処世だ。しかしこの頃あんまりKYが嫌われると、なんで?と思ってしまう。いつの間に私たちは空気ばかりを読むようになったのか。まるで活字が読まれなくなった代わりに空気が読まれるようになったみたいだ。そもそもKYはそんなに悪いのか?
KYの祖先には偉人が多い。中世の教会や民衆の強い圧力のなかで「それでも地球は回っている」と呟くガリレオはKYだろう。その場の空気をちゃんと読み取って、「ま、そうですね、それほどおっしゃるなら天のほうが回ってるってことで」とか何とか言っておけば世間を騒がせずに済んだはずだ。イエス・キリストなんて人騒がせなKYの元祖みたいなものだろう。イエスの人気を危険視する為政者や、やっかみの塊となった民衆の反感を読めずに十字架までまっしぐら。イエスを裏切るユダやペテロのほうがよっぽど空気が読めていた。そんなことになる前に「このごろ世間の風当たり強いしさ、ここらで解散しない?」とか何とか対処のしようはいくらでもあったはずだ。いやいやイエスよりさらに前、古代ギリシャの哲学者たちはKYぞろいだ。生活に忙しい人々が行き交う往来に突っ立ち、「我とはなんぞや」と辻説法を始めるなんて、KYを通り越している。そのせいかどうかソクラテスは妻にさえ迷惑がられ嫌われた。
彼らは空気が読めないのではなく空気を読まなかったのではないか、あるいはその中間ぐらいかもしれない。いずれにせよ、この、「空気を読まない」力のほうに今、私は大きな魅力を感じている。そもそも、空気を読むのは人間関係における最低の交渉能力だろう。葬式に行っては大笑いする人はいないし、気まずい雰囲気の場では何とかその場を和ませようとするか、さっさと逃げ出す。そんな最低レベルの人間力が衰えているということなのか。その結果出来上がるKY嫌いの空気は、物事の本質や、より正しい情報、もっと広い視野を見ようとする力を封じ込めることになっていないか。
例えば太平洋戦争の戦禍をより大きくした原因の一つに、軍部の中で空気を読み合い、それに抗うことのできない空気があったからだと言われる。KY嫌いというよりKY恐怖だろう。退くのは恥、「撃ちてし止まん」の空気を読む合う組織の中で、不都合な情報は伝えられず、状況分析さえまともには出来なくなっていた。誰もがKYであるまいとしたのだ。結果としてKYより怖いKSY,つまり空気しか読めない空間が出来上がっていった。
今の日本に漂っているこのKY嫌いは、ほとんどKSYに近い。この狭い日本という国の空気、あるいはもっと狭くそれぞれの組織や会社での空気しか読めなくなっているのではないか。その結果がどんな恐ろしい歪みになって出てくるのか、その例はありすぎるほどだ。会社は不正を隠蔽し、学校は子供たちのいじめの事実を隠し、官僚組織は上司の不正を見て見ぬふりをする。
時には、あえて空気を読まない努力も必要ではないか。誰もが皆の顔色を伺ってニコニコしている集団なんて気味悪いではないか。世間を騒がせず、丸く収めることを考える人ばかりになった世界は怖い。空気を読まないためには大きな力がいる。孤独に耐える強靱な精神力だ。しかしその精神力こそ、人間の尊厳のために必要な本物の礼儀であるかもしれない。