透明な瓦礫を生きる

 

去る五月三十一日開かれた花山周子の歌集『屋上の人、屋上の鳥』(ながらみ書房)の批評会は百四十人が集まる盛況ぶりとなった。八百六十首を収めるこの歌集は若い作者の第一歌集としては異例のボリュームであり、どこをどのように読むのかによって読者の捉え方はかなり異なる。いわば読みを任されている歌集だ。<お金の計算が好きなり桁繰り上がるたび胸はときめく>といった、明るく風通しの良い感性を感じさせる一方で、<このキャンバスに乗っかって、踏んづけて、ずたずたにしたし風の吹く道>といった潜伏する怒りが読者を捉まえる。若者にとって今は生きやすいのか生きにくいのか。<友達の絵画に黒き点ありてこれは蠅とぞ、空の蠅とぞ>のような歌には、根本のところで箍が外れ価値観を失った世界を生きる不安が覗く。この歌集のボリュームは、一つ一つ確かめられ積み上げられた今の手触りの集積だ。ここにたった一つの方向付けなどはしたくない、という作者の姿勢が滲む。

 また、先頃刊行された加藤治郎の歌集『雨の日の回顧展』ではゴッホやロダンの作品中に潜む破壊や性の欲望を歌でなぞる。<あらゆるものへあらゆるものへあかねさすひとりの男、石とならばや>。<ありのままありのままあれ配線のようにこんがらがったままだが>。ロダンの欲望、ゴッホの狂気は、私たちにとって単なる「作品」だろうか。私たちは彼らの抱えた非日常を今まさに生きているかもしれない。そんな問いが立ち上がる。しかし今日の私たちの周囲は、<水母のような代用品にみちていてさしあたりしあわせなぼくたち>と詠われるように、「さしあたりしあわせ」だ。この偽物の幸福感によって余計に見えがたくなっている世界。加藤の言葉は、一層日常から遠ざかりつつ、現代人の幻想との格闘を描く。

 これらの歌集を読みながら、私に見えたのは透明な瓦礫とでも言える風景だ。第二次世界大戦の瓦礫は圧倒的な手触りをもって広がっていたが、それとは別の見えない瓦礫が私たちの周囲に広がっているのではないか。それは見えないだけに片付けることも再建に向かうことも出来にくい。戦後短歌を作り上げた歌人を次々と失う中で見えてきたあらたなこの透明な廃墟。そこに生身で生きる不安がこれらの歌集には刻まれている。