いま、読み直す戦後短歌

プチ★モンド全国大会

 

08年5月17日 於、山の上ホテル
川野里子

 私がそうなのかあるいは全体がそうなのか、何か表現するときに芯がないような感じ、何に向かって何を批判し、何に向かって言葉を立ち上げていったらいいかのかよくわからないという感じがこの頃強くなってきたような気がするのですね。ここ二,三年、戦後を引っ張ってこられた歌人達が相次いで亡くなりました。近藤芳美、山中智惠子、春日井健、塚本邦雄、綺羅星のような方々が相次いで亡くなって、ひとつの大きな曲がり角にある。曲がり角にある時は、過去を振り返ってみるのが未来への道案内になると思うのです。    
 例えば、戦争体験はしばしば生活や人生の体験として語られます。しかし私達が携わっている詩歌にとって戦争、敗戦とはどのような体験であったか。戦前、戦中、戦後という区切りがあります。戦前の人と体験上話が通じないということはあるが、日本語はずっとつながっている。けれども、ある角度から見る時に戦前、戦後がどこかで切れているという感じも私たちは抱えていると思うのです。では私たちの言葉は切れているのかつながっているのか。そういうことは詩歌が一番深く体験として刻んできたはずだと思います。

 

このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね   

齋藤茂吉 『小園』

最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片       

『白き山』

軍閥といふことさへも知らざりしわれを思へば涙しながる       

 最初の歌は茂吉が疎開先である山形で敗戦を知って、その年の秋に作った歌です。私が最も注目するのは「このくにの」という言葉ですね。茂吉には「このくにの」といっている歌がかなり多い。それぞれに面白い歌ですが、この歌に限ってみると敗戦という大きな歴史的な体験を介し、傷を受けて「このくにの」と詠まれているのです。茂吉の頭の中に想像されていた国というのは、自分が生まれ育った呼吸の通う空間、かりがねが秋になると飛び立ってゆき、春になると返ってくるという懐かしい懐かしい季節の繰り返しが行われる空間、しかも故郷ですね。そういうものが下敷きになって「このくにの」という言葉が生まれているという気がします。
次の歌、茂吉が敗戦を目の当たりにした時、茂吉にとって今でも残っている最も美しいもの、そして心に残ったのが、愛してやまない故郷の川、心そのものだといってもいい最上川にかかる虹の断片、こういうものが国が滅びてもまだ残っている。このように茂吉の中に思われている「くに」は懐かしい故郷の延長線上、故郷から生え出て茂っているこんもりとした奥深い心を支える「くに」。だからこそ平仮名で書かれているのだと思うのです。
一首抜かして次の塚本邦雄の歌を読んでみます。
            
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
石鹸積みて香る馬車馬坂のぼりゆけり ふとなみだぐまし日本

塚本邦雄『日本人霊歌』

 塚本が使った「日本」と、茂吉が使った「このくに」は同じものだろうか。私はとても違うと思う。塚本が「日本脱出したし」と言った時の日本は、茂吉の「このくにの」とどのように違うかというと、自分の今いる場所、この日本を相対化する、外から見る視線に貫かれている。ある意味では茂吉が「このくにの」と言った「そのくに」が壊れてしまって裂け目が見える。だから脱出したい。しかしなぜだか脱出できない。その気分が、「皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も」と言う比喩になっている。これは天皇制を比喩しているんだという説があります。私もそう思いますが。ともあれ日本という言葉に注目する時、そこには茂吉が見た、考えた空間としての国とはまったく異質な空間が生まれていることに気付かされます。                 
 二首目、馬車馬は、馬車馬のように働くという言葉があるくらいで、誠実で勤勉でしかしどことなく貧相で哀れだという象徴ですが、それが皮肉にもいい香りのする石鹸を山のように積んでいく。その姿が戦後日本の姿にとても似ているというのです。戦後日本の姿をどのように言おうかといった時に馬車馬である日本というものを塚本は思わざるを得なかった。これは塚本が日本と言う空間を外から客観する、俯瞰するように見ているのですね。しかも同時に自分もその一人である。『日本人霊歌』は自嘲と口惜しさに満ちた、傷口から血を流しながら書かれた歌集だといってもいいと思うのです。
 ここで一首前の茂吉の歌に戻ります。軍閥ということさえ知らなかった、無知蒙昧な国民の一人であったことをつくづくと悔いている歌ですが、私がこの歌に感じるのは「涙しながる」という言葉のある種の嫌さ、決していい感じはしない、清らかな涙とは思えない、無知無辜の民であったという述懐が無知を清めてくれるだろうかといったらやはりそうじゃない。ここに茂吉のある変わらなさ、戦前戦後を通じて変わらないある自意識、自分の保ち方を感じるのです。最近あの「ささやき女将」と呼ばれる方が泣いたということがありましたけれど(笑い)この「涙しながる」といったときにあの女将さんの涙がちょっとうかんだりするわけです。(笑い)。茂吉は近代、現代を通じて最大の歌人であり、巨人であることは全く疑いのないところです。茂吉は戦後まもなく亡くなりますけれども戦後という体験、戦争に負けて以後という言葉の時間を体験することなく亡くなったと言って良いと思う。そうであれば我々は茂吉以後を生きてきた人間ですね。そして茂吉以後を表現することが戦後の使命であったと思います。そこが今日のお話の動機となっています。

 第二次世界大戦の体験は決して日本人にとってだけ痛烈であったのではなく、世界中の人々が衝撃を受け、それはあらゆる分野に及びました。よく戦争体験という時にドイツと日本が重ねられます。ドイツでもこんなひどい惨禍を体験した後に詩歌などが本当に人類にとって成り立つのかという問いかけが幾たびもされている。ゲオルゲ・シュタイナーという人が「戦争の記憶ー日本人とドイツ人」という本の中で「殺人者の言葉でどうして詩が作れるだろう」と言っています。ドイツはホロコースト、ユダヤ人の大量虐殺を経験しています。そういうことを行った民族の言葉でどうして美しいものであるはずの詩が書けるのかと問いかけている。広島だってそうです。原爆を落とした後に人類はまた詩というものを書くことができるのか。書いていいものかと問いかけざるを得なかった。それは人類として共有せねばならない問。つまりそれが戦前と戦後を分けるひとつの強烈な問いなのです。茂吉は内的な心の体験としてそこを経験することがなかったかもしれない。そして塚本はそれを体験せざるを得なかった。そこが近代と現代との大きな分かれ目だったと思います。ではもう少しいろいろな戦後について見てみましょう。
 
落し紙も石鹸も使はぬ土地の女等のあとなるお風呂を我はいただく
白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開きをり

齋藤史『うたのゆくへ』

 齋藤史は長野に疎開してますね。その後、東京に戻ることなく生涯を終えました。しかし齋藤史はずっと都会人であり、ある意味で長野にとっては異邦人であり続けた。異邦人の目でそういう場所を見つめざるを得なかった。これが一つの象徴的な歌ですが、トイレに行ったときに紙も使わない、石鹸を使って体を洗うことを知らない土地の女達がさんざんに汚していったお風呂に貰い湯に行くわけですね。日本の昔ながらの生活が凝縮された土地に異邦人であることを貫く、そのことによって自分が今生きる場所はどんな場所なのかということを徹底的に見つめ直すことが史の戦後になっていった。齋藤史の戦後の歌集は正直言って成功したものばかりではない。『ひたくれなゐ』という昭和五十年代に出される歌集に行くまでの歌集は絶賛されるほどのものではない。だけど史、自分が今いる場所に対する違和感、この場所は一体何だという問いかけをたとえ歌が失敗しょうと何であろうと手放さなかったわけです。そこに私は注目したいのです。
 次の歌、この歌の面白いのは「殺されたれば眼を開きをり」ですね。普通は殺されたら眼を閉じます。しかし殺された故に初めて見えたものがあるというのです。それまでむしろ眼は閉じてたかもしれない。真実であれ、今起こっていることであれ、見えていなかった。殺されたことによって初めて本当の眼が開く。そんなことが象徴的にこの歌から思われるわけです。史は『やまぐに』という歌集の中で例えば自分の住んでいる場所を平家の落人村に例えて、その血によって閉鎖された伝統と暮らしを徹底的に、あからさまに描き出す。その中で史は実は生きていながら開いていない眼というものを直感せざるを得なかった。山から出るというのは象徴的なことですよね。山から出れば死ぬ。だけど死ぬことによってしか開くことのない眼がある。齋藤史の戦後というのは自分の経験というものを徹底的に見尽くすことを必要としたわけです。人類の言葉として詩がふさわしいか、私たちは詩を書くに値する存在であるか、そういうことを、思わざるを得ない戦後人としてそれでも詩が必要であるとするならば、私が今いるこの場所がどんな場所であるかということを直感したいからだ。そのために詩が必要であると齋藤史が言っているような気がしてならないわけです。

衿のサイズ一五吋の咽咽仏ある夜は近き夫の記憶よ       
失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ     

中城ふみ子『乳房喪失』

 中城ふみ子は歌壇に登場して十ヶ月くらいの活躍でたちまち乳癌で亡くなってしまいます。非常にセンセーショナルな、夫と離婚して、恋愛を繰り返しながら最後は乳癌で死んでしまうという、短期間にめまぐるしい生き様を曝して亡くなった歌人で、今でも女性歌人の中にはこういう露出は嫌だわという嫌悪もかなりある。しかし、何だか忘れられない歌人の一人でもある。毀誉褒貶の激しい歌人であろうかと思います。なぜ中城ふみ子が私達にとって忘れられないのか。「衿のサイズ十五インチの咽咽仏」、私、これに注目するんですね。中城の表現というのは非常に具体的であからさまなんです「光りたる糸ひくキスを」とかね。キスした時に唾液が糸を引いているそれが光って見える。そんな表現を使ったりする。それが男性陣にはおおいに受け、女性陣からはちょっとねと思われる。あるいは女性陣からは応援され、男性陣からは叩かれる。夫を表現するのにこのような形で具体的に赤裸々に表現してしまう、数字に変えてしまう、咽咽仏という部分に注目してしまう、そういう表現がされたことはなかった。男という性、女という性はお互いに模糊とした幻想を掛け合うことで成り立ち、共存できるようなことがありますが、そのヴェールを剥いでしまうと実に赤裸々な姿が見える。この場合には咽咽仏が強調されている。そういう目線で初めて男を見たわけですが、同時に中城は返す刀で自分のことも見るわけですね。
 次の歌です。これは癌で切除してしまった片方の乳房に似たような丘があってそれが冬晴れの風景なのですね。枯れた花が飾らんというので決して美しいものではない。荒涼とした風景の中に自分の乳房を探すわけです。『乳房喪失』という歌集ですが、このタイトルは喪失によってむしろあからさまになってしまった女の乳房を印象付けるといっていいんじゃないか。無くなったものは私達にとって非常に強烈な印象を残します。自分たちは今まで何を持っていたか、乳房をもっていた。喪失することでそれに気付く、そういう歌集であったという気がします。戦争中、「欲しがりません。勝つまでは」「着物の袖を切りましょう」というスローガンもあったようですね。それでみんな筒袖にしたというのが十八年くらいにあったらしいんですけど、徹底的に奢侈を禁止し、いろんなものを抑え込んでいく。人間らしい感情とか、痛みとか愛とか恋とかもね。息子が死んだって母親は微笑まなければいけなかった。徹底的に人間の人間らしさを覆ったのですね。そのようにあからさまにものを見ることが徹底的に禁じられたのが戦争中だとすると、戦後出てきた表現はこれほどまでにあからさまに人間に身体があること、女に乳房があること、男に咽咽仏があることを思い出させてしまった。パンドラの箱を開けたような表現であったかもしれないと思います。

水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが纍々と子をもてりけり

葛原妙子『橙黄』

 この歌は私は葛原の中で大変好きな歌で、また大事な歌ですね。昭和二十二年の秋ぐらいに作られていると思います。水陽炎のように、自分たちが頼り寄りかかっていいものはこの世に一つとしてないと言い切るわけですね。これは葛原にとって、そして戦後の多くの日本人にとっての強烈な実感だった気がします。依って頼りにすべきものなどこの世に何一つない。すべて陽炎のようなものなのだ。ということが葛原にとっての戦後の第一歩の認識になったわけです。では頼るものが何もないと、自分の目で見るしかない。葛原は戦前までは夫を尊敬し子供たちを一生懸命育ててきた良妻賢母であったのですが、この歌を作る頃を境に良妻賢母をやめるんです。結局それも信じるに足りないことの一つになってしまったわけです。幸か不幸か(笑)。
 次の歌ですが、馬が疾走していく姿、特にサラブレッドが走っていく姿は大変美しいものですが、その馬の美しい駆ける姿を見ながら、自分だけが累々と子供を持ってしまった。これ悔いの歌ですね。子供を持っているのは葛原だけではない。世のすべての母親が子供を累々と引き連れ、走ることなく一生を終えていくのだ。そういう観念が後ろにあるわけですね。この途方もない悔いはどこから立ち上がってきたか。それは母であること以外の生き方が見えてきたから。さまざまな人間の可能性というものが遠くにキラキラと見えてきたことによって灼かれるように悔しかった。当時、葛原は四十三歳を越えようとしていた。今から出発するには遅すぎるという地団駄踏むような悔いが強烈にあったんですね。昭和二十年の敗戦以後二十三年くらいまでの間に天地がひっくり返るようなたくさんの改革がされていく。その中に婦人参政権もありますね。昭和二十一年、初めて女の人が選挙に行けるようになった。私なんかそんな近年まで女の人は選挙に行くことさえできなかったことに驚くわけです。同じ時期に女の人が初めて大学に行くことが許された。そういう時代に葛原は「累々と子を持てりけり」今までの自分をこのような言葉で相対化し見つめる、そういう地点に立たされることになったのです。
    
ほのぼのと愛もつ時に驚きて別れきつ何も絆となるな
処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾のこころ熱くす     

富小路禎子『未明のしらべ』

 富小路さんは旧華族でした。戦後の改革によって平民になって自分の手で生きていかなくてはならなくなった時、何を自分の言葉の拠り所としたかというと、この「何も絆となるな」という一言であるという気がします。富小路さんにとって華族であることは当然のように自分のアイデンティティー、自分を支える歴史、時間であった。それが戦後、全否定されてしまう。それで、どのように生きようとしたかというと自分の中に蓄えられている血を次に渡さない、自分の血を自分で断つのだ。その覚悟が富小路さんの文学の底に沈んでいたような気がするのです。一方では仕方なく血を継ぐために結婚したお母さんの姿も富小路さんの脳裏に深く刻まれていたと思います。えんえんと血をつなぐためだけに嫌な結婚であれ何であれ繰り返してきた。その血自体が否定されてしまった時、絆を持たぬという生き方が立ち上がったわけです。
 次の歌。結婚しないということは結局子供が生まれないわけです。で、清いままでいる卵子。それがなぜ自分の心を熱くするのかが、実は私疑問だったのですね。今でも解けたとは言えないですが、一人で生きるぞという覚悟と同時にこの血を自分で断つことが一つの自分の使命、であったかもしれないなとも思う。そのように歩むことが自分の戦後である。同時にその自分を表現することは詩歌によるほかない。そこで初めて詩というものが取り戻される。詩という言葉が回復できる。そのように読めるわけです。
戦後どのように人が詩歌を取り戻していったのか、自分の言葉として、どうしても私達は詠わねばならないと覚悟し直したのかと思うと、それぞれの現場の切実、人の心の切実、自分の周囲の切実は詩歌で表現する以外になかった。その切実さによってこそ詩歌は再び詠われてもいいかもしれない。詩歌は人間にとって必要であり、我々は詩をもう一度手にしても許されるかもしれない。そんなことが一つ一つそれぞれの現場で確認されていったのが戦後なのではないか。もはや戦後ではないと言われてから半世紀ぐらいたった。しかし私は今も戦後であると思ったほうがいいのではないかという気がしています。なぜなら、その巨大な体験をわずか六、七〇年という時間が押しやることはできないであろうし、それは自分が体験した、しないということを超えて、ある言葉の体験として共有し、引き継いでいけるのだ。そのような柱を無くしてしまったならば詩歌、言葉は非常に騒々しい現代の溢れ返る文物や言葉の中に漂流し始めてしまうだろう。単なる五七五七七の断片になってしまうのではないか。ゆえに戦後というものを、引き寄せてみたい気がしているわけです。