時評「短歌」(角川書店08年9月号)
現代短歌が背負ってきた大きな課題の一つは、「現代」をどのように表現するのか、ということであったろう。「今日」に生きる人間の声はどんな表現なら掬うことができるのか、どんな新しさなら現代の表現として相応しいか。ことにも戦後の短歌は、近代短歌の残滓に甘えてきた長い時間を拭い、戦後という「現代」に立つために目覚ましい努力をした。「現代」的であること、「現代」性を獲得することは至上の命題であり、「現代」より一歩でも半歩でも先を走ることは現代短歌の宿命的課題であったと言えよう。
しかし、今、あらためて「現代」という言葉を味わい直してみるとき、「現代」はもうずっと言葉の及ばないところを走っているという気がする。短歌に限らず、文学が時代と拮抗しえた時代は本当はもう終わっているのではないのか。次々に起こる事件や世界の変化がわれわれの想像や予測をはるかに超えているのは日々実感することだ。そうした時代の暴走が私たちの共通理解としての世界や人間像を作りにくくしている。もうとうていそのような共通理解など成立しない、というのが本音であるかもしれないとさえ思う。そんな中で、現代の小説が、例えばコンピュータゲームがもつ時代の先進性を追い越すことは難しいのではなかろうか。シミュレーションゲームやRPGなどのゲームには小説を超える現代性があり、小説という形態が描きうる「人間」や「物語」を良くも悪しくもはみ出してゆくものがある。そんな中で、文学は「現代」に追いついているのだろうか。いや、本当は文学は、ことにも短歌は一度も「現代」より先を走ったことなどなかったのではないか。むしろそのことを今あらためて問うてみたいのだ。
例えば、大正二年、『赤光』が出されるが、その周辺の年を見ていると意外な思いをする。つまり、当たり前のことをあらためて確認して驚くのだ。高村光太郎の『道程』はその翌年の刊行であり、萩原朔太郎の『月に吠える』の刊行はさらにその三年後と意外に近い年代に相次いでいる。これらの詩集は少なくとも私のイメージでは『赤光』より遙かに後の時代のものであった。そういう思いで見てゆくと、イメージとの時差はいくらでもある。啄木の『一握の砂』と牧水の『別離』は『赤光』より四年前の刊行であるが、啄木の文体は、茂吉のそれよりはるかに新しく感じられる。牧水の『別離』は第三歌集であり、牧水はすでに初期の山脈を作り終えた時代だと言えよう。『赤光』は文学史の中でどうも時間の流れに抗うようなものを湛えているような気がする。
例えば、
汗ながれてちまたの長路ゆくゆゑにかうべ垂れつつ行けるなりけり
ひさかたの天のつゆじもしとしとと独り歩まむ道ほそりたり
のような歌は大正二年という年にどんな風に感じられ、読まれたのだろう。「行けるなりけり」のもつ殷殷とした大時代な重い響きや「ひさかたの」が呼び覚ます古代の空気は、牧水の透明観のある伸びやかな歌を愛唱し、啄木の口語に親しい歌を諳んじていた人々にどんな風に響いたのだろう。さらには朔太郎や光太郎が同時代人として詩作を積んでいる中で、茂吉の執拗な助詞への拘りや、枕詞や多用される古風な感嘆詞は少なくともそれ自体が先進性があり「現代」的であったはずはない。
茂吉の作品が湛えている万葉ぶりの古風さは当時の同時代人にとっても「現代」性とは異なる文脈から生え出た異形に見えたのではなかったろうか。しかし、今日私たちは間違いなく近代のイメージを茂吉のそれに代表させている。『赤光』は、牧水や啄木が造り上げた近代を超えるために敢えて時間を遡行してみせたようにも見えるのだ。近代の輝きがひととおりを尽くし、早逝するものはした後に時間の堆積の中から掴みだしてきた言葉が近代を延命させることになり、さらには近代の中心に座ることになった、と言えば言い過ぎだろうか。茂吉の『万葉集』への傾倒は、修辞のみならず、ほとんど全身全霊を尽くすものであった。そのことがもたらした大正二年における「現代」性とはいかなるものであったか。間違いなく近代人としての輪郭を持ちながら、古風な言葉の袋にその身を深々と沈めてみることによって茂吉は言葉に「現代」との距離と隙間を作り出し得ている。その隙間こそが言葉と心の豊穣の場となったのではなかったか。
「現代」であろうとすれば半歩も一歩も遅れてしまう今、「現代」であろうとすることはほとんど不可能かもしれない。現代短歌は「現代」になろうとすることによってむしろその存在感を弱くしてしまうのではないか。むしろ大きな時差が作り出す心と言葉の袋のようなものとなり、今という時代に立ちはだかることはできないか。それによって見えない「現代」に拮抗できるかもしれないと思うのだ。