海の近代ー牧水と啄木

「牧水研究」(牧水研究会編)

 

 

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 

若山牧水『海の聲』

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる 

石川啄木『一握の砂』

 

 近代を代表するこの二つの歌には、二つの異なる近代が象徴的に現れている。ともに海が詠われていながら、その海に対する心の姿勢が対称的なのだ。
 牧水の「白鳥」は、海にも空にも染まらぬと語られる孤独な姿をしながら、しかし海と空との茫洋とした広がりに身を任せている。ぽつりと白い点となった鳥を囲む青一色で描かれた広大な海と空との広がり。「白鳥」は心を開ききった状態で自らの「かなし」さを想っている。この鳥は普遍的な存在へと開けつつ同時に牧水自身でもある。一方啄木では、「東海」から「小島」へ、そして「われ」から「蟹」へと視野は次第に狭まり、読後の印象に残るのは砂浜に屈み込む「われ」の黒いシルエットである。この歌を読み終えた後、海の広がりはもはや遠い気配として感じられるのみであり、ここに詠まれているのは塊としての「われ」なのだ。
 この二つの歌の「私」は海の広がりに相対するように明瞭な輪郭をもって現れるという点で共通しつつ、その私の姿勢、在り方において対称的である。牧水の「私」は広く外界に身を投げ出すことによって現れ、啄木の「私」は広い外界から身を守るように屈み込むことによって確かになっている。それはさらに次のような歌によってもはっきりと特色づけられるであろう。

 

 わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり限りを知らず

牧水『海の聲』

 こみ合へる電車の隅に
 ちぢこまる
 ゆふべゆふべの我のいとしさ

啄木『一握の砂』

 

 これらの歌は彼らがまさにそのように生きたという生き方とも重なっている。牧水は「限りを知ら」ぬ外界に赴くことによって自らの声を見いだし、啄木は都会の雑踏にまみれつつ俯くときにもっとも強く「我のいとしさ」を見いだした。「東海の」に始まる啄木の『一握の砂』は以後海を離れその関心は砂浜の砂に移って行く。

 

 しつとりと
 なみだを吸へる砂の玉
 なみだは重きものにしあるかな

 

 まるで外界から自らを遮断し、それによって凝縮される「われ」を味わうかのように砂浜に蹲る「われ」。「東海」という視野に掴まれた「われ」はついに砂浜の砂粒と同化しつつ二度と海を振り向こうとはしない。それに対し、牧水は海への陶酔止みがたく、心を開ききって海の光を迎え入れる。 

 

 わがまへに海よこたはり日に光るこの倦みし胸何にをののく
 おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ戀ひ燃ゆる身を
 わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳は燃ゆるかな

 

 牧水は海へ心を開き思いのたけを投げかける。この恋の情感、この「私」は海に向かうとき解放され、海との出会いによって増幅されたとさえ感じられる。海と作者とはもはや一体となってる。俯く啄木、心を開ききる牧水、二つの対称的な「私」は二人の個性にとどまらず近代という時代と深く関わりながら現れているのではないか。例えば「海」がいかに詠われたか、という視点から近代の特色を考えるとき、近代の「私」の性格、そして牧水の果たした特異な役割はよりよく見えるのではないか。
 「これほど海に囲まれながら、何故、日本の近代詩歌人が歌う海はかくも貧しいのか」(『国文学』昭和五十九年六月号「啄木における∧海∨のイメージ」)と訝ったのは国文学者の今井泰子である。
 海は、空や、野山や、草木や、動物や、巷間の諸物のよ うには、あるいは前に私が本誌で扱った楽器ほどにさえ、 人々の想像力を刺激していない。恐らくそれは、長い封 建鎖国体制に由来する現象なのだろう。国内の旅すら水 盃を交した時代、そういう意識を多分に残した時代には、 海を想像力の媒材に出来た者自体が限られていたのだか ら。幸い海に接しても、目に入るのは月並みな写生画の ごとき風景。海に向きあう者は、そのありふれた小道具 の範囲で淡く感情を揺するぐらいが落ちであった。
 ここで今井は『明星』創刊号(明治三十三年四月)の歌を引用する。

 

 磯山の小松をひきてよる波に手あらひをればたづ鳴きわたる 

落合直文

 松風の音しづかにもあけそめて沖の島山月白くのこる

齋藤松野

 磯山のいわほの上に歌かけば夕やけあかく汐のさしきぬ

山崎 麓

 船よせて白き梅さく巌の上に妹が手とれば夢さめにけり

河野鉄南

 

 今井が嘆くとおり、これらの歌には海の実感が乏しい。近世和歌の伝統的技法や感性で小さな感傷が詠われているにすぎない。全体として海は小ぶりで生命力に乏しく、記号化しているとさえ言えよう。今井はここで、「日本の近代文学者にまず海を教えてくれたのは、現実の海ではなく西洋文学であった。それほど日本人は海を忘れていた」と語る。新しいものの全てが海から訪れた国、海に囲まれていた国に海までが輸入されたというのだろうか。もし文学に限らないなら日本人が海に無関心であったわけではない。むしろ並々ならぬ関心を寄せて海を描き独自の世界を切り開いた歴史を持っている。
 例えば近世の浮世絵がどれほど独自な表現に根ざし、どれほどの関心をもって海を描いたことか。葛飾北斎の豪快で独自な海の表現はドビュッシーに「海」を書かせたとまで言われるほど、西欧近代に多大な影響を及ぼしている。また歌川広重の東海道の風景に描かれた海の多様で伸びやかな表情はどうだろう。東海道は太平洋に沿っているのであり、人々はその海に寄り添いながら生きている。その街の気配は海の描写によって描かれているようにさえ見える。試みに手元にある歌川国芳の画集を繙いてみても、海の亡霊として大波の間に現れた平家を描く「大物之浦平家の亡霊」、画面いっぱいに暴れる大鯨と戦う小さな武蔵を描いた「宮本武蔵と巨鯨」、荒れ狂う巨大魚の傍らの小舟に乗った為朝を描く「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」、これらの画のドラマチックな躍動感は波の劇的表現と、海への実感の籠もった怖れ、生き物としての海への強い関心なしには描けない。少なくとも浮世絵に関して言えば、強い関心に導かれた技術の積み重ねが独自な海の世界を切り開いており、日本人が海に無関心であったわけではない。文学表現の場の海が貧しいとすればそこに海を描くための何かが決定的に不足していた、と考えるほうがより現実に近いのではあるまいか。
 確かに牧水や啄木の場合を考えてみても、彼らは明治三十八年に出版された上田敏訳の『海潮音』の影響を受けている気配が濃厚だ。牧水の『海の聲』の出版が明治四十一年、啄木の『一握の砂』が明治四十三年。牧水にとってみれば、早稲田に入学し上京した時期と『海潮音』の出版とは時期が重なっている。英文科に学んでいた牧水が欧米の詩に無関心であるはずがなく、また原語で詩を読めるほどの語学力を持っていたとも考えにくい。上京した牧水は目が覚めるような思いで『海潮音』を熱心に読んだのではなかろうか。例えばその中の一編であるオオパネルーの「海のあなたの」を引用してみる。
 海のあなたの遙けき国へ/いつも夢路の波枕、/波の枕 のなくなくぞ、/こがれ憧れわたるかな、/海のあなた の遙けき国へ
 遙かな空間を想う切なさそのものが「私」の形をして現れる、世界への親和性に満ちた抒情は牧水のものと極めて近しい。海の向こうを憧れ思い見るという抒情の空間的広がりは近代という時代を印象づけ、希望とも新しさとも感じられたのではなかったか。ここであらためて『海の聲』の序文を見てみよう。
 われは海の声を愛す。潮青かるが見ゆるもよし見えざる もまたあしからじ、遠くちかく、断えみたえずみ、その 無限の声の不安おほきわが胸にかよふとき、われはげに 云ひがたき悲哀と慰藉とを覚えずんばあらず。こころせ まりて歌うたふ時、また斯のおもひの湧きいでて耐へが たきを覚ゆ。かかる時ぞ、わがこころ最も明らかにまた 温かにすべてのものにむかひて馳せゆきこの天地の間に 介在せるわが影の甚しく確乎たるを感ず。
 『海潮音』から『海の聲』へ、タイトルだけを考えてみても非常に近しいこの接近の仕方は、序文にも現れている。海の向こうに「遙けき国」を思い見るオオパネルーに対して牧水はもっと混沌としたまだ名のつかぬものを感じているという違いはあるにせよ、近代という時代に海の表現が乏しかったという背景を考え合わせれば牧水の海に対する感受性はこうした詩に大いに刺激されたと考えられる。しかしもっともこの序文に親しいのはボードレールの『悪の華』の「人と海」ではなかろうか。
 こゝろ自由なる人間は、とはに賞づらむ大海を。/海こ そ人の鏡なれ。灘の大波はてしなく、/水や天なるゆら ゆらは、うつし心の姿にて、/底ひも知らぬ深海の潮の 苦みも世といづれ。/さればぞ人は身を映す鏡の胸に飛 び入りて、/眼に抱き腕にいだき、またある時は村肝の/ 心もともに、はためきて、潮騒高く湧くならむ、/寄せ てはかへす波の音の、物狂ほしき嘆息に。/海も爾もひ としなみ、不思儀をつゝむ陰なりや。/人よ、爾が心中 の深淵探りしものやある。/海よ、爾が水底の富を數へ しものやある。/かくも妬げに秘事のさはにもあるか、 海と人。/かくて劫初の昔より、かくて無數の歳月を、/ 慈悲悔恨の弛無く、修羅の戦酣に、/げにも非命と殺戮 と、なじかは、さまで好もしき、/噫、永遠のすまうど よ、噫怨念のはらからよ。
 この詩のことにも前半部分、海への親和に満ちた情感は『海の聲』序文の海に向ける心に非常に似ていると言えよう。海に感じる希望と不安、「自由」であることの象徴としての海、海に向かうときに現れる人間の姿。たゆたうように海に向かって独白し、自らの姿をそこに見ようとする姿勢はボードレールの心境と通うものがあろう。
 しかし、牧水に欠けているのは後半部分から暗転し、より内省的になってゆく部分である。ボードレールが「修羅の戦酣」、「非命と殺戮」と人間の歴史の悲惨を想い、海に人間の暗部が映し出されると見るのに対し、牧水はそうした翳りを海に見ない。まさに日露戦争が傍らで戦われた渦中で書かれた牧水の海の歌、海へのオマージュには人間の歴史や社会に値する普遍的な物思いの翳りがないのだ。啄木と比較するなら、啄木は反対にこの詩の前半部分の海への親和感が無く、後半部分の内省の翳りから出発したとも見える。それゆえ啄木の「東海」は、映像的効果を持ちつつ同時にむしろ社会的な日本の位置を表す言葉として読めなくもない。啄木が以後社会運動に傾斜して行く要素のようなものはこうした影響の受け方にも現れている。比喩的に言うなら、この詩の前半部分を読んだ牧水、後半部分を読んだ啄木ということになろう。
 この、牧水に欠けているものは『海の聲』以後の牧水を大いに悩ませることになるが、ここでは触れ得ない。牧水が果たした役割について考えるとき、この欠落は翻ってその特色として語ることが出来るのではないか。海を「身を映す鏡の胸」と語るボードレールの詩には、タイトルの通り「人と海」とが対等に向き合う関係が描かれる。海に自らの姿を映し見るという一対一の向き合い方、その姿勢において西欧近代の特色が現れているとも言えよう。それに対し、牧水は海を相対化しない。混沌とし、また茫洋と迫ってくる海と牧水とはどこからか一体化し、海は牧水の憧れとなり、また恋そのものともなってゆく。「無限の声の不安」と語られる時、その不安は陶酔と一体であり、不安の正体がボードレールのように見つめれ捉えられるわけではない。牧水の海は比喩としての海ではなく、自然であり、その自然の一部としてある自らを確認する契機であったと言えよう。牧水は『海潮音』に影響を受け、感性の扉を叩かれたが、その本質に抱えていたものは西欧詩とはおよそかけ離れたものではなかっただろうか。そこが牧水の特色であり、さらには日本近代の性格の何かに繋がるものであるような気がしてならない。
 牧水にとって海は心に馴染み、体に馴染んだ生活そのものであった。日記や書簡を見ていると、牧水の非常に活動的な生活の中で海はしばしば現れる。川を下り鯔漁に行った記述、試験が終わったら「海岸生活」を始めたいと訴える手紙、汽船での帰郷や上京。牧水が学生生活を始めた当時の交通機関として鉄道と共に汽船は重要な手段となっている。牧水は好んでこの旅を楽しみ、ことに船での記述は生き生きとしている。その汽船での行き帰りの途上での歌を『海の聲』から引いてみる。

 

 大隅の海を走るや乗合の若きが髪のよく匂ふかな
 船酔のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり兒よ
 風ひたと落ちて眞鐵の青空ゆ星降りそめぬつかれし海に

 

 これらの透明感、伸びやかな空気は後に恋人と共に房総の海岸で詠われる恋の歌とすでに地続きである。

 

 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
 君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ

 

 牧水の恋は人間への恋なのか海への恋なのか判別しかねるほど海に拠っている。牧水の牧水の中でもう充分に満ち、出口を待っていた抒情が恋という契機を得て噴出したかのようである。その海と恋の歌は、汽船の中での歌の発想を遠く下準備としているように見える。例えば若い母親に抱かれる子供の海への歓びが、恋人に抱かれ海を歓喜する気分とどこかで繋がるように。牧水を代表するこうした恋の歌は、比喩ではない。それは故郷での生活の中で培われた潮の香りであり、あるいは汽船での船旅の経験によって広がった海へのイメージなど、もっと直接的な海への親しみから来たものだ。ボードレールが詠った海が人間を映す「鏡」という比喩であり、知性であるのに対し、牧水の海が混沌と輪郭のない明るいエネルギーの塊でありつづけるのは、こうした経験的な海への親和感がその根本に据わっているからではなかろうか。牧水の海はあくまでも自然そのものなのであり、その自然への親和感が牧水を海に呼び寄せるのだ。
 牧水がこのような海の表現に至るにはこのように、もともと持っていた経験や資質、そしてもう一つがやはり近代西欧詩の影響という二つの道筋があったと考えるべきだろう。近代文学において海がそれほど貧弱であったとすれば牧水の海がここを頂点としてのち消えてしまうことと重なる。あるいは近代文学における海の問題は、その海に相対する自我の問題ではないのだろうか。海によってなにか別の扉が開かれることが出来るかどうか、もしそれが出来れば表現の視野に海が入ってきたことになる。逆に言えば牧水の海の歌には何か新しい扉が開かれそうになり、新しい自我の萌芽がありながらそこで潰えた何かがあるように思えてならない。

 

 わが生命よみがへり来ぬさびしさに若くさのごとくうちふるへつゝ

牧水『海の聲』

 わがほどのちひさきものゝかなしみの消えむともせず天地にあり

 

 牧水の牧水らしさ、『海の聲』のエッセンスのようなこうした歌を近代短歌史の中にぽつんと投げ入れてみるとき、この「生命」への明るい肯定、「天地」の広がりへの意識は際だったものに見える。あるいは初めからこうした抒情の方向が孤独であるかのように。
 近代詩歌のイメージを思う時、こうした牧水的「私」と啄木的「私」のどちらが以後の短歌の主流となったかは明白であろう。日本の近代は、「私」を外界に解放することによってではなく、深く身を屈め外界と対立する道を選んだ。写生であれ自然主義であれ、それらはどこか根本的なところで自然や人間への親和感を欠いている。世界への親和性に根ざした詩歌の世界の可能性は牧水以後途絶えてしまったと言ってもいい。一方で西欧近代のような神そして社会とのたゆまぬ対話や契約による「自我」もうまく形を成さぬままに終わった近代。人間の可能性や歓びが小さく剪定され、良くも悪しくも人間を謳歌する時間も持たなかった近代。それはまるでようやく羽化しながら、啼くことを禁じられた蝉のようだ。日本近代の「私」はいわば未熟児のようなものであろう。俯きがちに「私」の映り込む小世界を見つめ続けるかのような歌、ささやかであり微少である世界を描くことが「私」の発見だと信じて止まなかった日本近代の不思議な慎ましさを私は思う。
 そうであれば牧水のこの「私」、殊にも『海の聲』に現れる「私」の外界に対する開け方は文学史の上で以後現れることのなかった在り方とも言えるのだ。明治の一時期に開けた詩歌の可能性を牧水は抱えていた。それは、近世和歌から近代短歌への狭間で一つの方向を示唆しながえらあえなく潰えた方向でもある。その牧水の特質、初期牧水の果たした文学史的役割について少し立ち止まって考える必要はないだろうか。