たとへば雲に翔ぶ鳥の
わかれては逢ふ
空の道
かな
『草附にて』よりの一篇である。大岡はこの詩集のあとがきで、〈私は自分の詩が「箴言」と「うた」という二つの大きなテーマによっていやおうなしにしぼりあげられているのを感じる〉と述べる。「箴言」や「うた」とに分けるならば、この一篇からは「うた」のテーマをより多く受けとれるように思う。それは「箴言」のテーマに入ると思われる次の一篇と比較することでよりはっきりする。
一羽でも宇宙を満たす鳥の声
二羽でも宇宙に充満する鳥の静寂
「うた」のテーマに入る「双眸」は、これに初句を加えることによってまぎれもなく短歌となる。大岡は、この詩集で、形式としての自由詩というものを追求し、そのギリギリの立地点を探ろうとする。ここでは初句を省くことでによって短歌と詩との境界を示しているのだと言えよう。しかし、初句のないこの〈詩〉が、それでも短歌的な余韻を引きずってしまうのは何故なのか。
一つには、「双眸」が七七のリズムで終わっていることにあろう。七七のリズム、或は少なくとも五句めを七音で終わるということは短歌で破調を収めてゆく際にも重要なポイントとなる。
三年寝太郎ならば許さぬ三年飛ばず鳴かずも許さぬ もっと眠れよ
この著しい破調も、最後の七音によってすっきりと短歌へと回収され得ている。また、「双眸」が文語で書かれている点もこの詩を短歌的にしているといえるだろう。
しかし、私がここでより語りたいのはこれら以外のもう一つの問題点についてである。それは、〈たとへば〉〈かな〉といった言葉の存在が、この詩を短歌的にしていないかということである。他の精密に意味を帯びる言葉たち、それだけならば、むしろただちに〈箴言〉として読まれうるような言葉たちにそっとつき添って、この二つの語はいかにも無用なようで、そしていかにも自由である。〈かな〉はその語意からだけ考えれば感動を表わす終助詞なのだが、この詩の抑えるような静けさは、かな、という感動をほとんど限りなく無に近いものにしている。そして〈たとへば〉の一語は、それが文字どおりの、例えば、であるよりも色濃くこの短い詩をゆっくりと切り出すための作者の息づかいとして響いているのだ。これらの二語によって、この詩は、まぎれもなく〈うた〉のテーマに傾いてゆく。
〈箴言〉をテーマとする前に掲げた「ライフ・ストーリー」が、稠密な意味の建造物であるのに対し、〈うた〉である「双眸」が無意味であるような言葉を含んで〈うた〉となり、限りなく短歌的であったことは、短歌にとって意味を荷わない言葉というものの存在がとても大きいことを物語る。それは、形式のうけから言えば、言葉をいくらでも増やすことの可能な自由詩の場合よりもずっと切実で重大な問題であるはずだ。枕詞や序詞によって一首のうちに意味を成さない言葉を多く持ち込んだ古典の技法は、短歌を〈うた〉たらしめるための知恵ではなかったか。現代において〈うた〉うということはどのように可能なのであろうか。
最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
表現されるべき風景は描いたのち、口ごもるように、余白のように長い〈けるかも〉。この言葉の存在によって、外界に広がる勇壮な風景は、陰陰と作者の心の内側にこもってゆき、翻って風景は作者の心中そのものとなる。この〈無〉意味の言葉は、表現のうちに作者の影を割り込ませ、外界の風景を作者のものとするための鍵として働いている。そして〈けるかも〉は他のどの言葉よりも茂吉の体臭を帯びてそこに在る。このことを一言で文体として語り終えてしまうのは、いかにも寂しいし、不足なのだ。
これは助詞や助動詞の効果に限らない。はっきりとした意味に結実していかない言葉、むしろその言葉に一首の重心を預けてゆくことで、限りないふくらみを醸す歌がある。
あゆみ鶴はるかに見つつ近づかぬわれや暗暗(あんあん) 鶴や暗暗
〈暗暗〉という言葉は、単に暗いという意味を示す以上に、むしろ、生命や存在のもつ底の知れない根源的なものに触れている。そしてそれは〈あんあん〉という音のほうが直観的に作者の体から発語されたものであるようにも思う。
書かれた言葉がうたい始めるとき、そこには詩として意味を構成する以前の、作者の体と一体化した言葉というものが存在すると思う。そしてその言葉は作者の声、息、皮膚、目といった肉体や、真裸の心と親密であるゆえに、表現のうえでの意味を荷うより多くその意味をかぎりなく曖昧にし、外れてゆこうとする。
サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ
狂人に付き添う覚醒者としての悲哀、現代の個人の孤独、さまざまなものを、喩としての〈サンチョ・パンサ〉に読みとることが可能である。しかし、作者がこの言葉にかけたはるかな思いは、作者自身ですら語り難いに違いない。そして結果としてこの言葉は、物語中の一人物の名という枠を外れて、一つの言葉として、主のない名として、無の存在感を得る。
意味性に傾きがちな現代短歌が、うたうということを確保し得ているのは、オノマトベや、リフレインの技法に多く見られる。むしろ、意味の呪縛ゆえにこれらの技法が多く選ばれるのかもしれない。しかし、それらの技法によって、単に一首が薄められるだけに終わることも少なくない。〈無〉意味の言葉は、限りなく重くなければならないし、むしろ定型という器は〈無〉意味の言葉をうまく抱擁することによって限りなく大きな器に変貌する。〈うた〉うことの可能性はそんなところにないだろうか。限りなく重く大きな無。定型という形を選んだのはその無に及びたかったからかもしれない。