個性と普遍性をつなぐもの

 

 喉仏あらはなあなた 切崖のやうな男の寂しさを見上ぐ

河野 裕子 

 全天の紅葉(もみぢ)を仰ぎひつそりと圧(お)されてゐたる男(を)ののどぼとけ

小池 光 

 はじめて君が嘘を言いたる十八歳の日の口唇(くち)も喉ぼとけもわれは忘れぬ

松実 啓子 

 黒ビール飲む男らののどぼとけ悲哀のごとし夕闇にゆらぐ

松平 盟子 


 歌を読むとき、頻出する語に出逢うことが多い。右に掲げた四つの歌は、いずれも男の喉仏を扱っている。これら〈喉仏〉がそれぞれの歌の中で全く違った質感やイメージを与えられているかというと、私にはそうは思えない。むしろ〈喉仏〉という言葉はたったひとつの共通したイメージのもとに使われており、四つの歌はともに男の矜持、男の強さといったものをひっくり返して、寂しさと見ることでほぼ一致している。〈喉仏〉は、その語の単位では、男らしさ、男性の象徴として固定したイメージを荷って表われている。このことは、まさに喉仏の存在、素材としての言葉そのものから発した実感を伝えるより多く、この語が現代の短歌社会の中で、すでに固定した意味性を帯びて共通のイメージの下に使われ、受けとられていることを示していないだろうか。私はこれらの作者の作品全体を、この一首で批評しようとしているわけではない。これらは現代のすぐれた作家の作品であり、それを見ていくことで、現代短歌が前衛運動以降抱えてきた問題を探ってゆく手掛かりとしたい。
 言葉の帯びるイメージの固定化、意味性の硬化は、短歌史がその長い歩みの中でくり返し経験してきたことでもある。今また前衛短歌運動以降を探ってみると、この傾向が少しずつ顕著になりつつあると思う。一方ではカタカナ文字に代表される流行語の持ち込みが盛んに云々されているが、その一方で詩語として選ばれてきた言葉の硬化が進んでいる。歌を作る者もそれを読む側もひとつの言葉に対するある固定したイメージなり意味性なりを共有することによってその歌を理解しようとする。そこでは言葉は生の素材としてよりも、すでにひとつの固定した喩として存在していないだろうか。例えば〈春〉であればおよそ〈青春〉へとその理解を誘導するような暗黙の了解は、作者と読者にとどまらず、作者と作者、さらにすすんで歌と歌との間でさえできつつあるのではあるまいか。
 言葉が少しずつその素材としての性格を固定した喩に近い性格に変えてゆく移り変わりを大まかに次のように見ることもできる。

 晩夏光おとるへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて

葛原 妙子 

 よみがえりくる怒りあり時雨れいる午後をしきりににおう酢の壜

伊藤 一彦 

 自己愛もままならずわれ酢の匂う家内に重く腕垂れて佇む

米川千嘉子 


 書かれた時代順に並べてみた。葛原の歌では酢そのものの存在により執着し、そのイメージをギリギリまでふくらませている。伊藤の歌では、上句を受ける形で、いわば上句の自己の状況を具体物に見とり言い換える形で一首をふくらませている。米川ではさらに〈自己愛もままなら〉ぬわれをとり囲む状況比喩としての要素が濃くなってくる。〈酢〉は葛原の蒸れ匂いたつ酢のイメージをひきずりながら、次つぎに別の作者へと渡されてゆく。掲出歌はいずれも酢のイメージをうまく生かし得ている。しかし、ひとたびイメージの定まった言葉をそのままの形で引き受けてゆくことのくり返しの先に待っている情況も考えてみなくてはならない。冒頭の四つの歌は、その作者たちが、そうした固定化した〈喉仏〉のイメージなり意味なりを疑わず自らの歌にとり込むことによって、歌意そのものまでが類似性を帯びてきてしまっている。そしてまた逆に、どの歌を読んでも同じ〈喉仏〉が出てくる故に〈喉仏〉という言葉から受ける衝撃も薄くなり、それが次第に詩を痩せさせてゆく、そんな悪循環に陥っていかないだろうか。
 むろんそうした言葉のひきずっている定まった意味なりイメージなりを言葉の厚みとして受けとり生かしていこうとする方法もある。そしてそういう方向での成功を見ることも忘れてはならない。

 歳月はさぶしき乳(ちち)を頒てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて

岡井 隆 


 この歌では〈乳〉も〈花〉もあらかじめ、子を育む豊かな滋養として、また華やかな季節の凱旋の象徴として読者との間に既定の予解を結ぶことを土台として使われている。その了解の上で、豊かなはずの〈乳〉を〈さぶしき〉とひっくり返し、またそれを〈歳月〉と組み合わせる意外性によって新鮮な力を持たせている。しかしこの歌の成功は、言葉の単位から考えると、ある危ない位置での実りではあるまいか。言葉は強い屈折に強いられ、〈乳〉は〈花〉は、それが示す実体からはるかに遠い。〈乳〉と呼ばれた〈乳〉は私達の五感をしだいに離れ、むしろ観念としてとりあえず了解されて、かけられた技法のマジックの巧みさによってその位置を得る。むろんこの歌の成功は、作者の内面の思い沈みの複雑さと深さに裏付けられているからでもある。しかし、もしこういう試みだだけで言葉にそれなりの衝撃力を与えようとすれば、それはより複雑な技法から技法へと細い道を登りつめていき、ある時点で読者を取り残してゆくことにもなりかねない。
 言葉は、日常社会においてはいわば貨幣のように特定の特定の意味を誤ちなく伝えればそれで足りる。人と人との間を共通の了解のもとに一つの記号として往来できれば良い。しかし詩にとっての言葉がそうした共有性をたやすく帯びてしまうことは、詩の小宇宙をそれを構成する言葉のレベルで崩してしまうことでもある。詩を書く者が言葉を操ろうとすること、それは言葉の持つ記号性、共有性といったものを可能な限り退け〈私〉の内で再生してやることでもあるのではないだろうか。詩を読もうとする者、詩を書こうとする者の志の多くは言葉を発見してゆこうとするエネルギーにも支えられているはずだ。詩空間、一首の歌、を組み立てている言葉のそのものの面白さや、言葉を素材として生かしていこうとする意欲のことを考えてみる必要はないだろうか。
 先に現代短歌の一方の試みとして言及した、カタカナ文字に代表される新しい言葉の持ち込まれた歌について考えたい。

 夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで

仙波 龍英 

 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

俵 万智 


 新しい言葉について語られるとき必ずひき合いに出されるこれらの歌を今また引き合いにすることに少しためらいを覚えるが、二つの歌はそれぞれ〈PARCO〉や〈カンチューハイ〉を持ち込むことで現代性に対応しつつある程度の成功を収めている。その試みに共感しつつしかし、〈PARCO〉が例えば〈ルミネ〉に変わっても大差なく、〈カンチューハイ〉より新しい何かが出てくれば少し気恥ずかしくなってしまうようなもろさを隠しきれないのではないかと思う。持ち込んだ言葉そのものへの執着の薄さ、俵の歌には流行語を歌の中でも流行語として流してしまうあっさりとした作意が、仙波の歌には、持ち込んだ言葉を作者自身が信じられないでいるようなアイロニーが透けていないだろうか。新しい言葉を意欲的に持ち込む、その試みが成功し一つの言葉の発見へとつながってゆくためには、少なくともその言葉に作者の強い執着、心酔が感じられねばならない。
 言葉への心酔、それは言葉をわがものとすることでもある。言葉をそれが流通している社会や時代から切り離し、とりあえず自分の世界へ抱き込むこと。ともかく一たびその作業を通過させることなしには、詩の中での言葉の位置は得にくいのではないだろうか。これはむろん、一方では危険な提案であるのに違いない。

 一夜きみの髪をもて砂の上を引摺りゆくわれはやぶれたる水仙として

河野 愛子 


 この歌での〈水仙〉はどのようなものとして考えれば良いのだろうか。私たちの言葉の記憶の内に蓄積されてある観念が通用しないこの〈水仙〉はひとたびその実体へ帰してやるほかない。日常見慣れているあのすいと伸びた植物を想い、イメージを表現されてあるままに描きつつ味わっているうちに、自分の内にひそんでいるある感情とそのイメージとがすっと手を結ぶ。そしてこれはえもいえぬ慟哭の感情をそのままイメージ化した歌ではないかと気付く。〈水仙〉はその慟哭の心の化身なのか。それにしても作者の心の奥深くで起こった心の出来事を、他人である読者が受けとれるというのはどうしてなのだろうか。それはこの歌が万人の心に起こりうる普遍の感情、例えば悔しみを入口としてこの心の出来事の内に読者が入り込めるよう配慮されているからである。そこを手掛かりとして読者は描かれた場面を自らのものとして心のうちに再生することができる。自分の世界に抱き込んだ言葉を、もし抱き込んだままにしてしまったならば作者と読者の関係はそこで断たれてしまうであろう。しかしその危ない一線を普遍性によって回避している。〈水仙〉はまず素材そのものの水仙を思い描くことから出発しながら、そのイメージを通過して日常の平凡な花としてでなく、またあらゆる観念を振り払って新しく言葉の記憶のうちに灼きつけられることになる。
 だが、こうした普遍性を手掛かりとして言葉を個人の内で膨らませる方向については、当然のことながらその普遍性への寄りかかりへの批判が予想される。永田和宏は、『解析短歌論』の「普遍性という病い」の中でこう述べている。
 《個々の体験、個々の現実、個々の生活といった個別性は極度に抑えられ、個別的な具体と具体のあいだを通底しているはずの〈真実〉なるものにむかって、感性は一様に研ぎすまされていった。感性の微妙な差違が拡大され、そこに想像力を最大限にはばたかせる。想像力の自己増殖には、それ自身歯止めは効かない。ある日ふと気がつくと、どれもこれも似たりよったりの抒情の、ヴァリエーションばかりを読まされている気にもなる》
 もっともだと思う。しかしここで永田が《個別的な具体と具体とのあいだを通底しているはずの〈真実〉なるもの》と呼ぶもの、つまり私がここで普遍性と呼んでいるものの把握自体に問題はないだろうか。あるいは、永田の把握に問題があるというよりは、その〈真実〉を共有しあっているはずの作者自体にあると言うべきであろうか。例えば冒頭の四首が、男の寂しさをとらえることでほぼ一致してしまったような、或る物の見方、その固着化こそが問題である。ある時点で把握、提示された観念、あるいは真実といったものを、
 男→喉仏→寂しさ
 のようにそれを表わす代表的な言葉ごと丸飲みにしてしまうことの問題性である。いきおい歌は個性を失ない似通った抒情を堂々めぐりすることになる。何らかの方法でひとたび表わされた観念なり真実なりを納得することは、物わかりがいいようで実は危険なことであるのに違いない。前衛運動を考えるとき、それは、塚本にしろ寺山にしろ春日井にしろ、ほとんど暴力的にさまざまな言葉を自らの内にとり込み実らせていった時期であったといえる。言葉を、それにまつわるものから解き、しゃにむに自分の歌世界のものとしていった。そうした激しい気負いを失いつつ、作者は既存の観念に対してものわかり良くなり、その観念をそれを代表する言葉もろとも了解し共有してきたのではないだろうか。
 普遍性と呼ぶもの、或は〈真実〉と呼ぶものを手掛かりに、自らの内に強引に抱きとった言葉を読者に手渡そうとする方向は、その普遍性なり〈真実〉なりが一様の固着したもの、観念である限り、永田の言うような〈似たりよったりの抒情の、ヴァリエーション〉となる運命を逃れられない。しかし普遍性といえるものは、果たして読者や作者、或は詩と詩との間でもうすでに了解されてしまってるものに尽きるのであろうか。

 月てらす河を踰えつつししむらのうちなる鳥も目をひらきをり

高野 公彦 

 悲しみの姿勢のままにわがみたる蝕(要・旧字変換)尽の月の銅色の影

山中智恵子 


 これらの歌を、私達がどこかで良い歌だと感じるならば、そしてそれを不明のものとしてでなく、むしろ説明の仕様のないクリアな、情念とも感性とも観念ともつかぬもので味わおうとするなら、その説明のつかぬものこそが読者も作者も超えた〈私達〉の共有している普遍性であり〈真実〉なのではあるまいか。
 普遍性とはすぐれて未知のものである。そしてまた普遍として_まれたものはただちに混沌へと帰ってゆく。そこへの直截な挑戦をおしまない歌を私は大切に思う。

 水族館(アカリウム)にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を産む器

坂井 修一