ラビュリントスいよいよ深く

— 坂井修一歌集『ラビュリントスの日々』読後評 —

 

 ひらひらと渡りてをみな月揺する浮桟橋よわれの余生よ

 若さを余生と呼ぶ若さ、そのしたたかな若さのありようはこの歌集の手応えの一つである。若さの極みと老いの極みとはどこか非常に近いのではないか。坂井はたぶんそんなうそぶきを込めて己が若さを見つめている。若さと老い、この両極を巧みに結ぶ感性は、科学者たる自分とそれに相対する、歌人たる自分をも細く強靱な糸でつないでいるのではあるまいか。そうした対立するものの両極をすばやく往来する瞬間の理知はこの歌人の得手なのである。
 父と子、科学と文学、男と女、坂井の周りのあらゆる対立関係、彼をラビュリントスに在らしめている緊張の構図を可能な限り知り尽そうとする理性は鋭く、痛い。しかしおそらくそうした理知にまさる知られざる理(ことわり)、未知への深い畏敬が坂井を太々とした歌人にしているのだと思う。

 もの言はず満山紅葉なだれゆけここ明暗の〈暗〉のはじまり

 踏み込めば〈暗〉としか呼びようのないもの、言葉によって予知し仮装するしかないある厖大な未知に向うとき坂井の言葉は息づくように思う。執念く言葉をにらみ、その言葉から絞り出した油のような情念が彼の歌の内なる炎なのであろう。〈知〉という真実、〈未知〉という真実、世界は常にこの二様の真実に裂かれてある。そして言葉もまたこのふたつの背中合せの真実を孕んである。坂井はこの言葉の意味と反意味、可能と非可能とを深くさぐろうとする若き才人なのだ。

 雪でみがく窓 その部屋のみどりから
 イエスは離(さか)りニーチェは離る

 心震うよな透明な巻頭歌から、次第に沈痛な淀みを抱えた歌が増えてゆく。可知であったはずのものを再び混沌へ還さんとする意志、さらに深いラビュリントスへと踏み込もうとする情念をひたひたと感じる。