想像力の責任

— 女流の現在 —

■特集/ロマンティシズムの系譜

 

 ロマンチシズムや浪漫精神の核をどこに見るかは様々に考えうる。考えようによっては詩が詩として成り立つとすれば、そこにはなにかしらロマンに導かれた精神があるのだとさえ言うことも出来るだろう。そのうえで、あえて女性の短歌作者にとってのロマンチシズムとはなにかを再び問うとき、私はごく直感的に、私が今居る〈ここ〉より他のはるかな地である〈あそこ〉を夢見、想う、心のたゆたいや幻想の力を思わずにいられない。

 乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き

与謝野晶子 


例えば与謝野晶子のこの歌に、現在なお溢れるようなエネルギーを感じるのは何故なのだろう。下の句の力強い言挙げは印象的であるし、また、当時としては衝撃的であったに違いない〈乳ぶさ〉という言葉のインパクトも見逃せない。しかし、こうした心身が一体となった恋愛の情感の〈ここなる花の紅〉の色濃さをきわだたせ、根本のところでその発想を支えているのは、〈神秘のとばり〉という、かそかな語ではないだろうか。
 このしじまこそは、〈乳ぶさ〉という即物的な一語を官能の花に昇華させる力を秘めた他界である。ここにある肉体が官能の花として輝くのは、〈神秘のとばり〉のときめきを予感として受けるからであり、〈そとけり〉という動作は、そうした他界へのおののきに満ちた踏み込みを感じさせる。
 晶子の浪漫精神が、その生きた時代の恋愛や官能の開放に対する圧力のものにあって、その圧力に抗するという時代性に深く関わっていたことは、もうひとつの大切な要素である。しかし、晶子にはこのとばりの向こうに新しい時代が予感されていた。そうした未来への予感や詩的な磁場である他界との往還なしには、〈ここなる花の紅〉の緊張感も昂揚した感覚もありえなかったはずである。晶子の浪漫精神の核はここにあったのだと思う。
 ロマンチシズムの流れを女流の作品に辿るとき、与謝野晶子のこの他界への予感に満ちた存在感は、明治という時代の独特の香を濃厚に匂わせつつも、あながち遠いものでもない。〈ここ〉から〈あそこ〉を想うエネルギーは時代を違えながらも伏流のように女流の作品に流れ続けており、その時代時代においてどのように〈あそこ〉を想うことが可能なのかを模索し続けることによって、女流達は時代を描いてきたとも言える。
 これを逆に見るならば、女流達の多くは、時代や状況を直接に歌うことよりも、いかに自らの身体や心のうちにそれを刻みつけ、ロマンへと昇華し展開するかということにその努力を向けてきたといえるだろう。

 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ

山中智恵子 

 しずめかねし●(いか)りを祀る斎庭(ゆには)あらばゆきて撫でんか獅子のたてがみ

馬場あき子 
 

 この二つの歌に現われる、〈行きて〉と〈ゆきて〉には重要な意味があるように思う。山中の歌については、私は初め〈行きて〉を〈生きて〉と記憶していた。そう記憶することによって、この歌を人生上の悲哀とそれを背負ってなお生きようとする覚悟の歌であろうと解釈していたように思う。もちろん〈行きて〉は〈生きて〉に掛かり、そうした意味にも籠もるのだが、まさに行こうとする意志的な動作が示されることによって、この歌は●言としてよりも、より有機的に心の様態として働き始める。今まさに足を向けようとしているその先に待つであろう、かなしみの幽暗な気分、ここに鳥髪の天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の神話を重ねて読むことも出来るであろう。そうした神話の重層した世界を感じさせつつ、この歌からはそれが書かれた時代をへて遙かな未来へと続く一筋の、意志に支えられた道を私達は思わせられる。
 また、馬場の歌では、しずまらぬ●(いか)りに堪えつつ●然と居る獅子が想像されているが、この〈斎庭(ゆには)〉は、歴史上から、あるいは、状況という〈ここ〉から消されていった者達のやりどない心の集う場所でもある。作者はそうした心のありかである〈あそこ〉をありありと想い描くことによって、現実の世界での時代の心情を暗示すると共に、伝説の世界に眠る者達の心に迫ろうとしている。ここで印象深いのは、〈ゆきて撫でんか〉と自らの心が動作として示されていることである。今にも差し延べられそうなその手の所作への願望は、〈あそこ〉と〈ここ〉との間に放たれたまま永く熱い。
 この二つの歌は、背景となる時代をバネとしつつ、ひとつの時代の感情をより恒久的な情念へと昇華し得ている。このとき、〈行きて〉や〈ゆきて〉はまさに〈あそこ〉と〈ここ〉を繋ごうとする所作として、ロマンチシズムのエネルギーそのものをあらわしているともいえる。
 このように、晶子の歌からこうした歌につながっているロマンチシズムには、背景として禁忌や緊張をともなった時代があり、そうした時代性から生み出された願望が、ロマンの契機となったと言える。そしてさらにはそうした時代性に加えて、自らの心の熱さ自体が動機となって他界と現実とが混沌となった世界を形づくってゆく。それは多く恋の歌として実り、ロマンチシズムの世界展開の大きな力となってきた。

 われを呼ぶうら若きこゑよ喉ぼとけ桃の核ほどひかりてゐたる

河野 裕子 


 ここで描かれている対象は、声やからだの一部分であり、そのほぼすべては摸●としている。そのわずかなからだの一部分でさえ、〈桃の核〉という比喩に包まれることによって、いっそう人物としての具体性から遠ざけられる。この比喩は、対象が人間の男であることを確かにしながらも、イメージの重層によって、さらにそれが不可思議ないきものであるかのような印象を与える働きをしている。こうして遠ざけられ断片となった対象は、一人の普通の男ではなく、未知の世界の住人である。〈ここ〉にいる作者と、〈あそこ〉に棲む男、その世界の落差こそがこの歌に張りつめ、昂揚したエネルギーを感じさせるのだといえよう。

 弧と弧生き生きとしてやみがたくくちづけて鳴るかぎりなき技

米川千嘉子 


 こうした個と個との隔たりを意識的にテーマとしているのが米川の一首である。〈弧と弧〉は、孤独な魂である我と汝であるとともに、また、自我の意識に目覚めた者の自負と自負とのぶつかりあいでもある。それゆえに〈生き生きとしてやみがたく〉なのであり、我と汝との距離を見取りつつ、くちづけという動作を通じて、瞬間にその距離を越えてみせる心の動きがダイナミックである。ここでは、自我に対する知的な認識を情で越えようとする攻めぎあいがあり、その力の拮抗が〈あそこ〉と〈ここ〉の緊張感を生んでいると言えるだろう。
 これらの歌には〈ここ〉にたいする〈あそこ〉の確かな存在感が備わっており、その隔たりを越えようとする心の動きや情熱がロマンの世界を展いている。こうしたロマンの精神は、一方ではこのように現在まで流れているといえるが、また一方では、そうした他界と現実との関係自体が、時代を背景に揺らいでもいる。

 炎天にガリバーは来て踏みやらむ葡萄のごとき頭骨の群れを

辰巳 泰子 


 〈朝礼〉という詞の付いたこの歌には、浅薄なヒューマニズムの観念の脈絡を外れた妄想がもたらす快感があるが、また、その快感のゆえにある閉塞感をもたらしもする。この妄想の無惨さは、それが現実には起こらないことによってのみ快感となりうる。妄想はひとときの空想としてあっけなく消えてゆき、後は〈頭骨の群れ〉に向かって人類愛などを説いているかも知れない、そんな空しさが漂う。むろんこうした空しさはこの歌の欠点なのではない。この現実との関わりを断たれた妄想のエネルギーは、自我の内側に向かってそこに眠っている心の、見えない部分を引き出す働きをしている。そのことによって、この歌は存在感を得ていると言える。
 ここで考えておきたいのは、空想や妄想といった世界と、現実との間に関係が結びにくい現実の閉塞感についてである。ロマンチシズムの不可能とは、現実である〈ここ〉と、空想や願望による〈あそこ〉との心の往還の不可能を言う。こうした現実との関わりを失った幻想世界の断片は現在無数に散らばっているし、それらからロマンの不可能な時代を読み取るのはたやすい。
 だが、現実との関わりを失い、時代の圧迫感を失った分だけ自在で奔放な幻想世界は、逆に現実の閉塞感や空虚さを映し出すことになっているように思う。そこでは、また別の現代のロマンティシズムと呼ぶべきものが育っている。

 世界樹の繁りゆく見ゆ さんさんと太陽風吹く死後の地球に

井上 朱美 

 宥(ゆる)されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら

水原 紫苑 

 春の暮れ神を毒殺し了はんぬゆすらゆすらのゆすらうめかな

紀野 恵 


 これらの歌は、すべて幻想であり、その自在さとイメージの豊かさは充分に楽しい。
 井辻はブッキッシュな幻想世界を多く描くが、ここではSFのような明るく硬質な映像が死後の世界のイメージを新しくしている。太陽風は、さんさんと吹くようなうららかなものであるはずはなく、人類の消滅の後に繁る世界樹というのも、人の観念の敗北を想わせて、考えてみればこれ以上寂しい想像もない。しかしこの歌に満ちているのはそうした世界への親和であり、穏やかな予感のようなものである。
 水原の歌では女性としてのからだ自体が失われていることが印象ぶかい。〈生みたし〉は、願いのかたちをとりながら、それが、人間臭の濃い命への願望ではなく、失われたからだの淡い輪郭を浮かび上がらせる呟きでしかないことは明らかだろう。
 この、なにかが欠落している感じは、次の紀野の歌についても言える。紀野の擬古的な文体は神の毒殺という刺激的な物語を引き出しているが、あらかじめ信仰の対象となるような神があったわけではなく、また、近代の明星派が盛んに用いた、西洋の香りをまとったエキゾチックな気分を伝える神でもない。むしろ挿話的に神にイメージを持ち込み、そこに毒殺という言葉を衝突させることで、全体としては春の夕暮れの甘美で危うい気分を引き立てていると言えるだろう。ここに在るのは、〈ゆすらゆすら〉という音韻に導かれてイメージされる、ゆすらうめのふさふさとした繁りと、観念の象徴としての神の不在感である。
 これらの歌には、繊細に感知された〈あそこ〉の世界の感触はあるのに、決定的に〈ここ〉がないのだ。
 そして共通して感じられるのは、ある予感をともなった空虚なイメージである。一首目の井辻の歌には明らかであるが、ここでは共に、人類や私や神といった重大な主体の欠落の後の気分が予感され、空想としては途方もないものでありながら、感覚としては不思議に浸透力をもっていることが感じられる。ここには、未来への予感が遊びのように動いており、〈ここ〉の不在感をきわだたせることによって、〈あそこ〉である幻想世界は代わりに感覚としてのリアリティーを増すという構造が見えるように思う。
 ここには、先に見たような、〈ここ〉から彼岸へ渡ることを願うような、ぶ厚く熱い情は見られない。むしろ明るく冷めた感性と観念との戯れによる、時代性の感知にその特色はある。〈ここ〉の空虚さや閉塞感を背景として現われるこれらの歌は、現在という時代に付き添っている、陰画のようなもうひとつの現在を、いかに感知するかという方向に向かってその感性を開いているように思う。
 〈ここ〉の不確かさや希薄さは、結果的に現実から他界へという精神の運動を弱々しいものにしているし、それゆえの危うさを感じさせもするが、こうした方向は現在という時代を背景としたひとつのロマンチシズムであるといえる。
 〈ここ〉と〈あそこ〉の関係の希薄さ、揺らぎが、歌からダイナミックなエネルギーを奪っているとすれば、それをいかに取り戻すのか、あるいは、それに代わる何を歌の魅力として付け加えるのか、現在の課題の中心はそこにあるとも言えよう。〈ここ〉よりより良い〈あそこ〉を予感することの困難が、一つの時代性として作者達を覆っている。その息ぐるしさに堪えながら、いかにこの世界の向こうの世界を想定するのか、そこに現在の作者達の困難も努力もある。

 今ひとつ願いを言わば薔薇色に髪を染めたし●かせてみたし

松平 盟子 


 松平の歌では〈願い〉として差し出された内容が奇矯であるゆえに、逆に現実の痛ましさが透けてくる。離婚や子供との再会など、生のドラマを縦糸とする世界に、唐突に現れたこの燃えるような赤の色彩感は、作者の心底の素朴な願いを●晦する。同時に、むしろ強引に〈あそこ〉の場外れな明るさが創りだされることによって、現実の、華やぎなどには遠い深い痛みを暗示し得たと言えよう。

 風落ちて平たくなれるゆふぞらにぎんがみかざし子は切りはじむ

栗木 京子 


 栗木の歌では松平の場合と逆に、語るべき〈ここ〉は静かで平穏である。上の句で提出された夕空の景色は、そうした日常そのものであるとともに、現実という時代の風景でもある。どこまでも凪ぎそうなその平穏な風景のなかにかざされた銀紙は、非日常からの遠い反射を受けて、さざなみを発振しているかのようである。ここで印象的なのは、〈あそこ〉を予感し〈ここ〉へ繋ごうとする鋭敏な感覚と意志であり、また時代への冷静な認識である。
 こうした時代への認識をかかえつつ、この世界の向こうにどのような〈あそこ〉を思い描くことができるのか、その問いこそが現代のロマンチシズムであると言ってもいいだろう。それは、たとえば、来るべき時代の世界像が描き難いというような現代解釈の問題の困難を、まさに〈詩〉によって、言葉の力によってどのように超える事ができるかという問いでもある。
 想像力や空想が絵空事でなく、私達の現在や未来に関わることを説得することがロマンティシズムであるならば、現代ほどその言葉の世界の役割が大きな責任を持つ時代もないのではなかろうか。