揺らぐ〈社会性〉

 

 今日の社会情勢の変化には激しいものがある。その変化と流動の波の中で社会を歌うとはどのようなことでありうるのだろうか。
 社会を歌うことの難しさは、例えば「見えないものを手がかりに自我を確立したり、その結果としての世界や社会への実践的操作、ひいては社会構造改変の道を探るというあり方が、ひどくとりにくくなっている。自分のあるべき姿とか、越えるべき理想というような認識と無縁の生き方が出現している。ものの過剰のなかからの選択と、その結果の無限の拡散——ぼくたちが見ている現実である」(小高賢「批評への意志」)というふうに語られている。様々な方法の拡散のただ中で、反面、世界の大きな流動と個人の日常の平凡な繰り返しとの_離の間に何らかの回路を見つけたいという焦りにも似た願いが存在することも事実である。

 先に、私は社会と個人との関係について中城ふみ子を例として考えたことがある(書く女たちのために—未来シンポジウム89年5月)。中城には社会の反映としての歌がないとされ、僅かながらも社会意識がある歌として

 音ひくく鮮人住むを壁越しに見守ればわれも共謀者なり

 鮮人の友と同室を拒みたる美少女も空襲に焼け死にしとぞ

などが掲げられているのに対し、社会性とはそうした戦争や朝鮮人の問題などに限るのではなく、

 かがまりて君の靴紐むすびやる卑近なかたちよ幸せといふは

 われに似しひとりの女不倫にて乳削ぎの刑に遣はざりしや古代に

などに透けて見える、女性を取り囲む社会制度への視線も社会性として評価されるべきではないかと疑問を提出した。
 この疑問は中城に限るものではなく、社会と個人との関係やその渡りあい方について考えるとき現在なお問題となると思えてならない。
 最近では、大野道夫がこうした問題について書いている(短歌往来90年2月号)。大野は若者の日常の歌い方の典型として、「もっとも手触りのある『われと君の関係』を歌う」久木田真紀や俵万智などの歌をモデルとして掲げ、「まず『われと君の関係』をうたう歌には、現代の豊かな社会にそれなりに充足している若者の生活をみることができる。そういった意味で『われと君の関係』をうたう歌は現代社会の落とし子、ということができるが、やはり今後は彼女たちももう少し『社会』との関係をとりもどす必要がある、と考えられる。」と述べる。大野はさらに若手の生の無意味を歌う歌を語り、そこからの脱皮を促しつつ「ふたたび等身大で『社会』を詠む季が来た、と思われるがいかがだろうか」と問う。そして次のような歌を掲げ今後の可能性を示唆している。

 研究者と呼ばれて一生(ひとよ)終えたきに管理者となる父の栄転

俵 万智 

 「KILL、KILL」と叫ぶ男らパブロフの犬とならない〈黒(ひと)〉の激しさ

久木田真紀 


 この大野の問題意識に関しては切実なものを感じるのだが、ここで語られている社会との渡りあい方については根本のところで疑問を感じるのも事実である。
 久木田の歌で歌われているのはアメリカでの黒人への人種差別の問題であるが、ここでは虐げられてきた立場の黒人の生のパワーが〈パブロフの犬〉との対比で鮮やかに感じ取られている。管理社会で飼慣らされた犬のようにもみえる現代人へのメッセージとしても読み取れるであろう。たしかにここにはこれまでにない世界というスケールで社会が歌われているように見える。しかし、この歌が収められている「エデンの東」は飛行機で世界を駆ける、いわば旅行者のまなざしを背景としていることに注意をしなければならないだろう。久木田の社会への対峙の仕方は、いわばデラシネのそれであり、ある社会に向かうときに自らの背景となる生活は、無限に無に近い。そうした意味では久木田の社会への対し方は概論としての相貌をもつ。そのうえで、そのくっきりとした切り口と成熟した技巧において評価されるべきなのだ。こうしたデラシネ型の若手の歌が今後一層増えてくることは予想できるしそこでは新たな世界観が展けてくる可能性もあるだろう。
 しかし問題となるのはこれが社会詠としてストレートに期待をもたれるときである。先の大野の「等身大で政治や『社会』を詠む季が来た」という言い方がどのようなことをさしているのか正確には分からないのだが、もしこれが黒人問題を歌っているゆえにより社会にたいして展けているというようなことならそれは問題である。先に大野が「現代の豊かな社会にそれなりに充足している若者の生活を見ることができる」として掲げた、久木田の、

 さあきみも麦藁帽子をかぶったらフォローの風に吹かれて行くさ

などの歌のほうが現代性の摂取の点ではより内面化が進んでいるともいえるのだ。同様に俵の歌で、もし「研究者」や「管理者」という言葉にのみ注意が向けられるならそれは片手落ちであろう。この歌は父を管理社会に絡め取られる一人の人間としてみる、その相対化の仕方に手柄があることを見なければならないだろう。
 確かに大野の提言には小高が述べるような現代の歌の無限の拡散化と相対化への危機意識が反映している。ナンセンスへと縮小してゆく生への危惧や、自足と自閉とがないまぜになって力を失ってゆく表現への抵抗といった動機は理解できる。しかしこうした状況から一足飛びに社会詠を語ることは、そうした問題の放置にもつながる危険が付きまとう。
 先の天安門事件は話題になったが、あの事件を通じて私達は大きな矛盾を味わったはずなのだ。天安門の事件には大きな共感と正義を表明し得ても、同じその国から流れてくるポートピープルには戸惑いを匿せない、身に直接に関わることに対しては対処のしようがないと言った状況である。私達は自らを空しくしてゆく管理社会からまた相応の恩恵も受け取っており、明確にものをいう相手を_めない。現代の社会との関わり方にはこうした入り組んだ背景があって、そこに社会との関係の見え難さも表現の難しさもあるのだ。
 そうした状況の中でなお社会を歌うとき考えねばならないのは、社会と個人との関わりという図式そのものの見直しをも迫られることになるとしても、社会性とは何かという根底からの問いであり、その上での、自らの立っている土台の確認ではなかろうか。

 近年、40代の男性を中心に家族が多く歌われているがそこには家族を社会の縮図として、あるいは社会に相対する個人の砦として歌おうという意識が強く働いているといえる。

 男児(おのこ)わらいてわが膝の上にくずるれば獅子身中の花のごとしも

三枝 昂之 

 うるはしき神持たざるとひたぶるに妻を神とし祈り果てにき

伊藤 一彦 

 はくれんのひかりかはらず父死なば長子は遺骨次子は遺影を

小池 光 

 帰りきて夜の雛壇にまむかえば折れてわが影緋の階をなす

小高 賢 


 三枝は、政治の季節からの転移を家族との関係性のうちに読み取ろうとする。より生活に引き付けた場面から現在の自らとその思想とを語る。獅子はまた志士を思わせながら柔らかな関係性の季節にはいった哀切を告げる歌となっている。また、伊藤はいち早く家族との関係の中に大きな時代の流動と不動とを読もうとした一人であるが、この歌では信じるべき絶対者(あるいは思想)を失った世界の暗澹とした濡りの不安が妻との関係に凝縮されているだろう。小池は家父長制度が形骸だけになりながら、しかし根強く父の存在亡き後に取り残されている様を見ている。それは現代の〈父〉としての覚束ない出発への自覚でもあるだろう。小高の歌ではそうした父としての自らの複雑な思いが、社会人としての思いとも重なりながら陰影として表現されている。
 ここで共通しているのは、父であり夫であり子であるという立場が社会の枠組みを背負って、あるいは社会の一部であるという強い意識のもとに歌われていることである。そしてそれ以上に社会という枠組みなり観念なりが、家族という対象を覆うように家族以前に用意されているということである。いわば、これら男性の表現は、社会→家族というベクトルをもって現れていると言えるだろう。それ故に家族詠が社会詠としても読まれるのであり、現代の私達はそうした見方に慣れているともいえるだろう。
 こうした社会詠としての家族詠は、先に述べたような世界の読み取りにくさや、社会との関係の表現の困難を背景として、かつての社会という大きな観念の枠組みをひとまず最小単位としての家族という枠組みに引き取ることで成り立っていると言える。そしてこうした方法が現在成果を収めてもいる。
 しかし、女流の家族詠についてはそうした社会的側面での評価は必ずしも充実したものではなかったと思われる。先の中城の歌でも見たように、従来から、個と個の微細な感覚のずれや溝など、より具体的な場面を通して自らの位置をみることに女流は敏感であったということが極大雑把には言えるであろう。そこでは制度や社会はより直感的に把握されてきたと言える。では現代の女流についてはどうであろうか。

 〈何かが化けてお母さんになっている〉という感じたまさか吾子の胸よぎるらし

花山多佳子 

 男女にて棲むあわれさは共どもに瓢箪に呑み込まるるごとし

阿木津 英 

 出遭いしは如月の頃 いま君の妻となりても寒き●もつ

栗木 京子 

 〈女は大地〉かかる矜持のつまらなさ昼さくら湯はさやさやと澄み

米川千嘉子 


 花山の歌では我々が極類型的に思い浮かべる母と子の関係は形をとどめていない。それは、小池光の『日日の思い出』の〈浴室に鰐飼う夢をゆめとしてはかなかりける父親われは〉のような歌に似ているようでもあるがその感覚はずっと自然である。従来からの関係性の神話の崩れた現代の母と子の間に、原始的な感覚が唐突に顔を出したかのような奇妙なリアリティーと悲しみがある。阿木津は男と女が共に暮らすときには、それが結婚であれそうでなくともそれを否応なく吸収していく不可解な制度のようなものを見取っている。阿木津にはこうした批評精神に支えられたむしろ社会派といってもいい側面がある。栗木や米川は精神的に自立した女性像を描くが、栗木はそれをより個人の悲しみに引き付けて表現し、米川はそれを自負として表している。いづれも自らの位置が自覚的にくっきりと確認できている。
 にもかかわらず、確かに、いわゆる「社会性」の希薄さが指摘されたとしてもやむをえない面のあることは事実である。それは、一つには妻や娘や母であるという立場が男性のそれに比べて社会との関係性の上で考えにくいということが挙げられる。そして、もう一つの大きな要因として、男性歌人における社会→家族というベクトルは読まれ易いが、多く女流によるような、家族→社会というベクトルは現代のテクストとしては容易に社会との関係性において読まれないということが挙げられるのではないだろうか。
 しかし、先に確認したように、これら女流にはそれぞれに方法や方向は異なりながら、自らの置かれた現場の意味するものをそれが何なのか見取ろうとする姿勢が読めるであろう。そしてそうした姿勢は、より自覚的に社会批評へと発展して行く方向や、より直感に訴える仕方で現代との異和を表していくなど様々な方向へとひろがってもいる。そして、共通しているのは家族という枠組みがその内実において徐々に変化しており、それを女流が積極的に表現しようとしていることである。あるいはこう言い換えることも出来るだろう。家族は妻や母の内面で変化を遂げつつあるにもかかわらず、制度とか社会といわれる枠組みがあやふやになりながらも残っていること、その葛藤がこうした表現となって現れていると。

 私はこの論によって現在の女流の歌に強引に社会性を読み取ることを求めているのではない。また、社会性の定義を無限に拡大し、その意味を無効にしようとしているのでもない。社会と個人とを結ぶ回路はもとよりそう簡単に展けるものではない。しかし少なくともこういうことは言えるのではないか。始めに見たように社会性という言葉が硬直したままで云々されそこにのみ意識が集中されるとき、社会の底のほうでの微細な、しかし本質的な変化が見落とされることになるのではないか。そして、あるいは今日の社会詠とはそうした微細な変化への直感とその表現の積み重ねにほかならないのではなかろうか。