次の文章を読み、後の問に答えよ。

 

 一九六八年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した折の講演「美しい日本の私」と、一九九四年に大江健三郎が受賞した折の講演「あいまいな(アムビギュアス)日本の私」は、どちらも私にとってなにか奇妙な違和となまなましさを感じさせるものだった。川端の「美しい日本の私」は、このように始められる。


 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり


 道元禅師(一二〇〇〜五三)の「本来の面目」と題するこの歌と、


 雲を出てわれにともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷たき


 明恵上人(一一七三〜一二三二)のこの歌とを、私は[a: 揮毫]をもとめられた折に書くことがあります。私がこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思いやりの歌とも受け取れるからであります。雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこわいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷たくないか。私はこれを自然、そして人間に対する、あたたかく、深いこまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人に書いてあげています。「雪、月、花」という四季の移りの折々の美を現わす言葉は、日本においては[b: サンセン]草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現わす言葉とするのが伝統なのであります。

 私がこの講演の全文を読んだのは、最近のことだ。読みながらこの美への愛情に、ふと痛ましさのようなものを感じさせられた。日本の言葉の美を語りながら、同時にそれがなぜ美しいのかについても説明し、さらには日本の美しさとはこういうものなのだと定義する、美しさを日本の心と言い換えてもほとんど同じに見える語りかけにはなにか際限のない自分語りの回路があり、語れば語るほどそこに川端の言葉は閉ざされてゆくように感じたからだ。大江健三郎は同じ受賞者としてのスピーチでこの川端の語りを取り上げ、婉曲に批判している。

 現代に生きる自分の心の風景を語るために、かれは中世の禅僧の歌を引用しています。しかもおおむねそれらの歌は、言葉による心理表現の不可能性を主張している歌なのです。閉じた言葉。その言葉がこちら側に伝わってくることを期待することはできず、ただこちらが自己放棄して、閉じた言葉のなかに参入するよりほか、それを理解する、あるいは共感することはできない禅の歌。どうして川端は、このような歌を、しかも日本語のまま、ストックホルムの聴衆の前で朗読することをしたのでしょう?

 川端が「美しい」という形容詞を冠するために捨てざるを得なかった問題は少なくない。例えば過去の戦争をどのように担い、取り込むのかといった問い、あるいはまた他言語や世界が共通して抱えつつあるテーマ、人類という主語をどのように抱え、またそこから日本人であることをどう考えるのかといった問いは、[A]避けられている。そのうえで、和歌や茶道、禅、源氏物語などに触れながら西洋に相対する東洋、その中の日本の美意識の絶対性と無や死についての観念の超越性が語られ、「私の作品を虚無という批評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の[B]がちがうと思っています。」ともどかしげに結ばれる。川端がついに説明不能なものとして閉じるほかなかった日本語の言語空間の美や精神性は、日本の神秘に対する憧れやエキゾティスムをかきたてたとしても、それが何なのかについて外にむかってなにかを語り得たとは言えないだろう。それはひたすら憧れられるべき対象ではありえても、積極的に生きてうごめく世界に向けて自らを位置づけ、メッセージを放つ力強さと客観性に欠けている。考えてみれば、川端の立場は翻訳それ自体を拒むものだともいえるのではないか。

 私は川端のスピーチをこのような気持ちで眺めながら、しかしそこに時代錯誤だと言ってしまえない何かなまなましいものも同時に感じてしまう。注目したいのは、散文家である川端が、なぜあえて韻文である和歌を取り上げ、●々語ることに費やしたかということだ。そこには、日本の文学はやはり歌に始まり歌に尽きるというような美意識や価値判断とは別のところで働く何か、それがごく自然に韻文を選ばせたのではないか、そんな気がしてならない。道元の先の歌に託して川端が語っている雪月花への思い、たとえば雪は、その恐ろしい力を白い狼に例えるようなシベリヤの平原の人々にはただちに共感されようはずもなく、また雲に隠れる月のはかなさは、刃物のような砂漠の月の光しか知らぬ地方の人々の心にそのままでは沁みるはずもない。川端がここで語り重ねているのは、言葉それ自体に蓄えられた歴史的な記憶と心の厚みへの愛惜そのものである。さまざまに古人を、古歌を呼び出しつつ川端が語り重ねているのは、自分の拠って立つ言葉の時間的、空間的厚みであり、その言葉に託されたもろもろの生の濃縮された何かであり、それを知り味わい、言葉と一体になることによって歴史化されていく自らの心であろう。しかしそれは同時に、ある言語を共有する人々によってのみ抱かれるほかない韻文の閉鎖性を運命とし、自明としてもいる。川端が、散文ではなく、歌を世界というテーブルに連れ出したのは、言語空間がそうやって閉じてゆくとき逆に持つことになる力、記憶や心の濃縮されてゆく磁場としての韻文の求心力を最終的に自分の力とするという文学への意志表明ではなかったのか。

(川野里子の文章による)

 


問一 二重傍線部a「揮毫」の読みを平仮名で書き、b「サンセン」を漢字に直せ。問一は解答用紙(その1)を使用。


問二 傍線部1「際限のない自分語りの回路」についての説明として、最適なものを次のから選び、記号をマークせよ。問二から問五までは、解答用紙(その2)を使用。

 
  いわなくても分かってもらえるという楽観的な態度で、話す必要のないことを長く語り続けること。

  他者に理解してもらおうとして語るのではなく、ただ自分の結論のまわりをめぐるように語り続けること。

  ひとり言には際限というものがないので、自分でつぶやき自分でそれを聞くという繰り返しであること。

  いつかは分かってもらえるという希望に満ちて、いうべきことをどこまでも言い尽くそうとすること。

  共感を求めて話をしているのではなく、自分の意見を主張さえできればそれで満足であるとして終ること。


問三 空欄[A]に入れることばとして、最適なものを次のから選び、記号をマークせよ。

 

  あらかじめ  最終的に  唐突に  結果的に  にわかに


問四 空欄[B]に入れることばとして、最適なものを次のから選び、記号をマークせよ。

 

  哀しみ  表面  流れ  根本  喜び


問五 傍線部2「積極的に」は、次にあげたことばのなかでは、どれにかかるか。最適なことばを次のから選び、記号をマークせよ。

 

  生きて  うごめく  向けて  自らを  位置づけ


問六 川端康成の引用した和歌が、国際的な普遍性を持ち得ないことを具体的に指摘している箇所を含む一文を本文中から探し、その一文の書き出しの三文字を書け。問六は解答用紙(その1)を使用。


問七 問題文以外の場所で、大毛健三郎は自分の創作態度について、「世界のどこにでもその国の言葉の文学として理解されていくということを目指しています」と語っている。文学が翻訳可能であることを前提にした大江の発想について、筆者はどのように考えると思われるか。想定される筆者の意見として、最適なものを次のから選び、記号をマークせよ。問七から問十までは解答用紙(その2)を使用。


  大江のいうように、文学作品は普遍性に対していつまでも開かれていなければならない。

  韻文世界の魅力をなす翻訳不能な言葉そのものの美や味わいが、大江の視野には入っていない。

  大江のいうように、いかなる場合でも文学作品は翻訳可能であるといえる。

  世界のそれぞれの国には固有の文学作品があるが、固有性とは理解可能なものである。

  意味に還元し得ない言葉はなく、従って韻文であっても翻訳可能であると考える。


 問八 傍線部3「言語空間がそうやって閉じてゆくとき逆に持つことになる力」とあるが、なぜ韻文世界はその閉鎖性ゆえに逆に力を持つといえるのか。筆者の主張として、最適なものを次のから選び、記号をマークせよ。


  韻文は、常に散文よりも短いので、閉鎖的であることの影響は決して小さくはないから。

  韻文は、できるだけ多くの読者を拒否することによって、少数の選ばれたものだけに強く訴えかけるから。

  韻文は、閉鎖的であることにより、その閉鎖された空間の中でどんなことでも可能になるから。

  韻文は、意味に還元し得ない言葉の美や味わいを、その閉鎖性という性格と不可分のものとして抱えているから。

  韻文は、一種の音楽であるといえ、翻訳など必要としない音楽としての普遍性をもつから。


問九 次のから、筆者の主張にふさわしい最適な説明を選び、記号をマークせよ。


  川端の立場は翻訳それ自体を拒む閉鎖的なものであるが、川端は言葉のもつ時間的空間的厚みを愛惜している。

  川端は、世界に向かって実質的に何も語り得ておらず、後の大江による講演の方がはるかに優れている。

  川端は世界に向かって意味不明の講演を行ったが、それゆえに尊敬されることになったといえる。

  川端は、常に散文ではなく韻文を目指してきた小説家であり、講演には韻文への思いがあふれている。

  川端は、もろもろの生の濃縮された歴史の厚みにおいて、小説家から詩人へと転換しようとしている。


問十 川端康成の作品を次のから選び、記号をマークせよ。

 

 「伊豆の踊子」 「檸檬」 「羅生門」 「仮面の告白」

 「死者の奢り」