暗室と薔薇窓

— 茂吉の孤独妙子の孤独 —

「かりん」2004年1月号

 

 茂吉の、暗い底ごもる魂には窓がなかつた。深い魂はつねに孤独である。茂吉の深い魂が孤独であつたのは怪しむに足りぬが、この孤独な存在が、悲劇的なものとして後代の眼にうつるのは、彼の魂に窓がなかつたためではないか。茂吉は孤に徹した。孤に徹して、人間への信頼の喪われたわけではなかつたとしても、彼には孤と孤をむすぶ現代の理由は見えなかつた。血縁の織るきずなは見えたが、血縁を越えてなる社会の連繋は見えなかつた。家は彼に親しいものだつた。しかし彼は、近代国家が、家の延長の外にあることに盲目だつた。


 上田三四二の『斎藤茂吉』冒頭の「斎藤茂吉論」は茂吉の本質を素描する。窓がない、という茂吉の魂への直感は、戦争への盲目的追従に流れて省みなかった茂吉の、およそ知識人としての見晴らしのない不可解な凡庸さを指す。上田はその魂に「閉ざされた偉大な個が、孤のうちに探った生の深拠の姿」を読む。この言葉の覆うものは戦争に対する茂吉の態度に限らず、茂吉文学、茂吉的近代、茂吉的抒情といった広範に広がる考え得る限りの要素に及び、どこを辿ってもそこから深閑と暗い窓のない部屋に着きそうな気がする。そして茂吉の深部にくぐもる、この窓のない暗室は、近代から現代への移りゆきの明かりのもとに差し出された一塊の暗闇であり、上田はこれを「孤独」とも呼んだ。

 この「孤独」はおそらく戦後にも開かれることはなかっただろうと私は思う。それは、上田が、『白き山』を懺悔の書と呼びながら、「明治人的モラリストの新しい世における自己のみじめをつくづくと嘆じた書だが、鱗のとれた眼に、傷ついた自己をながめる痛ましさには、もう無縫の円光が輝いている」と揶揄するように、どこかに根本的な無反省の暗さを抱えている。その開かれなさ、暗さは、『白き山』において「悲しみも極まりぬれば新しき涙となりて落ちむとすらむ」「つつましく生きのいのちを長らへて新しき代は永遠ならめ」といった歌が平然と並べ置かれる感覚、近代天皇制を素通りした古代天皇への賀歌として戦中も戦後も粛々と差し出される。だがそれだけではない。茂吉の孤独の根はもっと深く、暗室はもっと大きいのではないか。

 私はその孤独の根を『あらたま』の表現に見る。

 

  うつし身のわが荒魂も一いろに悲しみにつつ潮間をあゆむ

 

  わがこころせつぱつまりて手のひらの黒き河豚の子つひに殺したり

 

  くろぐろと晝のこほろぎ飛び跳ねてわれは涙を落すなりけり

 

  きなぐさきあまつひかりに濡れとほり原のくぼみをあれひとりゆく

 

  くろがねの黒きひかりをおもひつつ乾くさのへに目をつむり居り

 

 これらの歌はことごとく背景を欠き、物語の輪郭を欠いている。例えば『赤光』に見えた「死にたまふ母」や「悲報來」のような鮮やかな物語の輪郭はここにはない。もちろん短歌に散文に求められるような語りや説明が必要であるわけはなく、むしろそのような夾雑物を遠ざけたゆえ『あらたま』は、『赤光』とは別の角度から評価されうる高度な文学性を獲得している。これらの歌の強い求心力、感情の裸形、横溢するエネルギーは、何か訳の分からぬ魂の呻きとして、そこにありありとある自我の苦しみとして立ち現れている。ここに、幼妻との確執や、不如意な結婚生活などの背景を添えて読まれることをとりあえずこの作品は求めていない。後世の私たちが茂吉を人物と作品もろともに愛好するとき生まれる面白さはとりあえずは作品の表から遠ざけておかねばなるまい。

 私はこれらの作品に汎感情、汎「私」とでも言えるような特徴を見る。何か分からないが、かなしくやり切れない感情を抱えた「私」がおり、その「私」の感情のエネルギーが風景を揺さぶり、色を塗り替え、空気の密度を変えてゆく。蟋蟀は「くろぐろと」「飛び跳ね」、昼の陽射しは「きなぐさきあまつひかり」となる。なぜ河豚が殺されねばならなかったか、なぜ私は涙を落としているのか、といった事柄の中心が欠落することによって、感情は風景に染み渡り、「私」はその絶対的な中心となる。ここでは何もかもが「私」の情と化すのである。

 

  こらへゐし我のまなこに涙たまる一つの息の朝雉のこゑ

 

  あなあはれ寂しき人ゐ浅草のくらき小路にマッチ擦りたり

 

 雉の声と「私」の情緒は限りなく一体化し輪郭を持たない。雉の鳴き声によって露わになる私の感情は、その声のように切なく切羽詰まったものでありながら涙の意味は限りなく無意味だ。むしろそのことによってこの歌は茫洋とした大きさや普遍的な深さを得るのである。マッチを擦る人物についても、なぜその人が「寂しき人」なのかは語られない。「あなあはれ」というほどの感嘆を呼びながらマッチを擦るだけの人。その人影の寂しさは茂吉の抱えている何らかの寂しさ以外であるはずはなく、一方的に押しつけ断定することによって重々しく必然的な情緒となってゆく。このように、あらゆる風景において、茂吉の感情が中心となり、さらには絶対にまで進化するということが『あらたま』に見える文学的達成の特徴の一つだと言っていいのではないか。

 茂吉はそのずば抜けた言語感覚で、易々と風景を支配し、世界を「私」の染み渡る主情の沃野に変えていった。これは短歌という文芸から見れば大きな勝利に違いない。しかし近代日本の「私」という側面から見るならば、問いかけ、問い返し、世界と自分との関係を更新し続けるような対話が無効にされた過程であったとはいえないだろうか。「私」が抱えるはずのあらゆる問い、何かを問いかけることも問われることもない、「私」の絶対的な風景支配。例えば女とは何か、恋とは何か、他者とは何か、自我とは何か、といった文学が近代であるための問いが情として風景に溶解し無効になるのである。さらにはそれが茂吉の自我の輪郭となることによって、茂吉は自分以外の誰にも出会うことのない世界に閉じこめられたとは言えないか。それはまさに他者への窓のない自我の暗闇であり、茂吉の場合、その暗い窓のない部屋は近代日本の精神の暗がりと一致するほどの巨きさ、深さだった。

 こうした茂吉の孤独と比較するとき、さまざまな意味で好対照の孤独の姿を浮かび上がらせるのは葛原妙子だ。妙子は十九歳のとき神田で手に入れた『あらたま』を最初の短歌体験としたことを自らのエッセイに記している(『短歌研究』昭和五十八年三月号)。この体験は妙子の歌の原点となったと考えていいのではあるまいか。

「閉ざされた偉大な個が、孤のうちに探った生の深拠の姿」と上田が呼んだものを妙子も探求したが、それはごくごく一般的な詩人の孤独である以上に茂吉的な、『あらたま』的な何かを帯びている。風景や事物の秘密を探り当てる時の「私」の絶対性。真実の探求が深ければ深いほど「私」は世界から孤立し、その孤立の哀しみによって世界を射抜くような関係とでも言うのだろうか。妙子は「私」の居場所を求めて茂吉的な暗室を再建しようとしては敗北し続けた趣がある。そしてむしろその失敗こそが妙子を現代の作家にしており、妙子の存在感となっていると言えるかも知れない。葛原はさまざまな意味で茂吉の影響を受け、またあらゆる面で茂吉と対照的な要素を持っていた。

 茂吉の暗室との対比で言うなら、葛原の孤独は見えないことによってではなく、見えすぎることに原因しているからだ。その違いは次の歌によっても象徴的に語ることができる。

 

  最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

茂吉  『白き山』

  あきらかにものをみむとしまづあきらかに目を閉ざしたり

妙子   『朱靈』

 

 茂吉の晩年を代表するこの歌は、もちろん単なる詳細な風景描写ではない。「逆白波」という造語を生み出してまで描写した吹雪に荒れる北国の故郷の川のありさまは、茂吉の心の風景にそのまま重ねうる。見尽くすほどに見られたこの風景は徹底したリアリズムであり、茂吉の見ることへの執着が伝わってくる。しかし、同時にリアリズムを突き抜けてもいて、見方によってはこの歌はいかに見えないかを執念をもって描写しているとも言えるのではないか。吹雪に荒れる最上川、風によってめくりあげられる川波はもうもうと荒れ、白く煙ってその彼方への視野を遮っている。遠景を拒否し、激しく魂の目を閉じようとする時、このような激しい吹雪を描きつくそうとする執着が生まれたとは言えないか。

 それに対して妙子の歌は、見えすぎるゆえに目を閉ざそうと言う。これは現実的な視野を閉ざすことによって魂の目を開こうとする志の歌として読めるが、同時に見えすぎる事の無惨、明るすぎることの残酷を目を閉じることで救済するかのようでもある。どこかにひりひりするような痛みの感覚が滲んでおり、見るということの厳しさを噛みしめるような響きがあることに注目したいのだ。妙子は茂吉のように暗室に閉じこもることは出来なかった。それは一つには妙子の直感力によるが、もう一つには妙子が敗戦を実質的な出発の土台にしていることによる。茂吉が

 

 軍閥といふことさへも知らざしりわれを思へば涙しながる

『白き山』

 

と詠った敗戦を、妙子は次のように詠った。

 

 水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし

『橙黄』

 

 敗戦によって暴かれた世界の赤裸々を見つつ、妙子はそこを孤独の原点とする。あたり一面の焼け野原と同様、覆う物のない荒涼とした世界が真実であることを葛原は心に刻むことで自らの言葉を見出していった。茂吉が自己慰撫を無限に拡大することで『白き山』を完成させたとしたら、妙子は自らに纏わる慰撫を振り払うべくもがきながら『橙黄』によって出発したのである。

 また茂吉の孤独が、近代日本の精神文化に深く根を張っていたのに対し、葛原の孤独は宙づりの不安を抱えていた。それは、森岡貞香が「従来の短歌にあるあの東洋的な詩精神とはやや異なり、それは絵硝子の中に押しこめられてでもゐるやう」(『短歌研究』昭和二十九年九月号)と語ったような姿をし、「原罪にくるしむ態度」を不断としていた。妙子は茂吉的暗室を戦後自覚的に人工的に再建するほかなかった。しかしそれは常に未完成な不完全なものに終わったと言ってもいい。「あきらかに目を閉ざ」すことが「あきらかにものをみむと」する意志による以上、閉ざした視野の暗闇は常にかすかに世界の遠景からの光りに貫かれている。ピンホールほどの穴からはむしろ両眼を見開くより明瞭に世の中の光彩の真実が見えるからである。妙子の「宙づりの不安」は、暗闇によってではなく、明るさによってもたらされたと言えるも知れない。

 

  ひたぶるに暗黒を飛ぶ蠅ひとつ障子にあたる音ぞきこゆる

茂吉 『あらたま』

  黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地圖にはあらぬ

妙子 『原牛』

 

 茂吉の孤独にはひたすらな、やみくもな手探りの感じがある。まるでその部屋にあらかじめ窓が無いことにさえ気付かぬかのように。暗黒を飛ぶ蠅は、さながら茂吉自身としてその蒙昧の悲劇を負っている。茂吉はその悲劇を直感しながら知覚しなかった。しかし知覚しなかったゆえに蠅は滑稽と悲劇とをもろともに体現して広い普遍性を獲得し、深い孤独の相を浮き上がらせえたと言えよう。それに対して葛原の歌は知覚の辛さに貫かれている。「黒峠」は幻想の地名であると思った方がよく、その不自然な地名を付加することによって「日本の地圖」の何かが露わになる。かつてあって時々はないというその不思議な地名の闇は、のっぺりとした白地図に墨汁を落としたように鮮烈だ。「黒峠」は、日本の文化に疑義を提出しつつそれに抱かれる「宙づり」の孤独そのもののようでもある。

 茂吉は短歌という文芸をついに文芸としか見なかった。日本語の海の豊穣に耽溺し、目を閉じ、喜悦と悲哀と詠嘆とを憚ることなく告白した。それに対して葛原は短歌を、そして文芸を、傷ついた日本文化に擦り込まれた苦しむべき「原罪」として抱えたのである。茂吉が日本近代の暗室に自我と言葉とを存分に茂らせたとしたら、妙子は聖堂のあの高い薔薇窓から射し込む光に無惨に照らされながら、自らは信じぬ神のために目を閉じ祈りを捧げたと言えるかも知れない。この二つの孤独は、敗戦を挟み、近代と現代の敷居に分かたれて向き合っている。その意味はまだ充分に読まれてはいない。