江戸雪、田中槐比較論

— 液体的、固体的震え —

「未来」2002年10月号

 

 NEXUSの特集から十年が経ったという。そんなに時間が過ぎたのかと思う一方で、まだ十年しか経っていないのか、とも思う。何しろ加藤治郎、穂村弘、水原紫苑、坂井修一、林あまり、中山明といったメンバーで研究会を持ったとき、研究会の名前は「不易の会」だった。どんな願いをそこに込めたのか、今はもう忘れてしまったけれど、ともかく「不易」がなにがしかのリアリティーを持っていた時代だったことは確かだ。いま、不易でイメージされうる言葉を想像するのはとても難しい。この十年は言葉が非常に流動的になり、輪郭を失いながら世界との接点を求めてきた時間だったかも知れない。同時に、不易という言葉に当然のように抱えられていた永い時間意識がいよいよ欠落していった十年であったとも思う。短歌はこの時間のくびきを離れて思いがけない表現の多様と新しい抒情や世界観を手に入れた。そしてやはり時間を失ない、時の奥行きを無くした世界と闘ってきたのだ。

 江戸雪も田中槐もまさにそうした流動の時代に言葉の洗礼を受けて出発した歌人だ。二人の歌には見えぬ世界を見えぬままに手探りする鋭敏な感覚が備わり、そこで自立を果たした強さがほの見える。

 

 激情の匂いするみず掌にためてわたしはすこし海にちかづく

 『椿夜』江戸雪

 わたくしは器であると思うとき金属音に似たる泣き声

 「歌壇」99/5 田中槐

 

 『椿夜』における江戸雪は、液体の感じがする。情緒が液体のようにどこにでも沁みてゆき、形なくあらゆる風景を湿らせて通り過ぎてゆく。水よりはもう少し濃厚で体温の温もりのある透明な液体を思う。「激情」もやはり液体の静けさを保っていて、燃えたり爆発したりせず染みこむように熱い。「わたし」の在処をそこに証す感情と、その感情によって確かめられている世界の感触、世界の「輪郭」が淡くなればなるほど世界の「感触」が濃厚になる。そんなところに江戸雪の歌が成立しているようだ。

 反対に田中槐は固体の感じがする。どんな固体か、というとこれが難しい。ある時は卓上の電気ポットだったり、また庭に投げ出されたサンダルだったり、卵だったり、とにかくそこらにさまざまなものが投げ出されているように感情が投げ出されている。自らを「器」として投げ出すときに軋むように「泣き声」を聞くという。感情の湿りを避けようとしながら、しかし不分明で意識化されない感情がこぼれ出てくる。乾いた悲鳴のような歌だ。

 主に二人の対称性について見てみたが、実は方法として同じ要素をかなり多く抱えている。感覚を際だたせた世界へのアプローチ、対象の輪郭を消しつつ世界の歪みを感じ取る歌い方、共に人間を感情の面から鋭敏に感受している、といった要素である。ここでの歌にもそうした性格はよく見えるだろう。液体感覚や固体感覚は、言ってみれば世界の輪郭が崩れた後、人間が分節された後の世界把握の仕方に他ならない。これらの歌は自らを「激情」や「泣き声」といった感情のパーツとして世界に投げ出し、トータルな人間像を拒否している。しかし、それと引き替えに世界に手触りを得、感情の背後に分断されながら、しかししっかりと在る「私」を置いてゆくのだ。

 

 母に似るわれ、われに似る母 夢に手袋のように睡っていたり

 『椿夜』江戸雪

 子を抱いて歩くこの道ぜったいに触れることないノブばかりある

 

 月ひくく光る夕暮まんまるがなぜこんなにもこわいのだろう

 

 帰る人帰らぬ人を受け入れるドアという名の女が母だ

  田中槐

 砂色の卵を一個温めるわたしの羽根に羽毛はあるか

 

 順番に上からはずしてゆくボタン そういうふうに別れた家族

 

 例えば、家族は二人に共通して多く詠われるテーマだろう。ただし、「家族」という言葉が抱え持つ意味と彼女たちの表現意識とはかなりの距離がある。たぶんこの意識のズレは、江戸の方に大きく、江戸は家族というカテゴリーに子供や夫を置いたことがないかもしれない。田中の方には幾たびも否定されながら残る家族という原型があり、そこからのズレが意識の中心にある。

 家族が血縁の連続という永い時間の中に置かれたのは近代以前だったろう。そこから現在に至る過程は家族がだんだんと短い時間のスパンで意識されるようになる道筋だったような気がする。

 江戸の場合、自らと他者としての子供といった枠組みもどこかで溶解している。しかし、そこで子供と自らを隔てるのは強い感情のリアリティーである。子供とセットになったことによって世界が自分を拒否しているという恐怖は、母親ならば誰でも一度は持つ。「まんまる」が怖いという感覚もそれと似ている。家族に由来する怖さを江戸はためらい無く詠う、そこに江戸の世代の表現意識がある。そして自らの母親との関わりは、母と私、私と母という可能な限り小さい循環の中で再生されつづけるのだ。まるで夢のように。

 田中の場合、滅んだ家族とそれに纏わる物語はかなりの部分を占める。そしてその家族に終わりが来ないことも特徴の一つだろう。縦の時間意識のない表現に家族の抱えた否応のない過去という時間が迫り出してくる。過去と現在は混沌として、自分に流れる時間を拒んでいるようだ。そこに田中の歌の苦しい軋みがある。断片として自分を投げ出すとき、母であるということは羽毛を持たない抱卵の鳥の不安として意識されている。田中の場合、投げだそうとして投げ出しきれない境界に家族の幻想が現れては消えるようだ。

 こうして見てきた江戸と田中の歌には、二つの面からの闘いが見える。一つには旧来の女性の文脈、例えば母や女であることをどのように否定し更新してみせるのか、短歌的な情緒をどのように新しいものにしてみせるのかというような表現上の闘い。そしてもう一つには、永いスパンで流れる時間から切り離されたところで「私」をどのように確保するのかという闘いである。一見感覚的に見える言葉には、その言葉によってのみ保障される「私」への願いがあり、その震えのようなものが感じられる。