歌論なき時代の祈りの群像

「短歌ヴァーサス」04年第5号

 

 どんな時代にも歌は困難だ。たとえば現在四十代を迎えている私たち世代にとっても歌の意味や可能性は全くわからなかった。バブルの頂点を迎えようとする日本のポップで明るい空気の中で、もう言語表現の居場所などないのではないかと語られたこともあった。また短歌史を遡れば戦後にはもう短歌は終わったという議論まであった。新しい世代はむしろ時代の困難から生まれてくると言ってもいいのだろう。しかし今回編集部から依頼のあったここ数年の間にデビューした世代を考えるとき、ある特徴的な困難を思う。それは歌論の不在ということだ。歌論は、特に論争というほど表に出ているものでなくていい。自らを語り、他を語り、ミいては短歌史と問答する対話のようなものだ。あるいはカ章になっていなくてもいい。作品の背後にそのような対話の気配を直感させる何かがあるかどうか、個々の言葉が短歌という詩型と向き合い問いかけていると直感させるかどうか。これはたぶん重要な問題なのだ。

 そんな中で今広い意味での歌論を内在していると感じさせる作品を読んでみたい。

 

 両岸をつなぎとめいる橋渡りそのどちらにも白木蓮(はくれん)が散る

永田紅『日輪』 

 もうずいぶん齢をとりたる心地にて象のこどもの足裏おもう

同『北部キャンパスの日々』 

 空をゆく銀の女性型精神構造保持は永遠をまた見つけなほすも 

黒瀬珂瀾『黒耀宮』 

 血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ

同  『同』 

 

 例えば永田紅と黒瀬珂瀾という作者を対比的に考えるとき、両者の個性は際やかだ。永田には天性の個性と思われるおっとりとした時間感覚がある。一首目の両岸は橋の向こうとこちらだが、この歌にはその背後にこの世とあの世、過去と現在を連想させる雰囲気があって、そのどちらにも同じように白い白木蓮が散っているという。それはまるで何かを見るとき、そこに思わず瞬間をよぎる永遠を見てしまうようだ。二首目にはもう少しもの悲しい生活の時間感覚が添っている。しかしいずれにせよ永田の自らの内側を流れる時間と大いなる外界の時間との穏やかな行き来は印象的である。まるでそうした時間感覚を対局に睨むように黒瀬は「女性型精神構造保持」と呼びかける。存在のあり方を見つめ直すように「永遠を見つけなほす」女という性、それに対して黒瀬が打ち出すのが「建つるもの勃つるもの」である男という性だ。権力と力を希うこの性は、その向こうに絶壁を見ており、また刹那的でもある。『黒耀宮』は、昨今少女たちの間で人気の男色小説などのカルチャーの賑わしさを背景に出るべくして出た歌集だろう。滑稽と悲劇が背中合わせに張り付いたキワモノ的な妖しさは黒瀬の願うところにちがいない。

 永田と黒瀬のこうした特徴は、一昔前なら男性性、女性性といった言葉で説明されたかもしれない。しかしおそらく彼らの意識はそこにはない。性差による世界の見え方の差は魅力的な課題だが、この世代にとってもっと強い関心事となっているもの、あるいは無意識に抱え込んでいるのは世界への危機感とか閉塞感だろう。

 

 人類をふたつにわける 戦争を見たものと戦争を聞いたものらに

大松達知 『フリカティブ』 

 妻とわれ入り組むやうに生きてゐてされどそれぞれ爪切りがある 

同 『同』 

 ひなまつり菓子屋の前で気づくときすでに眩しき末世のさかり 

高島裕『旧制度』 

 パレスチナの少女が自爆せし時刻炎のごとく君を思ひゐき 

同 『雨を聴く』 

 

 大松と高島という正反対にみえる個性も辿ってみれば同じ不安を共有しているかもしれない。大松はこの世代では際だってバランス感覚のいい、落ち着いた文体を持つ作者だが、しかし第一歌集である『フリカティブ』の不思議なほどの落ち着きと重心の低さは対極にある世界への危機感や閉塞感とバランスを取るかのようでもあった。この歌でも「爪切り」に至るより以前にさまざまな落とし方の誘惑があり得たはずだが、最もプリミティブなところで落ち着ける。そうした選びをさせるのは、あるいは高島が抱えている出口無しの情念と対になりうるような世界への不安ではなかろうか。高島は『雨を聴く』で、まるで孤独な金鉱探しのように性愛にのめり込んでみせたが、それはこの世の手触りが性にならあると自らに言い聞かせるようであったし、世界の閉塞した空気に窒息しそうになりながら、しかし命の感触を求めざるを得ない悲哀を感じさせるものだった。

 世界への危機感や閉塞感といった万能の批評用語を当てはめてしまえば何でも読み解けてしまうといえばそうかもしれない。しかし、この世代があえて文章化された評論や論争のやりとりに興味を持てないままであるのは、あるいは語る以前にそうした批評用語に覆われているためかもしれない。むしろ、彼らの言葉は、無意識のうちに染み渡っている危機や閉塞感を自明としながら、それを自らのイメージで語り自らの感情で生き直すことに費やされているように見える。

 

 しじみ蝶百頭の展翅 指先の虫ピン震へてゐる午前二時 

目黒哲朗『CANNABIS』 

 二十代せめてガラス器くらゐには光りてやらむ毀れてやらむ 

同 『同』 

 オリオン座天に確かに置かれをり呼はばこゑはかりりと落ちむ

横山未来子『水をひらく手』 

 忘るとは解かるることと知りたるにみづから紐を結びなほせり 

同 『同』 

 エレベーター「閉」は「開」より乱暴に押され、カインはアベルを憎む

千葉聡 『微熱体』 

 僕がつける傷は輝きますように ケースの隅のきれいな画鋲

同 『そこにある光と傷と忘れもの』

 

 いずれも良質な感性をもつ作者たちだ。目黒は前衛短歌の修辞法の最もリリカルな部分を自らのものとしているようにみえる。震えるような澄んだ抒情に収斂されてゆく心の背景はしかし、前衛短歌とは全く異なるもっと荒涼とした今を背景にしている。それゆえ「光り」「毀れ」てもだれも注視することのない時代に置かれたモノローグの深い寂しさにも見える。横山は、この世代の中ではおそらく最も完成度の高い文体を持ち、端正でありながら粘りのある抒情と言葉とにおいて突出している。詠まれた風景の全てが相聞となってゆくのは自ずから、といった風情であり、才気を感じさせる。だが反面で、自らの心模様に対応する現実の匂いが薄いことが気になる。恋はいつの頃からか相聞であるより強く個の心のありかを確かめる術となったが、それゆえに横山の細やかな動きある心模様はありありと孤独を感じさせるのだ。また千葉は、穂村弘以降の世代でもっとも自覚的に文体を作り方向付けていこうとしている作者だろう。現代の痛みがどこにあるのか、鋭敏に知り、それを形象化してゆく。「僕がつける傷は輝きますように」と祈るとき、そこには個の居場所のなさが色濃く反映している。この歌の前にも無言の「せめて」が付され、あらかじめ叶えられることのない祈りとして個の心は察知されている。

 9.11テロののちのニューヨークが「もう元には戻らない」という喪失感に襲われたと言われるが、あるいは日本の独特の喪失感はニューヨークより早くからゆっくりと浸透してきたものかもしれないと思う。こうした個々の言葉と心のあり方は、まさしく現代の心と言葉の在処についての問いを隠れた主題としながら、その表出の方法の違いや憧れやこだわりを滲ませるものだろう。しかし一方でやはり個々の作者があまりにも孤独であることが気になるのだ。そしていつからだろうか、登場してくる若い歌人たちの作品に、叶わぬものを希い祈るような響きがあって気になっている。それはまるで細い糸のように通奏音のように個々の作者やスタイルを貫いていて、あるいはこれが若い感性に現れた現代ではないかと感じている。

 

 のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢

飯田有子『林檎貫通式』 

 ああなにをそんなに怒っているんだよ透明な巣の中を見ただけ

盛田志保子『木曜日』 

 日本語にうえていますと手紙来て/日本語いがいの空は広そう 

今橋愛『O脚の足』 

 うれしさもかなしさもみないちどきに咲かしめゆかばあとには卍

土橋磨由未『二人唱』 

 

 どの作品も非常に巧い。一首一首の修辞や言葉の洗練度でみれば、おそらくこれほどの高さで新人が生まれたことはあまりないのではないかと思う。飯田の『林檎貫通式』は新しい少女の感受性の高さで話題になったし、盛田の言葉は透明感を保ったまま現代の痛みに浸透してゆく。また今橋は独特の物言いでアクロバティックに言葉を繋いでゆき、土橋は、かなしみを核に心の風景と言葉とを自在に結んで強い印象を残す。これらの作者たちに限らず、現在登場してくる新しい作品の上手さは一つの特色と言えよう。しかし一方で何か危うい、とも思うのだ。それぞれの作者はそれぞれに個性を抱え、違った味わいを持っているはずなのだが、あるときシャッフルしてみるとみな一様に同じ抒情に繋がっている、という風景になるというようなことはないのだろうか。

 短歌は現代のさまざまなジャンルの動きに呼応しながら現代の短歌の在処としてもっともスリムな有りようを見せ始めているように見える。それは、古典から現代までの短歌に流れる縦の時間、その間のさまざまな試みや議論を捨象した最もスリムな形で現れていると言えよう。三十一文字と「私」が居るだけのこのシンプルさはすがすがしいが、しかし少し遠目に眺めると多くの個性が一様に同じ色合いの孤独に包まれて見える。短歌という最もスリムな詩型のエッセンスを自在に駆使している自由さは確実に面白い作品を生んでいるが、しかし、ここに至る前にもっと泥臭い議論が生まれてもいいのではないかとも思う。長い時間を生き残ったこの不可思議な詩型はそれ自体問いであって結論ではないからだ。真に創造的なものとそうでないものとの差はおそらくそうした問いの有無に関わっており、微差なのだ。