黒峠としての故郷

— 故郷の創造へ向けて —

「短歌往来」04年5月号

 

 黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地圖にはあらぬ

『原牛』 葛原妙子 

 

 「パトリ(源郷、先祖、神、郷土、同胞)と短歌について」という課題を正確に理解しているのかどうか自信がないままに書くほかないのだが、とりあえず漠然と短歌が背負っている文学の故郷としての役割、あるいは古き良き「日本」の心と言葉としての役割について考えてみようと思う。この課題はまた非常にしばしば私たちがごく普通の意味で思い描く故郷について考えることにも通じる。なぜ短歌は郷愁の対象になりやすいのか、その不思議を思いながら、私は葛原のこの歌を思い浮かべてしまうのだ。

 この歌の「あるひは」は、「ある日は」ではなく「あるいは」と解釈した方がいいように思う。葛原の他の歌を見ていると彼女の書き癖で、「あるひは」が「あるいは」の意味で用いられている例があるからだ。この、第三句が欠落した不安な歌は、「黒峠」という地名を言いようのない不思議な場所にしている。過去にそのような名の峠があり、しかしあるいは日本の地図上にはなかったのかもしれぬ、と言う。実際には黒峠は実在しており、広島県山県郡にあり、また私の故郷の大分県にもある。私の知る黒峠は、久住連山の一つ、黒岳を越える急峻な峠だ。この歌を読むたび、私はあの峠がこの世から消え闇に還ってしまったように感じる。そしてことさらに濃い闇となってさらに深く記憶に染みついたことを感じる。

 葛原には敗戦を潜った後の人間や社会をどのように詠むのかという永く彼女を通底する課題がある。墨汁を垂らした闇のような存在としての黒峠もこの課題と無縁ではないだろう。不安で不完全な韻律と抒情の海に沈む、あらかじめ失われた何か。しかしそれゆえに忘れ得ぬ何かとして根強く存在し続けている欠落。あるいは、故郷とは、そもそもこの黒峠のような存在ではないのか。あると信じていたものが本当は初めからないということに戦後の日本は痛いほど気付かざるを得なかったのではなかったか。それは「源郷」のようなものであり、時には「故郷」とよばれ、また「日本」とも呼ばれて今に至っているのではないか。

 昨秋亡くなったエドワード・サイードは、自らの伝記『遠い場所の記憶』を次のような言葉で締めくくっている。

 今では、「ふさわしく」あること、しかるべきところに収 まっている(まさに本拠地にあるというような)ことは重要 ではなく、望ましくないとさえ思えるようになってきた。 あるべきところから外れ、さ迷いつづけるのがよい。決し て家など所有せず、どのような場所にあっても(中略)決 して過度にくつろぐようなことのないほうがよいのだ。


 サイードはパレスチナ生まれで世界を彷徨い、アメリカで亡くなった。敵とさえ言えるアメリカに骨を埋めるほかなかった彼のこの言葉は重く、胸に染みる。しかしだからと言って感傷的に受け取るのは間違いだ。一体今世界中でどれほど多くの人々がサイードと同じ道を辿っており、これから先またどれほど多くの人がもっと過酷な道を辿ることになるだろう。彼の言葉は重いが、それは彼の不幸について語っているからではなく、普遍性に向けて語っているからだ。その意味では彼は今世紀の「故郷」と人々の関係、あるいは源郷(と呼ばれる何か)へと繋がる私たちの郷愁のあるべき姿を自ら一歩先に見極めたに過ぎない。

 民族と国家と言語とが幸福な一致を果たしている(かのように幻想したがっている)日本はサイードのこうした言葉と無縁だろうか。私は無縁ではあり得ないのだと思う。戦後以来、近代以来、本当はもっと以前から、私たちは私たちが失ったと感じ続けている「故郷」探しを続けている。だからこそ短歌に対する源郷幻想は何度でも蒸し返され、繰り返されるのだ。サイードはついにパレスチナに帰ることはなかった。彼が重すぎる現実のうちに思索し続けた「故郷」は現実という錘を持つが、私たちが郷愁とともに呼び寄せたがる「故郷」や「日本」は、しばしば郷愁の甘さによって水ぶくれしている。しかしそもそも私たちは私たちが恋い慕うような「日本」に棲んだことなど本当にあったのだろうか。「日本」であれ「故郷」であれ、いつも激しく移ろう現実の傍らに呼び寄せられる幻想として、心の嚢として存在するのではないか。

 

 春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ

『大和』前川佐美雄 

 

 昭和十四年という不穏な年に制作されたこの歌は、それゆえさまざまな読みを呼ぶ。三枝昂之は『前川佐美雄』のなかで「時代への失意がバネになった、非在のものを見つめようとする遠望感」とし、「遠望への意志」を「思へ」に読む。私もこの意見に近い。この「思へ」には、かつて『白凰』で詠んだ「野にかへり春億万の花のなかに探したづぬるわが母はなし」といった故郷感が底流として流れていよう。「母」はしばしばそうであるようにこの場合も「故郷」と同義語だ。自らが思い見る夢としての「母」があらかじめそこにいないという自覚は、「大和」にも繋がっている。「思へ」という強い思いによってのみ幻想されうる「大和」は、それが非在のものであると深く自覚されているからこそ痛切に響くのだ。非在のものに追い込まれてゆく切迫感とでも言うのだろうか、この歌が現実逃避の美学ではないことを「思へ」は伝えている。

 夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ

『子午線の繭』前登志夫 

 

 「もう村の叫びを誰もきこうとしないから村は沈黙した」という詞書きにはじまる連作の冒頭に置かれたこの歌の「村」は現実的に村が社会の中で機能しなくなり、人々を抱擁しなくなるのと反比例して存在感を増す。作者自身「村」の逃亡者であり、それだからこそ取り戻そうとする「村」に近づくために「盗賊」のような「華や」ぎを纏うのだ。陰影濃く、不在であるゆえに存在感を増す「村」は、日本が本気で村を捨て始めた時期の切実な精神の伽藍である。

 

 わが背なに幾重ゆれおるかげろうの秋の家霊のみなおんななる

『飛花抄』馬場あき子 

 

 「家」にとって女はどのような存在であっただろう。近代は男系を幻想しつつ郷愁の対象としては母を据えた。逆に言えば回帰するべき場所として母を必要としつつ、「家」には父を据えたのである。それに対して馬場が創ったのが女の家霊達だ。矛盾した幻想に膨れていた「家」に対して馬場の創った家には見晴らしの良い透明感がある。それは敗戦によって滅んだ近代家制度を遠望しつつ馬場が創り上げた新しい「家」だ。郷愁の対象であった母達、女達を呼び寄せ、あらためて家霊に据えるとき、厳めしい権威の砦の「家」などははじめからなかったように感じられる。人々はかくも柔らかい抒情を寄せ合って「家」を幻想してきた。そんな当然が秋の透明な陽射しのなかで明るみになるのである。

 私たちは「故郷」や「日本」が失われた(と思う)たび、それらを創造してきた。それはかつて存在したものの再生ではなく、まして回帰などであるはずがなく、創造でしかありえなかった。私たちの記憶に黒峠となって沈んでいる「故郷」は、あるいは私たちの孤独と同じ重さ、同じほどに濃い闇なのかもしれない。そういう意味では「故郷」の創造は、孤独の探求に他ならない。孤独を基点とした創造、そのことによってのみ「日本」も「故郷」も価値があると私は思う。