未知の言葉であるために

初出『歌壇』00.11

 

いま、あえて資料や引用を遠ざけて女性ジェンダーと歌の問題を私自身の問いとして考えてみようと思う。実のところ私はこの時代に女としての視点を高ヲるのをスリリングなことのはずだと思っている。多くの問題が行き詰まっているなかで、ジェンダーに関わる視点だけはいまだ言葉の届かない未知を湛えた問いとして、あるいは言葉の価値を揺さぶるかもしれない鉱脈を眠らせたまま燻り続けている気がする。しかし、それにも関わらずこの問題について語るのは気が重く、生産的な展望が見えにくい。何よりそこで語られる<女>にときめきが乏しい。

 その原因の一つに、女性学やフェミニズムという学問のフィールドで交わされる議論と阜サの問題としてのそれが大きく食い違ったままだということがある。それは単に女性学が差し出す文脈や学術用語を<正しく>共有すれば解決するというようなものではない。両者に接点を見いだそうとしたのが八諸N代の女性短歌の最終的な動きの一つだったと言えるだろう。ある時期、同じ主題を巡ってそれぞれの文脈の中で議論が交わされてもいた。しかしそれはパラレルに目指すものを違えた議論ではなかったのだろうか。この二つの文脈は本当に繋がるものなのか?少なくとももっと生産的に語り合えるためにもその齟齬の質を見つめてみる必要があるのではないか。もしフェミニズム批評というものが成り立つとすればここは避けて通れない道のはずだ。

 まずもっとも素朴なところから語ってみよう。巨視的に見るとき日本社会はなお男性中心の国「を変えていないし、昨今は<成功>した近代への郷愁も顔を覗かせている。時間軸を遡るとき、性役割の強調が国家主義の穀zに欠かせないものであったことや、もっと言えば国家や社会は子宮を強力に管理するべく成り立ってきた代物であるかもしれない。世界を見れば民族戦争の渦中に強姦されて母となった女達はどちらの民族にも所属できぬ子供を抱えて境界線上に住み続けている。エンターテイメントに視野を転じて批評を試みるなら、北野武の映画がなけなしの男の美学の残滓を掬って成り立つネオ・ジャパネスクではないか、と疑うことぐらいはできる。こうした現実、あるいはそれを語る枠組みに対しては不思議にいくらでも饒舌になりうる。しかし、この饒舌こそが私にとって胡散臭い。なぜならこうして並べた言葉はもう私自身の言葉ではなく、何かの型紙によって切り抜かれた言葉だからだ。そのことに呆然としながら、なぜ女を語る言葉はこれほど饒舌になってしまうのか、と思う。そしてまた、こうした言葉と文芸としての言葉のリアリティーとのすれ違いが最も大きくなっているのが今なのではないか、とも思うのだ。

 例えば従軍慰安婦問題が国家間のメンツをかけた争いに矮小化され落ちてゆくとき、それは違う、と感じる感性はおそらく多くの人間が抱く。しかし、その違う、と感じる何かと私自身の置かれた生活との落差は余りにも大きい。言葉で直接言い当てることの困難なところに見取るべき主題は潜り込んでゆく。そして短歌阜サは直接の手触りの感じにくいそうした現実に向けてより繊細により深く、ときにはアクロバティックに言葉の根を下ろそうと試みている。どんな言葉ならリアリティーを掴めるのか、現実がいよいよ巧妙に現実を覆うとき、そこに生きる<私>の言葉はどこに刺さってゆけるのか。九諸N代から今日に至る課題はそこにあると言える。

 そんなとき、例えば社会学のフィールドから女性の社会進出について語る言葉が直接文芸の何かを言い当てうるとは思わない。社会学や女性学や倫理学が平等とは何かを議論するように文芸が平等を語るわけではない。そもそも文芸は平等を目指すものでさえない。また、例えばしばしば目にする言葉、<抑圧国「>は批評の言葉として本当に生きているのだろうか。近代の文芸に、そして様々な女性の関わる主題に<抑圧国「>を見取ったのはフェミニズム批評の成果の一つであろう。しかしその一本槍で批評が成り立ったとするのはあまりにもお粗末じゃないかと思う。第一こうした言葉が繰り返し登場するとき、批評の言葉として生命を持ちうるのだろうかと疑ってしまう。また、<女>という政治的存在への気づきが促され、より自覚的な<個人>へという展望が示されるとき、それは文芸の場面にとってどのような言葉への期待なのかが判然としないのだ。むしろ近年の短歌の収穫を見ている限り、そうした主題はある部分では栄養となりまた全体では普遍化されて使命を果たしたのではないのかと感じられさえする。そして八諸N代の女歌論議は、それが語り終えられたとき個々の作者の内で仕切り直しされ、新しい言葉となるために沈黙されたのではなかったか。もし、やり残しがあるとすればそれ以後今日の作品の果たした仕事について語る批評のほうかもしれない。

 

 子を孕みひっそりと吾は楠なればいつまでも雨のそばにありたり

『泡宇宙の蛙』渡辺松男 

 子のなかに眠りの液が溜まりおり抱いて和室の隅に運びつ

『夜光』吉川宏志 

 起立して中国国歌を聞きをれば剥かれゆく蜜柑のごとき我かも

『海量』 大口玲子 

 わが首に咬みつくように哭く君をおどろきながら幹になりゆく

『若月祭』梅内美華子 

 まつ白きさくらよさくら女子も卵もむかし贈り物なり

『たましひに着る服なくて』 米川千嘉子 

 

 これらの作品から何が言えるだろう。引用した作品がどのようにこの議論に関わるのか、はっきりとした基準があって選んだわけではない。ただ、これらの歌が、何かの力をもち、交わされている議論の何かを刺激し、押し返すものを秘めていると感じられるから引いてみた。

 渡辺の歌を男が妊娠するという奇想によって面白がるのは表層的であってつまらない。ここで面白いのは、むしろ渡辺が男であるゆえに<孕>むことのやるせない孤独とむきだしの柔らかさを必要としたということだ。渡辺の場合、最も奥深い部分には近代以来の男の危うい末裔としての自覚があり、その自分を表現するのに妊娠することが最も相応しかったのだ。この歌において<孕む>ことは比喩や技巧としてという以上に、もっと切実な感覚として味わわれている。また吉川の歌では子供に踏み込んだ感覚的な表現が印象的だ。公式的な父をはみ出す意識が働いているのは当然だが、吉川がこのように鋭敏に子供を味わう背景には茫漠として手触りのない現代社会の危うさが張り付いている。漂流する<私>が子供にたどり着いたときその身体を通じて自らの肉体の感覚を取り戻すかのように。これらの歌には好んでこれまでの女歌が開拓した感覚表現が摂取された痕跡があり、それが彼らの切実な飢えや空白感を埋めるために引き寄せられている。これは実に興味深いではないか。

 大口と梅内は世代的にも若く、一連の議論には関わっていない。しかし、それだけに女を巡る言説の不自由をも逃れており、彼女たちの表現は時や場面を選んで主語としての<私>の所属を違えるのだ。大口の歌には他国で味わうみずみずしい<私>が描かれる。中国において中国国歌を聞くという象徴的な体験のもとに、大口はそこで日本人という枠組みに還元されることをさえ逃れて<剥かれゆく蜜柑>のように裸である。梅内の場合は、もっと直接に皮膚感覚で相手を味わう。相手が異性であるかどうかさえ判然としないが、<君>はごく普通に解釈すれば男だろう。自らが<幹>になることによって対象の感情の質や、その激しい直接さは際だつ。この歌が恋の場面に置かれるとき、性差は恋愛にとって皮膚感覚の差以上ではない。梅内にとって他者はいつも皮膚の外にいる存在であり、その中に男も偶然に存在する。彼女らのこの自在が女歌の議論の蓄積を無効にするものなのかどうかはわからないが、語られることによって<女>にしかなれなくなる不自由に敏感であり、そこからはみ出す今日性が見える。

 米川の歌は一見すると実に分かりやすい女歌と見える。女性学からも橋を架けやすい批評に裏打ちされていよう。しかし、考えてみると表現の現場にとって女であるということは作為の一つである。書くという作業が人為である以上、自然に女であるということなどありえない。この歌が新しいのは、米川自身がこの一首のために一回限り創造した<女>のまなざしによるのであり、そこにに自らを追い込んでゆく気迫があるからだ。柔らかな言葉の襞からぎらりとはみ出す歴史のゆがみは、女性史の文脈でもあるが、この歌の手柄はその怨を艶に変えていることにある。この文体の旨みを語る言葉が一連の議論の中にまだない。

 文芸にとってジェンダーによる視点は<政治的に正当(politically correct)>に糺された視野を目指すものではなく、むしろそのゆがみから見える人間や社会や言葉の複雑な面白さを、そしてその襞にしまわれた感情について語るものであるはずだ。その意味では文芸はいわゆる<進歩>はしないし、文芸としての言葉を刺激するフェロモンのようなものとして表現の現場に現れては消えるのがジェンダー論なのではないかとさえ思う。極論すればフェロモンを放たなくなったとき、どのような正しい言説も文芸にとって用済みであるとさえ言える。そういう意味ではフェミニズムの言説のほうが一周回遅れで表現を語っている場合もある。貧しいながら一人の表現者としての私は、ジェンダー論議のあらゆる言説より先を走る言葉としていま生まれつつある歌たちを思うのだ。 少なくとも文芸は、そしてその批評は、フェミニズムが、女性学がそしてあらゆる言説が切り開いた道を後から辿ることはできない。それでは言葉は生命を持ち得ないからだ。「これは何なんだ?」という驚き、既知の文脈に還元できない「?」を永久に先にずらしながら未知の言葉として抱えてゆくこと、そのような未知の一つとして私の<女>はある。