小山鉄郎(共同通信社編集委員)/短歌WAVE 2003-Winter号掲載
川野里子の『未知の言葉であるために』をめぐる批評会が昨秋、東京であり、私も発言者として呼ばれ、この本に対する考えを述べた。私は勤務先の通信社記者として短歌を含む文芸全般を八年ほど担当したのだが、短歌に関する知識は素人のそれである。そんな私が「歌壇の外部からの意見を」という川野からの要請に応えたのは、この評論集に表された「言葉」の情況をめぐる川野の深い認識に強く動かされるものがあったからである。
だがこの本はそのような「言葉」の現状をめぐる視点から評されることは、その後もなかったように思われる。それ故、門外漢ではあるが私が受け取ったことを、ここに書き留めておきたいと思う。
川野は一九九二年から九四年にかけて、アメリカの西海岸に住んでいる。その海外体験がこの評論集に決定的なものを与えたのだろう。何故なら、川野には八〇年代中頃から書いた数多くの評論があるにもかかわらず、それらがすべて捨てられているのである。
私の思うところでは、米国から帰国した川野にとって、この現代日本社会のありようが、閉ざされた巨大な映画館のように感じられたのではないだろうか。またはそれぞれの役割が自足的に演じられる大きなスタジオ、あるいはあの『千と千尋の神隠し』のような大テーマパークのように感じられたのではあるまいか。
例えば、「解釈共同体の行方」という副題のついた「この冷えの感覚を」の中に、「私がこの歌(加藤治郎の「にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった」のこと=引用・小山)に接したのは、二年余り日本を不在にした後、ようやく日常的に歌とその言葉とに接するようになって間もなくのことである。私の歌への接し方はそれゆえ浦島太郎のように新鮮であり、それゆえの無知も不明もあったと思う。私は、いわば解釈共同体というものの外からやってきた人間であった」と川野自身が書いている。
「この冷えの感覚を」の中には加藤の「くろがねの人間魚雷回天に空調はなし便器はいかに」の一首をめぐり、山田富士郎が「加藤氏の歌に表明された認識と感受性の質を実によく代弁している」という中川いさみの漫画「兄さんのバカ!」を挙げての山田の評論(「正義の側に立たないこと」)に触れた部分がある。
その漫画には「元、人間魚雷の松本さん」というのが出てくるのだが、そこで川野は「この漫画の奇妙に洗練されたニュアンスは、一見戦後という時間軸から切れたように見えながら、実は、日本人の戦後というたった一つの空間の時間の流れだけを後生大事に抱え、無知を装おうとする者のそれではないだろうか」「日本という狭い空間のみに通じ得る刹那的な共感だけを頼りにしている感性かもしれない」と記して、閉ざされた共同体的な世界への強い嫌悪を表明している。
この激しい批評の言葉は、その漫画にだけ向けられたものではない。歌人であり、短歌の批評家である川野の言葉の矢は、もちろん歌壇に向かって射られているだろう。いや日本語で語り、記述する者たち全体に向けて発せられていると考えるべきかもしれない。当然、それは川野本人にも向けられている。
「あきらかに旅人としての透明なバリアがあり、わたしはその透明で強力な硝子を通して、いわば温室の中にいる自分の命を実感していたのである」。海外在住中に川野が、メキシコの貧民地域で感じた昂揚感を省みて書いた文章にこんな言葉を見つけることができるからだ。
ではなぜ川野は、このように「解釈共同体」を鋭く糾弾するのか。映画館的、スタジオ的社会に激しい批判の言葉を向けるのか。それは、短歌という定型文芸が必然的に、いま抱える言葉の問題を川野が考え抜こうしているからである。
「少し回り道をしてみたい」―この評論集は、こんな一言から始まっているのだが、川野の考えに迫る前に、私も同じように、少し回り道をしてみたい。我々の言葉の現状をめぐる小説家たちの格闘の姿と、それに対する私見を述べながら、川野の考えに接近してみたいのだ。
高度成長後の日本社会、具体的には一九八〇年代からの二十年ぐらいの間に、我々の言語空間に大きな変化が訪れていると私は考えている。論旨を明快にするために、どんな変化なのか、結論を先に記しておけば、言葉の中心の喪失と他への言葉の接続困難性という事態である。
例えば、こんな経験はないだろうか。知り合いなりと小説について話していて、相手が「あの小説は」と語りだした時、その評価以前に「あれが小説か?」「この人は、あんなものを小説と思っているのか!」という感情に襲われたことはないだろうか。だが、これは相手の小説観が間違っているのではない、相手もこちらの考えに対して「えっ、そんなのが小説!?」と感じているのである。
つまり今や同じ〈小説〉という言葉を発語しても、読み手、発語者の数だけ〈小説〉という言葉の意味があるような時代に我々は生きている。
〈小説〉といえば同じ共通した〈小説〉というものを思い浮かべられる「言葉の中心」が存在した時、作家たちは、そのまま〈小説〉を書き始めればよかった。だが、読者の数だけの〈小説〉が存在している時、どうやって読む者に作家が自らの作品を〈小説〉として届け得るのか。そのような困難な時代に、作家たちは言葉の専門家として在るのである。
村上春樹の小説には、しばしば冒頭部分に物語本体と直接関係のない部分がついている。例えば『ノルウェイの森』の冒頭にも何ページかの回想的場面がある。これをとばして読んでも物語の大部分を理解することができるが、この冒頭の部分は、今や各人の間でバラバラになって、そのままでは共通のものとしては接続できない〈小説〉を、共通の〈小説〉として接続させる装置のような役目を果たしているのである。「これから自分が始める〈小説〉というのは、こういうものだ」と読者の前に示して著者の〈小説〉を定義し、読者のバラバラの〈小説〉を共通化させる部分となっている。
また高橋源一郎の『ペンギン村に陽は落ちて』は、サザエさんなど、アニメや漫画のキャラクターを主人公にした小説だが、これも似たようなことが反映している。何となく、サザエさんの家族のことをみんな知っている。だが本当に知っているのかというと、サザエさんの恋愛観などについてはほとんど知らず、その余白に作家はかなり自由に人物像を書き込んでいくことができるのだが、そのサザエさんを、何となく〈よく知っている〉ということが、バラバラの意味に解体された我々を「共通の場」に立たせることができ、物語を起動させるのである。
久間十義という作家は、しばしば実際の事件の犯人や被害者をモデルにした主人公が登場する小説を書く。デビュー作『マネーゲーム』は豊田商事事件で殺された会長がモデルの主人公だった。彼は殺害される場面がテレビ報道され、一躍世界にも知られる人物となった。だが実際はどんな人だったのか、ほとんど分からない。その一方で皆が報道で〈知っている〉ということが、バラバラの読者を「共通の地点」に置く。さらに吉本ばなな、小川洋子らが主人公をできるだけ沈黙させ、「物」をたくさん登場させる小説を書いた。つまり言葉をできるだけ削っていくことで、バラバラの偏差を限りなく縮小させ、ついにはバラバラの言葉を「物の世界」に閉じ込め、偏差を消して「共通の場」に読者を立たせたのだ。
中心を喪失し激しく流動していく、我々の言葉の情況の中で、これらの作家は自らの〈言葉〉を読者に届けるために、そのような形で格闘してきたのである。
さて、以上が長い回り道なのだが、このバラバラの言葉の状態を「共通の場」に立たせるものとして、定型短詩型のジャンルも同じような役割を果たしているのだ。つまり短歌は定型ゆえに、ジャンルの形自体が「共通の場」を提示している。『サラダ記念日』のベストセラー現象の理由には、この「言葉の接続困難性」の時代に、定型が持つ共通性の力があったことは間違いないだろう。定型の短詩型文芸である短歌の、この時代の流行には、中心を喪失してバラバラとなった我々の〈言葉〉の反映があるのだ。
そして、現在の我々を覆う、このバラバラの〈言葉〉の感覚を最も深いところで受け止めている一人が、川野里子という歌人・評論家なのである。
例えば、「韻文世界と世界文学の交差点」という巻頭評論の中に、こんな文章がある。これはノーベル文学賞を受けた二人の日本人作家の受賞講演を対比的に紹介しながら、韻文と世界文学について論じた評論だ。
「私がここであえて川端や大江の、しかもこのような場面でのスピーチから語り始めたのは、現代短歌が多様に多岐にその価値観や評価の軸を増やしているなかで、個々の作品の価値や方向や読みそのものが、選びや好みとしてしか語ることのできないような、共通の語りの場を喪失しつつある状況を背景としている」
これはまさに、言葉の中心の喪失と他への言葉の接続困難性について文章である。だがさらによく見てみれば、ここに定型短詩型の短歌独特の困難もうかがえるのだ。川野が指摘するように「多様に多岐にその価値観や評価の軸を増やしている」こと、「共通の語りの場を喪失しつつある状況」があるゆえに、逆説的に「共通性」をジャンル自体が持つ短歌の隆盛という不思議な循環が起きているとも言えるのである。そのことに深い危機感を抱いているのもまた川野なのだ。
「中島敦と俵万智にみる定型詩の問題」というサブタイトルがついた「無思想のための思想ということ」で、パラオ時代の中島敦の短歌に触れて、川野は論じている。同じ時代の内省的な散文のなかには、時代に飲み込まれてゆく一人の青年としての深い翳りと苦悩が表されているにもかかわらず、この時代の歌、「あめつちの大きしづけさやこの真昼珊瑚礁干潟に光足らひつ」などの歌の方は、興が乗るままに記しているという中島敦の姿を紹介して、次のように指摘する。
「敦にとっては短歌という詩形は苦しい自問から逃れうるまほろばであったかもしれない。三十一文字の枠組みが敦を解放し、しかし、そのゆえに言葉はまるごと時代の波にさらわれた、と言えはしないだろうか」
短歌という定型ジャンルが持つ危険性をも考えながら創作・評論活動をする川野の特徴をよく表している言葉だが、この評論集の美質は、川野が〈言葉〉の現状をめぐるそのような深い認識を持ちながら、認識にとどまっていないことだ。
時代の小説家たちが、試みているように、我々の〈言葉〉を取り戻すために、川野は独特のアプローチで〈言葉〉の「共通の場」を再構築しようとしている。その川野のアプローチの仕方を私なりの言葉として名付けてみれば、「版画的思考」とでも呼びたい方法である。
「韻文世界と世界文学の交差点」「無思想のための思想ということ―中島敦と俵万智にみる定型詩の問題」「どこが痛むのか―若手歌人と近代」「文芸とフェミニズム」「茂吉と『青鞜』」「〈社会〉の発見―中城ふみ子と三國玲子の戦後」「『血』と近代―与謝野晶子の語彙」「ホーム―伝統論と白秋」「写生と『私』―茂吉と第二芸術論」…。いずれもこの中に収められた評論の名前だが、これらはみな「AとB」という形になっている。
川野里子は、このように二つのものを並べて、論じた時に最も自分の思考が活発に働くというタイプなのだろう。これらを注意深く読んでいくと、川野はその論の多くで「A」を否定し、「B」を否定するという展開になっている。
例えば、冒頭の「韻文世界と世界文学の交差点」を例にとってみると、大江健三郎のノーベル賞講演に対して「この大江の発言は普遍性に対して開かれてゆくべきだという点において力があるが、しかし、意味に還元し得ない言葉、ことに韻文的世界の大きな魅力である言葉そのものの美や味わいが視野に入っているとは言いがたい」と記す。そして川端康成のそれに対しても「わたしが、川端の講演をたどりながら感じた痛ましさは、ひとつには、言葉をそこから未来へ導こうとする、あるいは自ら置かれた位置と世界を理解しようという意志をあらかじめ他者に預けていることによる」と記す。
川野は、批評対象の美質を紹介しながら、大江も、川端も、否定して前に進んでいくのである。このアプローチの仕方こそが私が言う版画的思考方法だ。
油絵は多くの場合、筆を置いたところにその形が現れるだろう。木版画は逆に刀が彫り残したところに表現される形が現れてくるのである。川野は大江を版木から彫り落とす。川端を彫り落とす。
その両者の間に彫り残されたものこそが、今、中心を失ってバラバラとなった〈言葉〉にとって、川野が再構築を目指す〈言葉〉の「共通の場」なのである。そして、その「共通の場」が彫り残されるまでに、大江と川端の例を見てもわかるように、二者の間の対話が川野によってなされている。そのような緊張に満ちた対話の果てに、「共通の場」は“彫り残されている”といえるだろう。
版木の上に像は反転して在る。否定の連続の果てに、「共通の場」を浮かび上がらせようとする川野の孤独な闘いぶりに気づいて、私は強く動かされたのだ。
最後に、これだけは確認しておかなくてはならない。「共通の場」や「共通の地点」を再構築できるということは、我々が互いに同じ存在であることを確認することではない。むしろ逆のことだ。
我々は、そこにある「共通の地点」を見つけることによって、初めて、その「共通の地点」から、自分はどれだけ遠く離れているのか、近く在るのか、それぞれの偏差を知ることができる。
そうやって互いの違いを本当に知り、両者が向き合おうとする時、我々の〈言葉〉は〈未知の言葉〉として蘇るのだ。