詩型の現れる場所

毎日新聞04年5月23日

 

岡井隆の最新歌集『伊太利亜』は、横書きでしかも語句をデザインのように自由にページに配した異色の歌集だ。イタリア旅行中の歌が時間を追ってドキュメンタリー風に綴られる。レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」を前にした一首。

 

 ユダがゐて

 俺たちのなかにも

 ユダはゐて

 俺もときどき

 ユダになつてゐた

(原文横書き)

 この歌は「世界は、最後の、晩餐で、ある」という自由詩へと連なってゆく。絵が見る者を飲み込み、現実の世界が最後の晩餐と化してゆく臨場感は横書きならではのものだろう。

 こうした試みは自由詩の分野では珍しくない。しかし、ここでは岡井が蓄えてきた独特の韻律がより濃厚に現れたと言えよう。イタリアの明るい風景に追われるような口ごもり、影のような物思い、ぼそぼそとした独語。散乱する文字の固まりから紛れもない岡井の韻律がぬっと立ち上がる。横書きに埋もれない詩型の強さが背後に添う。

 昨年末刊行の今橋愛の歌集『O脚の膝』では、短歌という詩型に体当たりしているかのような若い感性が印象的だった。

 

 ああこれをしっとというのか

 だとしたらこれどこにおけばいいのですか

 

 ひらがなの多様によってまるで言葉を初期化するかのようである。あらゆるごちゃ混ぜの現代感覚を短歌にぶつけ、そこから反射してくるものを掬う。いま歌を作ってみようという若者にとって、短歌は異形の詩型であろう。異形ゆえに面白い、とでも言うように彼らは自分の本音をぶつけるが、その感受性は繊細だ。ここには明らかに近代以来の時間軸に培われた短歌とは異なる、危ういほどにスリムな詩型が浮かび上がっている。

 今この詩型の姿がより鮮明に見えるのは、意外にも短歌の中心ではなく外れの方かもしれない。そこでは短歌とは何ですか、という問いが歌を支えている。