毎日新聞03年11月9日地方によって異なります
旨い歌、というのがある。上手いだけでなく、吟醸酒のように、手間を掛けた料理のように味わえる歌というのは多くはない。高野公彦の第十歌集『渾円球』が出た。故郷の記憶を抱き、女性への憧れを抱き、濁流のような現代を遠望しながら、高野は短歌という詩型の旨みを濃縮してゆく。都会の一隅に閑居したかのような物思いは、平成の永井荷風を思わせもする。
通勤の車内混みつつ一耳に微小惑星・真珠が澄めり
風はみづから虚空に湧きて走りゆく渾円球のうへの迷路を
老いゆかば何してもよし何をせむほとけ拝まむ女盗まむ
一方で、多忙を極める生活の中で見失いそうな何かを歌で繋ぎ止めようとする歌もある。科学者と歌人という二つの顔を持つ永田和宏は、科学者、歌人、父、夫といったどれものっぴきならない役割に揉まれ、悲鳴をあげながら自らの本音を歌に預ける。第八歌集『風位』は、歌に出会うときだけ開く柔らかな自分を確認するように詠みこまれた歌集だ。
心やさしいアトムが好きでなかったと今なら言えるような気がする
水の面の杭に止まれる蜻蛉の夢をみるなら短い夢を
この研究室の十年先を考えているはわれのみ われのみが残る
短歌という詩型の存在感が問われることの多い今日、短歌がいかに詠み手の生と密接な詩型であるかを改めて思う。「人生」のような鬱陶しさが表現になりにくい時代だが、人の生に密着した言葉には人の匂いのする時間が籠もっている。高野の老いの自覚も、永田の中年の坂の苦しさも、背後に濃厚な命の時間を背負っている。体を張って得る、時間の染みた言葉だ。
他の文芸が易々と手放してしまったものを短歌だけが抱えている。それは文芸にとって思いがけなく重要なものだったりする。