世界を映す心身

毎日新聞2003年9月14日(地方によって異なります)

 

 女優の写真あまた売らるるバザールに自由はむつと匂ひ立つなり

栗木京子

 赤き布縫ひ終へしのち湯に入れば身よりほつれて赫き糸浮く

 

 栗木京子の第五歌集『夏のうしろ』が出た。ニューヨークのテロなど世界で起こる出来事に機敏に反応しつつ自らの今を彫り込む。アフガニスタンを歌った一首め。タリバンが去った街に一番先に溢れたのが女優の写真だったという。政治状況に隠されていた人間の生な息吹きが伝わる瞬間である。自由のもつ公式的な意味ではなく、その感触が大切なのだ。世界で何が起こっているのか、自分がどんな状況を生きようとしているのか理解しにくい今、そこを一歩踏みだし、感覚で世界をどのように直感できるのか、と問いかける。栗木の持ち味である硬質で知的な抒情に心身の感触を積極的に生かしたのが今回の歌集だろう。二首めにも鋭敏な身体が感じられる。

 少し前になるが、柳宣宏の『与楽』を読んだときにも世界に感応する心身を感じた。

 

 海原を飛んでゐるのはかもめですどこまで行つてもまる見えである      

柳宣宏

 硝子戸に大きなる蛾がへばりつく冬の日である。そのままにせよ

 

 柳は贅肉を沿ぎ、単純化した自然詠に自分や社会を刻もうとする。「私の目は桜の花を見、耳は風の音を聞き、手は木の肌を触つた。見たことや聴いたものは、私の身体の中で心となつて騒いだ」とあとがきに記す柳は、身辺の自然に可能な限り同化し、世界を感受する。どこまで窪んで世界を受け入れられるのか、その徹底した受け身の姿勢に痛みが滲む。三十年の歌歴の上に問う第一歌集だ。

 自己をうち立て世界と対峙するのではなく、柔軟に鋭敏に開かれたものとして心身を差し出すとき、見えにくい世界がくっきりとそこに映ることがある。