毎日新聞 2003年2月23日(12版)
最近刊行される第一歌集に、ある共通した印象を受けている。それは、ぎゅっと濃縮された感情であり、思い詰めたような表情である。伸びやかさ、新鮮さといった新人につきものの評価を彼らは欲していない。
湯船にてなみだ出でたりだん だんに泣くこころよさにおほはれ泣けり
『茉莉花のために』多田零
感情の充満したるうつしみは 絵はがきをながくながくえらびぬ
多田は背景となる物語を捨象し、感情や身体感覚に集中する。感情の満ちた袋のような体。心と体のけじめのない塊のような「私」。なぜ泣くのかではなく、どのように泣くのかが大切なのであり、なぜ絵はがきを選べないのかではなく、どのように選べないのかが重要なのだ。そうした表現へのひたすらさは何か不思議な訴えを秘めている。
与へたる逃げ道を君が逃げてゆく、いつもと同じ道を慌てて
『母音梯形』小川真理子
外国の美容院の床に散らばれる黒髪わつと掻き集めたし
小川は人や社会との関係を見つめ、そこに自分の影を彫り込んでゆく。恋人との関係、異文化との関係、どちらも凝視することで「私」を確認するようだ。そして見ることなしには自らの存在が不安なのだ。バランスのいい文体を持ちながら、しかし関係性への視線はときおりバランスを欠くほどシャープだ。
言葉は時代と無縁ではない。明日の見えない漂流感のなかで、私たちはより確かな手触りを求めている。言葉にも確かな世界への手がかりとしての身体や感情の手触りが求められている。それは時代に翻弄され飛散した「私」を今一度凝縮し、確かめる作業でもある。時には過剰にさえ思われる「私」とその感覚への執着は自閉と隣り合わせでもある。しかし、何か不思議な飢餓感があり、スタイルの違いを超えて「私」がここにいる確かな感触を求めている。