「毎日新聞」2003年 6月 8日
「現代詩手帖」6月号が戦後関西詩の特集を組んでいる。その話題の中心となっているのが小野十三郎であり、戦後彼が否定した「短歌的抒情」である。一九四八年、小野は「奴隷の韻律」の中で「あの三十一字音量感の底をながれている濡れた湿っぽいでれでれした詠嘆調」と短歌とその抒情の滲みた文化を強く否定した。
永田和宏は「実は小野自身のなかにこそ、意識の底に抜きがたくそれが存在することに彼自身が気付いていた」とし、細見和之も「このような演歌にも等しい抒情を、小野が自分のなかに抱えていた」と詩を論じる。また富岡多恵子はインタビューの中で、小野が「母の文化の凝視を避けている」ことに触れ、それと「短歌的抒情」への嫌悪は遠くない関係にあることをあらためて示唆する。
小野は自らの裡の短歌の強い重力に喘ぎ、そこから逃れることが詩歌の未来だと信じた。そして半世紀。
このピンク、この柔らかさ、本物の魚肉ソーセージでございます、閣下
ハイウェイの光のなかを突き進むウルトラマンの精子のように
穂村弘の歌集『ラインマーカーズ』が出た。これまでの作品に新作を混ぜたセレクションで、穂村の世界が見渡せる。小野との対比で言えば穂村は重力のないことに喘いでいる。どこにも着地できぬもどかしさを抱えて「本物」のない表層を「ウルトラマンの精子」のように「突き進む」ほかない。この痛みは偽物だろうか?
私は小野の喘ぎと同様に穂村の喘ぎも本物だと感じる。確かに「濡れた湿っぽいでれでれした詠嘆調」ではない穂村の浮遊感の出所を探ってゆくと、案外小野が否定しつつ抱えた抒情に近いものが抽出できるような気もする。小野が苦しんだ重力としてではなく、浮力として。「短歌的抒情」の根は浅くない。