角川「短歌」
シャツの背が風にふくらむこんな日はなれる気がするコスモポリタン
『ヘブライ歴』
一九九三年の夏、アメリカの東海岸にある有名なビーチを目指して小島ゆかり一家と私たち家族は車を走らせていた。空はどこまでも青く、そのかなたにまだ見ぬビーチが輝いていた。
私達は出発したとたんにお互いを見失っていた。もうとっくに先を走っているであろう小島さん達の車を追いかけて私は時速百キロを超すスピードで追い越しを続けていた。免許をとって二ヶ月目であった。後で聞いたところによると、小島さんの夫が運転する車はハイウェイの入り口を間違えたらしい。「反対車線に乗らなきゃ」と焦る夫に小島さんは「ほらそこそこ」と分離帯に隔てられた反対車線を指さし、出口まであとどれくらいかと聞かれると、地図を見ながら「あと三センチ!」と答えるなどして一家をパニックに陥れていた。待ち合わせ場所の涼しい青芝の広がる公園でようやくお互いに出逢ったとき、小島さんと私は実に爽快なドライブだったことを互いに讃え合ったが、家族はすっかり無口になっていた。アメリカ柳が風に揺れていた。何かが常に危うく、しかし眩しくてならない異国の夏だった。
椿見ぬ春はさみしきうすくうすく紅さし死ののちも日本人
同
かならず日本に死なずともよし絵葉書のランプに今宵わが火を入れぬ
同
例えばひとりの歌人の一生に訪れるさまざまな振幅を思うとき、アメリカ生活は小島ゆかりの歌に骨太い物思いの縦糸を付け加えた時間であったように思う。彼女の歌の基本的な持ち味は透明な音楽性にある。細やかな情愛がそのまま韻律となり、日常の何気ないものに触れては共鳴し広がってゆく音楽としての歌。アメリカ生活はその音楽性に抗うように迫り上がる物思いを歌に据えずにおかなかった。「死ののちも日本人」であり、また「かならず日本に死なずともよし」と思う「私」。「日本」の哀しい抽象性は、あらためて小島を揺さぶり、従来の透明な響きに深い翳りを添える。
思い出す限りあのアメリカの夏の光は、私達を眩しく灼き、同時に危うい問いの絶壁に立たせてもいた。日本人であるとはどういう事なのか、民族とは何か、私とは何か、これ以上を踏み込めば、これ以上を問えば壊れてしまいかねないものを抱え、全身を晒しながら生きている感覚があった。
やっと辿り着いたビーチに人影はまばらだった。サングラスを掛け白い砂浜に寝そべる人は見えたが、異国の海水浴場に水遊びをする人はいなかった。窮屈な車から解放された子供達はさっそく服を脱ぎ捨てて波を目指して走ったが、先頭を切ったのは小島さんだった。「やっほー!」という声とともに子供達を引き連れ、小島さんが一番先に波に飛び込んだ。浮き輪を抱えた子供達がそれに続いたが水の冷たさにたちまち泣き出した。革靴にスーツ姿の小島さんの夫は厳かにパソコンを広げ、泳げない私の夫はカブトガニの殻にお前は何者かと問うていた。互いに水を掛け合いながら、静かなビーチで私達は騒々しく、奇妙な集団だった。そしてどこか痛々しい日本人のかたまりだった。
パーティーはこれでおしまひプラスティックフォークぱきりと折りておしまひ
蔑されてわれ鮮しき 捨てにゆくパインの缶の口のギザギザ
春雪のかなたPurimの鐘ひびきまた強くわれと彼らを隔つ
同
アメリカは哀しいような遙かな問いをもたらす国でもあったが、同時に厳しい具体を迫る国でもあった。パーティーのたびに大量に捨てられる使い捨て食器、ふとした瞬間に感じるひりひりするような差別の視線、隣人といえども宗教が異なればその生活や世界観は大きく異なるという環境。小島さんはユダヤ人の多い街に住んでいたが、仲良くしている隣人が、機会あるごとに謹厳なユダヤ教徒に変わる姿を何度も見ることになったのだろう。中庭を囲むように建てられた小島さんたち家族が住むアパートは、私のアパートがそうであったように一部屋ごとに宗教も人種も文化も異なる人々が住んでいた。夜には螢が中庭の空間を埋めるほど乱舞するというその中庭を、想像も出来ないほどさまざまな視線が見つめているのだった。彼女はこれらの具体を冷静に見つめる。見つめることなしには自分がどこにいるのか、何者なのかわからなくなる感覚を私自身は持ち続けたが、小島さんにとっても同じではなかっただろうか。アメリカ時代を経て、彼女の歌は従来の柔らかで芯の強い抒情に加えて確実に視線の強さを感じさせるようになった。
その日、大西洋の波が近づいては遠ざかる音を聞きながら、私と小島さんは一夜を共にした。何というか、小島さんが私達家族の部屋に居着いてしまったからである。子供達が寝付いたのを見計らって、小島さんはホテルの隣の部屋から私達の部屋にやって来た。彼女と朝まで一体何を話したのだったか。すっかり寝込んでいる私の夫が、時々寝言を言うと、小島さんは「おー、よしよし」などと言いながら彼の胸の当たりをとんとんと宥めてくれていた。すっかり夜が白み始めた頃、妻が居ないことに気づいた小島さんの夫は、ホテル中を探し、ついでに自分の部屋を見失い、しかしなぜか私達の部屋を見つけてノックしにきた。「大変申し上げにくいのですが、私の奥さんはここでしょうか?それから、あのう、私の部屋はどこでしょうか?」
わが肩に触るる触れざるゆふぐれの手があり少し泣きたい今は
同
夫を恋ふこころを言はば飯を食ふセーターを着るそのさま見たし
同
小島ゆかりの一年のアメリカ生活はその後長い間別々に暮らすことになった家族との最も親密な時間ではなかっただろうか。何を話したのか覚えていない会話の多くを家族のことが占めていた。太平洋という空間を隔てて、私達は共に日本を思い日本語を思ったが、小島さんはその後長く家族とは何かを思うことにもなったのである。アメリカという国、日本という国、そして世界という途方もない空間。そのような場に投げ出されて、最も身近な愛についてしみじみと見つめた事は小島ゆかりの歌人としての根を深くし、太い抒情の根を育てることになった。国家とは何か、民族とは何かという大きな問いの底に流れているものが、家族への愛という一見小さく儚いものと深いところで繋がりあるいは縺れていることを彼女はこの時直感したのではないか。
危うく、眩しく、何かに向かって必死に手を差しのばし続けていたようなあの夏の一日、小島家の子供達と私の息子との間には淡い恋が生まれてもいたのだった。
アメリカで聴くジョン・レノン海のごとし民族はさびしい船である
『ヘブライ歴』