読売新聞02・9・15
戦争映画にはきわめて単純な法則がある。当たり前のことだが、敵の表情を描かないということだ。敵をマス、集団として扱い、決して個人を描かない。
もし敵に個人の表情を与えたらどうだろう。恐怖に震え、子供の写真に口づけし、愛の言葉を手帳に記す兵士が描かれたなら、観客は彼を撃つ者を憎むだろう。この時点で敵は敵でなくなり、戦争映画は成立しない。どちらの兵士も家族を愛し、死を怖がっている。その真実の一方を覆い、見えなくすることで戦争映画は成立する。
ハリウッドのスペクタクル映画は巨額の費用をかけ、多くのエキストラを使って人間を群衆にしてきた。人間が小さくなればなるほど敵は敵らしくなり、戦闘場面は壮快になる。蟻のような群衆を爆撃し吹っ飛ばせばスッキリし、やったね、と思う。しかし、その続きに今日の本物の戦争があるとしたら・・・。
両足の妻の義足は男のやう妻泣くらむと泣く愛がある
米川千嘉子
吹っ飛ばされた群衆の一人が映像に映る。その映像を見た歌人はこのように詠った。アフガニスタンの空爆で両足を失った妻のために義足を取りに行った夫。こんな太い義足では妻が可哀想だと泣くのである。作者はその涙を見逃さなかった。結句の七音には自らが蓄えた愛が反映している。
愛は世界の細部に宿る。そこを見逃せばスペクタクルに呑まれてしまう。だから詠うのだ。