初出「かりん」98.12
『未知のことばであるために』所収
先日、中央アジアとコーカサス地方の手工芸品を集めた展覧会を見てきた。少し散漫になるかも知れないが、あの場で短歌の現在について思ったことに近づきたいと思う。
私は工芸品には全く知識がないし、偶然そういう展示品に出会ったのであって、それらの品々をきちんと鑑賞できてはいない。それでも美しい物は美しいと思う。なによりそれらが力強いことに打たれる。例えば、中央アジアの遊牧民が様式化して伝える太陽と柘榴と花の模様の緋色。茫漠とひろがる色彩乏しい草原に生気を呼び込むためのものだという。それから規則正しくアーモンドと花のパターンが繰り返される手織の絨毯。織り手は昔から伝わるその模様だけを生涯織り続けるので下絵などは要らない。グルジアの精巧な銀器。一つの村が村中で代々この銀器だけを作るので、子供達が他の職業に就くことはほとんどない。作者達にはもちろん名前などないし、地方によっては織物などは手の込んだ物であっても生活用品であって必要に応じて作る。どれも気の遠くなるような前近代の作物に見える。
ところが、制作された年代を確かめると二十世紀のものも少なくない。つまり、文学を含むあらゆる芸術が近代を形作り現代へ抜け出そうと一本道を走っていた間もこうした手工芸品は作り続けられていたことになる。今世紀はこの作者達のような没我、没独創性からひたすら抜け出そうとしてきた歴史だともいえる。短歌も例外ではないだろう。近代の短歌革新運動や、戦後、第二芸術論に応えての自覚的な言葉の立ち上げもそうだろう。しかし、そうした芸術をめざす作者たちがひた走ってきた方向とは全く別の方角からやってきた品々を前に、なにかある<おそれ>のようなものを感じてしまう。それは、ひとつには畏れであり、一つの作品、例えば絨毯の文様の限りない連続のために、黙々と作業を続けた名前のない織り手の思いの重量にたいしてである。もうひとつは恐れであって、そうした品が形を変えずに長い時間を継承されることを可能にする、あるいは無言のうちにそれを強いる共同体の無形の暴力に対してである。また、そこにはその力強い美しさに対する懼れも混じる。
私が言いたいのは、だから近世の歌道としての短歌を尊重せよとか、藝術家と職人の価値について云々することでは全くない。また、いわゆる工芸品のような技術だけの短歌には魅力を感じないし、手工芸品の作者に期待される没我と、短歌作品の背後に期待される<たった一人の私>はとりあえずは相いれるものではない。そうではなく、むしろ反対に、<現代>はこうした品々の見せつける生活と共同体を背景にした力と美しさを充分に相対化し突き放すことに成功しているのかどうかが不安になったのである。
『短歌』十月号に、穂村弘が「<わがまま>について」という文章を書いている。穂村は井辻朱美以降、紀野恵、水原紫苑らの世代にそれ以前の歌との質の変化を指摘し、次のように語る。
彼らの表現は、従来の短歌が根ざしていた共同体的な感性よりも、圧倒的に個人の体感や世界観に直結したものとなっている。彼ら自身の中にある、自分よりも大きな何かに対する憧れや敬虔さや愛の感覚は、従来の歌人に比べてもむしろ強いものだが、それはあくまでもひとりの信仰なのである。<わがまま>とはこの信仰心の強さに外ならない。その結果、ひとりひとりの表現の方向性は、殆ど同一のジャンルとは思えないほど多様化して、しかし同時に語彙の偏りや文体の過剰さに関しての印象にはどこか共通性が感じられる。彼らの<わがまま>が、手つかずの世界を自在に組み替えて表現を極端な場所へ向かわせたのである。
穂村はさらに、こうした<わがまま>によって個々に独自にできあがった世界は、読み手にとっては<その作品全体を受け入れるか、或いは全く手を伸ばさないか、という二者択一>であるとする。また<私は短歌の進化論を信じておらず、この詩形にさまざまな新しい表現要素が付加されて総体として前へ進んで行くというヴィジョンをもつことができない。その一方で、共同体的感性のなかに万人に共通する願いのような普遍性を実感できたこともない>とも言う。
この分析は、穂村自身やその世代を語ってその性格をかなり正確に言い当てていると思う。つまり、彼らの歌は従来の共同性が抱える時間軸やメッセージ性とはあらかじめ交渉をもたないのであり、それにかわって個々に独自の言語空間を開いている。それぞれの空間は信仰する<神>の天啓によって統べられていて、<極端>であり続けることが個々の<私>を保証する必要条件になる。天啓が強ければ多くの読者を共感者として得ることができる。しかし天啓が弱ければ<わがまま>は<ひとりよがり>にすぎなくなるが、それもリスクとして覚悟のうえである。一種の天才主義とも言える考え方だが、言語の共同性が世代や地域や経験の差によってさまざまな位相に分かれつつある状況を考えるとあながち偶発的なものでもない。やはり時代的な必然によって出てきたもののように思う。
言葉を立ちあげるということ、作者固有の世界を形作るということはいずれにせよ我侭であることだが、穂村の言う<わがまま>はそれ以前のものと少し発想が違う。例えば戦後それまでの共同性から飛躍した世界を形作った塚本邦雄や葛原妙子それに山中智恵子といった作者群と、穂村や紀野恵や水原紫苑といった作者群とを比べてみるとその違いが見えてくる。
停電の赤き木馬ら死を載せてとまれりわれはそれに跨る
『日本人霊歌』塚本邦雄
われは世のかたはらにゐて射るごとくあらくさに射すひかり思へり
『短歌行』山中智恵子
とり落さば火焔とならむてのひらのひとつ柘榴の重みにし耐ふ
『橙黄』葛原妙子
さみしくて死ぬ奴木馬のたてがみにリボン結んで手を叩く奴
『ドライドライアイス』穂村弘
われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の陰に似るゆふぐれ来たる
『びあんか』水原紫苑
あはれ詩は志ならずまいて死でもなくたださつくりと真昼の柘榴
『フムフムランドの四季』紀野恵
とりあえず塚本と穂村、山中と水原、葛原と紀野といった対応とそれぞれのモチーフにわずかでも共通点のありそうなものを考えてみた。塚本の木馬は響きの暗さや、死に同調しようとする思いの錘を乗せて重く、穂村の木馬はかぎりなく断片としてそこにある哀しみを漂わせる。さらに言えば、塚本には戦中から戦後につづく無数の死者が影を落としており、穂村は死の理由さえない明るさに投げ出されていると言えよう。水原は山中と歌のスタイルに似たものを感じさせる作者だが、その根拠は全く異なる。山中のこの世との距離は果てしなく遠く見えながら、実は星の運行のようにぴったりと添って深い祈りや呪詛で結ばれていると言えよう。水原の場合は言葉によって形作られるイメージや音韻に次の言葉が誘われることで一首が成立する。この世への思いは透明であり、言葉の陰影の伽藍が作者を包み込んでいる。葛原の柘榴と、紀野の柘榴はその重量感や思いの質感において大きく違うのは明らかだろう。葛原は戦後手に入れた幻視という方法にこれまでの思いの蓄えをあらんかぎり込めているのであり、柘榴に葛原の実存がかかっている。紀野の柘榴は葛原への返しとして自らの詩の方向を語っているとも見える。風通しよく知的であり、また文体に賭ける自負も感じられる。
ここで仮に塚本らを旧<わがまま>派と名付けるならこれらの作者は、大きな主題として戦争や戦後を抱えており、それはスタイルの差を超えて読める。むしろここでの言葉の共同体に対する彼らの<わがまま>はその重みと束縛を引き受け、渾身の力で突き放すことにあったといえよう。そこではかつての共同体が絶えず見つめられ、あるいは内面化されて生涯の主題となっている。これに対して穂村は徒手空拳を名乗る(実際にはもっと内面化された歴史意識もあるような気もするが)。彼の語る<わがまま>はもっともつきつめた<私>の形であろう。そこが新しいし、あるいは歌の未来もそこからあるいはもっと普遍的な世界へと開けうるかも知れない。何より未知がある。しかし、何かが不安で、それが何なのかうまく掴めない。
中央アジアの草原に広げられた絨毯の太陽と柘榴と花の文様。その生活と共同体が生んだ呪文に匹敵し凌駕しうる<私>を形作ること、それが近代以降、特に戦後の歩みだったとして、果たしてそれは成功したのだろうか。一面ではもちろん多くの作者と作品がそんな呪文のような文様など軽々と越え、あるいは血肉としてずっしりとした実りをもたらした。しかし、<私>の絶対的自立を言うとき、同時に<私>はどこかでこの共同性の営みの無名無明に怯えているような気もする。<私>をつきつめた先に開かれるかもしれないパラダイスも或いは<私>という束縛ではないのか、という疑いが頭をかすめる。絨毯も織物も銀器もその背後に共同体の暗さと生命力の両方を暗示して恐ろしかったし美しかった。それは、郷愁などを禁じる迫力で、翻って私自身が失いつつある共同体を思わせた。
どうもうまく言えないのだが、私自身は少しそうした共同性の祈りのまえにとどまりながら、それを相対化しつつ力にしてゆける道を考えているのかもしれない。