初出「路上」98.7
『未知の言葉であるために』所収
あめつちの大きしづけさやこの真昼珊瑚礁干潟に光足らひつ
人無みと汐招きらがをのがじしさかしらすると見ればをかしゑ
ひそやかに過ぐる音あり風立ちて砂の乾きて走るにかあらむ
中島敦の日記を読んでいると、パラオでの日常の消息を伝える散文に混じって数は多くないがこれらの短歌や憶良さながらじつに素直に子どもを恋う長歌も見られる。散文家としての敦の重厚な思考をはなれた余業としてのこれらの作物は、楽しんで作られており、また敦の中でこうした詩形がそれぞれ心の求めによって使い分けられていることに気づく。敦は生涯に短歌を七百首ほど作っているが、作風はそのときときどきの心の求めるままに言葉を流し必要な技巧を収得しており、短歌そのものを本業として追求する風ではない。そもそもこうして日記の中に書き込まれた作物をこうして短歌の土俵で語ることの是非もあるが、わたしはわずかなこだわりをもってこれらの歌を読んでしまう。それは、敦の短歌への興味というよりは、短歌そのものの性質にたまたま敦が関わってしまったことへの物思い、といった方が正しいかもしれない。これらの歌は敦を短歌作者と呼ばせるほどには個性を帯びるにいたっていない、きわめてオーソドックスな自然詠となっている。一首目の足らひつや、二首目の下の句のをかしゑにいたる言葉運びなどは写実的な方法を心得た手慣れた処理と言ってもいい。この取り立てて顔を持たない敦の短歌は、南国の海のおおらかな日差しや人気のない浜辺の蟹たちの戯れ、午後のしずかな砂の気配などを描いて穏やかな自然詠と言えるだろう。日本にあって
氷雨降り狐火燃えむ冬の夜にわれ石となる黒き小石に
眼瞑づれば氷の上を風が吹くわれ石となりて転びて行くを
など、苦しくせっぱ詰まった内省を短歌に刻もうとする敦の精神の深い翳りはここには見られない。
冒頭のパラオでの歌が書かれたのは昭和十七年二月頃である。この時期の社会的な背景は歴史参考書によるとざっとこのようなものだ。戦争の経過は、緒戦の勝利に続いて、昭和17年初めまでに、マニラ、シンガポール、ジャワ、スマトラ、ラングーンに至る広大な地域を占領した。わが軍は、これらの軍事基地を確保して南方資源を開発し、対米、英の長期戦にそなえ、かつ、これら諸地域に植民地開放政策を実施して、大東亜共栄圏を建設することを目標とした。南方政策、つまりはこの南方の島々を統治し、植民地とする政策に、敦は教育官吏として関わりつつ、そこに日本語を植えていった。そうした敦の立場はこうした短歌と無縁だろうか。敦の自然詠の穏やかさは、一方では敦自身の人生的な転機を反映した開放感でもあったろうが、同時にきわめて無意識に当時の南方政策が産んだ南国パラダイスのイメージを代弁してしまっていないか、とも感じるのである。限りない陽光、紺碧の海、当時の日本の閉塞感や戦争と背中合わせの危機感の裏返しとして生まれた南方へのあこがれのイメージは、一見思想性などと無縁に見えるこの短歌を読み込もうとすればするほど影となって立ち上がってくる。珊瑚礁の美しさに感嘆する言葉の背後に、蟹のさかしらぶりにほほえんだ言葉の尾に、これらの歌を反歌として立たせている長歌としての時代の暗雲がどんよりとかぶさってくるのだ。南方の自然に心穏やかに包まれているかにみえる作者の位置や視線自体が反転し、なにか別物を語りはじめてしまう気がしてならない。
「お前は今、輝く海と空とを眺めていると思っている。或いは島民と同じ目で眺めていると自惚れているのかも知れぬ。とんでもない。お前は実は海も空も見ておりはせぬのだ。ただ空間の彼方に目を向けながら心の中で、(見付かったぞ!何が?永遠が。陽と溶けあった海原が)と呪文のように繰り返しているだけなのだ。お前は島民をも見ておりはせぬ。ゴーガンの複製を見ておるだけだ。ミクロネシアを見ておるのでもない。ロティとメルヴィルの画いたポリネシアの色褪せた再現を見ておるに過ぎぬのだ」
敦はエッセイ集『環礁』の「真昼」のなかで南島に来たことの意味を激しく内省する。その思考はいっぽうでは時代的な限界のうちをさまよいながら、しかし、散文の文脈中で独立した思いの世界を開き、時代に飲み込まれてゆく一人の青年としての深い翳りと苦悩を刻んでいる。短歌になるととたんに消えてしまうそうした想いの襞は、一つには敦が短歌作者と呼べるほどの厚みを持っていないためであるが、もうひとつには、そこに作者としての思想性や想いが反映されないほど純粋な自然詠としてこれらの作品が詠まれているためではないかと思う。敦は、短歌をつくることにおいて器用であり、さまざまな文体を心の求めに応じて身につけることができたようであるが、この時期、少なくとも短歌に自分の思索の翳りを積極的に持ち込もうとはしなかった。むしろ余業としての歌を楽しみ日記を書き終えたのち、興が乗るままにそこに記した風である。あるいは官吏として島を歩き回る日常の中で、散文のような時間のかかる熟考を必要としない短歌を、風景が目に入るままに書き付けたのかも知れない。しかし、そうして敦の思索の糸から言葉が離れたとき、敦の意図を超えて歌が当時の思潮、時代背景の霞にうっすらと包まれてしまったことは詩形としての性質の問題として興味深い。敦にとっては短歌という詩形は苦しい自問から逃れうるまほろばであったかもしれない。三十一文字の枠組みが、敦を解放し、しかし、そのゆえに言葉はまるごと時代の波にさらわれた、と言えはしないだろうか。
私はこの問題を短歌と思想性、あるいは自然詠と思想性との問題に直ちに結びつけ結論づけるつもりはない。敦の短歌は、場を改めて戦争と短歌という大きな問題のフィールドで語られるべきものであろうし、そこには語るために幅広く用意されねばならないものが多い。ただ、私の疑問は、表現として思想性に遠いはずのものが、たとえばたったひとつの風景が、実は無意識に時代や社会の思潮の一部であり、否応なくその流れの中にからめ取られて、後の人間には確実にその時代の思想性を担うなにかを抱え込んで見えるのではないかということにある。自然描写にしろ人間との出会いにしろ、何からも自由に純粋に描くということはほんとうに可能なのだろうか。描いたとき、それが自然に時代性を帯び、あるいはそのときどきにおける言語共同体の社会的な位置を、むしろその詩語の無垢のゆえに自然に背負ってしまうということはないのだろうか。
ところで、「梁」56号で、岩井謙一が「高貴なるステイタス」という文章を書いている。岩井は、俵万智の『チョコレート革命』に触れ、次のように述べる。
大木となって立ちたき思いあり我の両手を奪いあう子ら
抱きやれば爪たてるほどしがみつく孤児の感触重く残れり
「これらフィリピンやインドの歌が社会詠であるかというと、私はそうは思わない。完全に旅行詠である。それも非常にぜいたくな旅行詠である。『チョコレート革命』の最終章にある、パリにおける相聞歌よりはるかにぜいたくな歌であると思う。現代では海外旅行でフランスやイタリアに行くのはなんら珍しいことではない。しかし、貧困を見るために、あるいは感じるために、フィリピンやインドに行くのは、あるステイタス(地位または身分)を必要とするからである。ーーそこには強いドラマ性が存在する。他国の貧困を詠むことによりそれを告発するとか、そういった問題意識は薄いと思う」
厳しい指摘であるが、この部分について、わたしは海外詠についての新しい批評の軸が出てきたことを感じている。それは、ひとり俵についての批評としてよりも海外詠、あるいは異文化と接するときの歌全体に対して向けられた問いとして受け取るべきものだ。
岩井は俵の海外詠に、社会的批評精神の不在を指摘、さらにそこに過剰なドラマ性が付加されていることを見る。そのゆえにフィリピンやインドなどの異文化が抱え持つ貧困という文化に接するはずの旅が非常にぜいたくな旅行詠となってしまったとする。そもそもそうした場所へいかなる訪ねかたをするのかという現代人としての生活レベルでのモラルの問題もあろう。しかし問題はそういう表層的なモラルにとどまらない。ここでは中島敦の短歌に見たものよりさらに複雑な見る者と見られる者、描く者と描かれる者との関係が露出している。先進国と後進国のような経済格差、それら社会的な力関係を超えて人と人とが、あるいは人と言葉とがどのように出会えるのか、そして何より短歌という詩形がどのようにその溝を埋めて真の表現を果たせるのかという問いが提出されていると言っていい。そこでは言葉が、そして短歌という詩形全体が試されていると言える。
じつは、この論で岩井は、俵との比較で『青鯨の日』の拙作に触れてドラマ性を強調したような不自然さはないこと、意識的、あるいは無意識的に問題意識をもっている点を評価してくれている。この批評は私にとってはこの上なくありがたいものだ。だが、岩井が俵の歌について感じた前述の違和感は、実は私が歌集を制作する過程で自分自身の歌について感じた違和でもあることを告白しておきたい。私は歌集を作る過程でかなりの数の現地で作った歌を納められなかった。あるいはルール破りになるのかもしれないが、ここに納めきれなかった歌を記して内側からこの問題を考える礎にしたいと思う。
アクセルの重さ砂漠ににぶく垂れうごかざる陽と国境を越ゆ
陽は高く香ばしく街を焼きながら右に左に子ら金を欲る
旅人のわれらかたまりすぎゆくを首かしげ見をり鸚鵡も子らも
これらの歌と歌集に収めた歌との間に厳密にどのような差があるのかと問われてもうまく言えない。たぶん厳密な差などないだろう。もしかするとどこまでいってもこのメキシコでの歌は成功しないのかも知れない。しかし、すくなくともこうした歌が一連のメキシコ詠に付加されることによって増幅される何か、がどうにも耐え難かった。ひとつには岩井が言うように過剰なドラマ性だろう。定型はそうした場面で思いがけないほど鮮やかな輪郭を私に与えてくれた。しかし、その輪郭とは何だったろうか?私が国境を超えてメキシコのうちでも貧しいことで有名な地域に入ったとき、訳の分からない昂揚感が湧いたことを告白したいと思う。ひとつきりしか知らないスペイン語の単語、グラッシアス(ありがとう)を連発し、トタン葺きのバラックで怪しげな肉料理を頬張り、垢じみたコインを受け取り、そうした一瞬一瞬が自分に生きていることの手触りのようなものとして感じられた。そうした昂揚感、命の感じは、言うまでもなくそこから無事帰還し、ふたたび豊かな生活に包まれることが前提となっている。もしかするとそこに一生暮らすかもしれない人間の視線ではない。ここにはあきらかに旅人としての透明なバリアがあり、わたしはその透明で強力な硝子を通して、いわば温室の中にいる自分の命を実感していたのである。それを言葉にしようとしたとき、そこにはさらに定型というもう一つの強力な枠組みが現れたのだと言ってもいい。まるでこの私がではなく短歌という詩形が軽やかに言葉を操作するような至福の状態は、旅行詠に取り組んだ作者なら多くの人がもつのではないか。ドラマの昂揚感のうちに自らの感性は実は言葉の世界の向こうに退いていたとしても。これは、言い換えれば限りなく無名に近づいた、あるいは最大公約数的な感性、といってもいい私が現れている状態なのだと思う。
こうした言葉の状態の何が問題なのだろう。岩井が感じた「ぜいたく」さは、現地に行く、ということ、それだけに向けてではなくそれを表現したときに生じる何かに向けて語られているはずだ。私は最終的にはドラマ性それ自体も問題ではないと考えている。異国の見知らぬ風景を伝えるためにはそこになにがしかの技巧は必要であり、ドラマ性はそのひとつにすぎない。それよりも描くことに奪われた「私」の問題ではないかという気がしている。俵の場合にも私の場合にもそこには、「私」顔をした豊かな日本が顔をだし、そこに意味以前の意味を与えてしまったとは言えないだろうか。現代の海外詠には戦争のような明らかな時代的社会的枠組みはない。それだけに見えにくくなっているが、短歌が詠まれている場では作者の意図を超えてこの言語集団が抱える言葉の背景、たとえば豊かさに飽きた日本人、がはみ出してきているということはないだろうか。散文でならば文脈のうちに襞ができ、じわじわと埋めうる描く者(あるいは物)と描かれる者(物)とのこの溝を歌は一足飛びに超えてしまう。それゆえに直裁であり、またその溝を超えさせたものが何かしら借り物の思想である可能性もある。
私は歌にモラルが必要だと説くつもりはない。むしろ表層的なモラルや社会の思潮からかぎりなく歌が自由であるために、なにが必要かを考えたいのだ。たとえば貧しさを肌で感じるために浅薄なヒューマニズムのイデオロギーを借りないために。短歌がそこにつながる言葉の共同体と、相対する目の前の異文化との落差を埋め、外に広がる裸の世界と本当にふれあうにはあと何が必要なのだろう。あるいは、今日、歌は無思想であるためにも個人の顔がにじむ「思想」を必要とする、そんな場面へ迫り出しているのかもしれない。そこでの思想とは、むろんイデオロギーではない。あくまでも一個人の思索や感情の痕跡であり、物思いのさざなみを感じさせる言葉の揺らぎのようなものではないかと思う。