言葉はどこにいるか

— 小池光歌集『草の庭』を手がかりに —

「かりん」96.7

 


 そこに出てゐるごはんをたべよといふこゑすゆふべの闇のふかき奥より

 

 足裏にうどん踏みたる感触のよみがへり寒き日暮れとなる

 

 像の眼を仰ぎて見ればほのかなるくれなゐやどす桜ちる日に

 

 おそろしく太き鼻毛を抜きたるとこゑあげて庭の子供らを呼ぶ

 

 小池光の『草の庭』を読みながら感じるのは、精緻な言葉運びからにじむやさしくけだるい慰撫の感覚である。装飾性を極力廃した朴とつにも見える文体から独特のロマンティシズムが匂うのはこの作者ならではだ。また、読むほどに受け入れられ宥されてゆくかのような言葉の包容力は私たちが何を欲していたかを逆にわからせてくれるし、生きにくい時代の苦悩のようなものも伝えて時代の心のありかを示しているようにも見える。しかしどこかに閉塞感があり、あえかな息苦しさを感じるのも事実だ。それは時代的なものであるという以上に、言葉が発せられる仕方、言葉の在りかそれ自体に関わって、この歌集を読むことは歌集論として以上に今日的な課題に触れることになる。

 一首目、極めて現代的な家族のありようの一こまである。おそらくは帰宅するということ自体の意味を疑いながら帰宅した夫に、妻を含む家族という幻影のような何かはこのように呼びかける。絵に描いたような家族像はすでに消え去っていながら、闇の奥から呼びかける声は形なくしかし依然として濃厚な圧力をたたえている。二首めは、足でうどんを踏んでこなす奇妙に柔らかい感覚の記憶が脈絡なく溶け込むことによって、夕暮れというとりとめない時間帯に奥行きを与えている。三首めのもの悲しい像のまなざしは桜の質感に響いて背後の物語を呼ぶようだ。四首めの徹底したナンセンスは、もしかすると子供たちにさえそのまま無視されたに違いないと思われて、父親の所在なさがせつなくもおかしい。こうした日常詠に現れている小池の志向は、散文的な脈絡や意味性から限りなく遠いところで短歌の持つ抒情性を再発見してゆくものだろう。いわゆる短歌らしい語彙や情緒からも隔たったところで、小池自身が語るように斉藤茂吉の様式性、型式にこだわるという方向(現代短歌の全景・座談会)は、多様に多岐に広がってゆく短歌の試みのなかで意識的に質素に磨かれたある形式性を感じさせる。例えば茂吉の歌にしばしば見られる奇妙な説明のつかない感覚を、積極的に形式の力として見直そうという試みは、二首目のような歌に見ることもできるだろう。それは同じ座談会で小池が述べている<短歌というのは公のものだという感じがしたんです。短歌は私性の文学とか私性ということを言われているんですが、そういう面もたしかにあるけれども、本質はむしろその逆で、非常に公なものなんですね。ーーー公のものであるから、悲しいとかさびしいとかいった恥ずかしいような個人的な感慨が安らかに言えてしまうという転倒した新鮮な体験をしたんです。>という短歌の本質についての洞察にも通じる。短歌が公のものであるというこの意識は、あえて些末な日常的なディテールを素材にし、かえって型式の力そのものを見せる小池の試みに根拠を与えていよう。しかし、それは茂吉的な混沌とした何かであるよりはさらに意図的な方法論として見える。極力意味性を廃してゆく試みはしかし、読者に読まれるときすでに作者自身とわれわれがともに受け継ぎ無意識に用意している歴史的な文脈に囲われているような気がしてならない。それは些末な私性を公のものにする読みのシステムともいえるものである。一首目のような歌には、ある即興性とやるせないような滑稽とが滲むが、またそこには家族という近代以来の暗闇への応答の意識も濃く尾を引いている。三首目の歌には記憶の家長然とした父親像に相対する現代の父親像、その父が演じる過剰な無意味性といったものも感じられる。歌集全体には、ある程度の年齢までの人々が記憶にとどめている近代の名残のような風景がちりばめられており、それは懐かしさをたたえて全体として近代への応答としての色合いを醸している。小池の歌はそういう意味では情緒的でありながら限りなく醒めており知的である。書かれた歌が読まれる枠組みを、作者自身が熟知していることはむろん歌を支える力であるが、反面で言葉を束縛しているということはないのだろうか。また、枠組みとしての歴史的な文脈への理解が深く強い場合には、書かれた歌がそこに否応なく回収されてゆくという危険とも背中合わせであるような気がする。

 

 民族といふ観念に凝りたる出口なき感情のこゑは荒むも

 

 ただいちど降りける今年の雪にしてことしの雪におもひでのなし

 

 この歌はこの順でページをめくって続くのだが、ユーゴスラビアについての一首目はひとごとではあり得ない自らの民族への問いとなって刺さってくる。その気分を引きながら読むことになる二首目からは、荒んだ<こゑ>としての言葉への罪意識が反映して、それゆえに<雪>にまつわる文人趣味的な感慨の突き放しが納得される。そのことによって、そこにもやはり<意味>は現れてくる。

 言葉は無力であることにおいて誠実であり、意味性を逃れようとする試みにおいて現代の内実を示しうるというような言葉へのスタンスは、一方で忘れられかけた風景や感触、感情の優しさを掘り起こしながら、一方では民族や人類の不条理といった大テーマからおよぶ文脈によって確実に<意味>を帯びている。むしろこの歌集が提出している風景は、縦軸に近代から抱えてきた文脈、横軸に現代の大テーマを遠望しながら築かれた極めて乱れの少ない意識的な言葉の世界であるように見える。逆に言えば、近代以来の文脈、あるいは人類といった単位の大テーマは、ここでの言葉によって揺らいだり動かされたりするような問われかたはしていないのではないだろうか。

 阜サが多様化し、複雑巧緻になる一方で、一体この繁茂した言葉の群は今どこにいるのだろうと不安になるのは私だけだろうか。言葉がどこに刺さりどのようなところに回収されてゆくのかが見えない中で小池が示したものは少なくない。高度なテクニックによって描かれた見取り図のようにも見えるテーマ性、言葉の役割に対する自覚の強さなどである。しかし、同時にこの歌集の世界が、文脈において言葉選びにおいて圧倒的な<他者>と呼べる何かとの出逢いを欠いていることが気になる。 それはごく卑近に例をあげるなら、近代からの文脈の中での<父>に対する<母>であり、民族のテーマに対するならコスモポリタンの可否であるような対立事項であり、またもっと漠然と歌それ自体が遠く呼びかけるような未知の何かの存在である。これは小池に限るのではない。『草の庭』という優れた歌集を手にすることによってかえって見えることになった、言葉による共同体の行方それ自体への問として考えられる。

 

 いわし雲みな前を向きながれおり赤子を坂で抱き直すかな

 吉川宏志

 オフコースが民謡にきこえるチェンマイの薄ら笑いの夜は輝く

 梅内美華子

 神は在りてもなくても秋の大けやき宙宇に赤ききのこを張れり

 渡辺松男

 少数民族の最後のひとりの瞳して玄関先にミルク取りにゆく

 大滝和子

 方角はいっこう分からぬわがほそき喉を立ておく花のスカーフ

 中津昌子

 

 より後発のこれらの作者たちが、言葉により強くこだわるところから歌を立ち上げてゆく姿勢は顕著である。むろん歌は常に言葉に始まり終わるわけだが、応答すべき文脈のようなものがその出発において見えにくいことは、個々の作者に言葉による手探りをより強く意識させているように見える。そのなかでも吉川は先行世代により意識的であり、女性的な物語を取り込むことによってかつての男性的文脈から距離を置く様子が見える。また梅内の歌では、異文化との出逢いが言葉の衝突そのものとして現れて枠組みに収まった批評を逃れており、出逢いの現場の危ういような実感と異文化の質感を新鮮に伝えている。渡辺の歌には自らの体を張って存在へ迫るような力があり、歴史的な実在への反論も含みながら、まず対象もろとも痛みを持って裸になろうとする意志が見える。大滝、中津はなかでも最も言葉自体を生きようとする作家だが、修辞を通じて自らの存在や位置を探り当てるような鋭敏な感性が印象的である。これらの歌から見える風景は、一方では言葉による手探りであるが、もう一方では既存の文脈ではつかめない世界をつかむための葛藤でもある。それが言葉のための言葉として拡散してゆくのか、迂遠に歴史的な文脈やテーマに関わりをもち、それらをたわめながらあらたな文脈の創造につながってゆくのかは個々の作者にゆだねられるだろう。ことに吉川や渡辺はそこに意識的な展開を見せているように見える。

 今一度『草の庭』に立ち戻るなら、大テーマを抱えつつそれに足をすくわれず、日常性にこだわりながらそこに溺れないあり方、近代を自らの根拠として短歌の置かれた位置を鮮やかに見せる方法は、小池自身の方法として完成し、同時にわれわれにその後を問うものだ。、あるいはぎりぎりの誠実な言葉のありようであるかもしれない。それらは、慰撫という無力にとどまることによって短歌として芯の強さを発揮していることは確かだが、しかしどこか短歌というものがその形式の外に呼びかけるべき世界の広がりへの想像力を限っていることにおいて弱いのではないか。