初出「かりん」01.4
私たちが近代の女性歌人を語るとき、その始まりを与謝野晶子に見ることはあっても、さらに遡って歌詠みとしての樋口一葉に思いを致すことはない。一葉は当時の文人の多くがそうであったように短歌から文学修行をはじめ、生涯を歌に関わった。一葉の小説や日記は現在なお読まれ、近年では女性研究者による新しい角度からの読み直しが盛んに行われている。しかしそうした位置にありながら短歌についての言及は驚くほど少ない。一葉と晶子の間には六才の歳の差しかなく、一葉の死後五年で『みだれ髪』が刊行されている。ほとんど同時代と言ってもいい作家なのである。しかし、晶子の歌が今なお湛えている衝迫力、近代のイメージに相応しい新しさに比較するとき、一葉の歌は何としても古風であり、二人の間には明らかに時代を隔てる敷居のようなものが横たわっている。
試みに選歌集『みやぎ野』の中から半井桃水との悲恋を下敷きにしたとされる歌を引いてみよう。
行水のうき名も何か木の葉舟ながるゝまゝにまかせてをみん
いとゝしくつらかりぬべき別路をあはぬ今よりしのばるゝ哉
一葉の短歌の前近代性、古めかしい様式性、旧派和歌のベールに包まれた言葉は一読者の私を感覚的に拒んでいるようでさえある。歌集とはいえ、晶子の歌集のように意識的に編集されたものではなく、師である中島歌子から褒められた歌や高得点歌などを集めた小さな選集である。そうした旧態のままの歌作りの環境も影響していよう。しかし散文、ことにも日記においてあれほど近代初頭の女性の置かれた位置と苦悩、葛藤を鮮やかに私たちに示した一葉は、短歌においてなぜそういう主題を抱えることがなかったのだろうか。一葉は近代以前という制度の翳りから散文を現代に送り届けながら、短歌という韻文をその薄暮の中に取り残したかに見える。しかし、その仕事全体を眺めるとき、後に与謝野晶子の文芸活動に受け継がれる主題、近代初頭を生きる女ゆえの主題は一葉によってあらかた提出されているのではないかとさえ思われるのだ。このような、一作家の裡でおこった散文と韻文という形式ゆえのタイム・ラグ、その空白に落ちた主題としての「女」は一度は振り返られるべきだろう。そこには新しい時代に生まれた主題と短歌という様式との葛藤がありありと刻まれている。
一葉が中島歌子の歌塾萩の舎で修行し、助教を勤めるまで歌子に信頼された弟子であったことはよく知られている。師である歌子は江戸派の流れを汲みながらも香川景樹の歌風を教え、当時の上流階級の婦人達を集めて隆盛を極めていた。華族の令嬢や婦人達、その中に混じりつつ着替えさえおぼつかない赤貧の一葉の位置ははじめから大きくずれていた。日記を辿ってゆくと、その違和感は和歌そのものへの違和感やアンビバレンツとなり一葉の終生を悩ませていることがわかる。こうした事実は伝記として語られてしまえば薄幸の作家一葉のイメージを型どおりになぞるものでしかない。しかし、角度を変えて短歌の問題として捉えてみると短歌がまさに新しい時代にさしかかり、新しい主題との出会いを切望されながら果たせずにいる様として見えてくる。
萩の舎という旧派和歌のサロンは、例えば「夢中逢恋」「寄虫恋」といった題詠を主とした歌の場であり、そこで洗練され記号化してゆく情趣で形成された言葉の磁場は、一葉が日記に記すような洗濯を請け負ったり雑貨を商い小銭を稼ぐ猥雑な生活を表現する器ではなかった。一葉の生身の苦悩は雪月花をどのように巧みに詠いこなそうとも表現できるものではなかっただろう。香川景樹の歌風は革新を嫌うものではなく、当時としてはむしろ進んで新しい情趣を創り出そうとするものであったとされている。しかし、今日の目から見るとそうした革新も、現実と歩幅が合っていず、大股で先を急ぐ時代に取り残された小走りにしか見えない。題詠としての恋のバリエーションが少しばかり増えようと新時代に相応しい何かが加わったことにはならない。一葉の和歌を読んでいるとそこには和歌的に造形され個別の顔を失った何者かが見えてくる。洗練され技法を心得た言葉、題詠や歌合わせなどによる修行のうちに積み上げられた膨大な作品がどこへ向かって積み上げられているかが見えない不安に晒される。つまるところ今日の私たち読者が当然のこととして期待する固有の作者像、<私>が希薄なのだ。
しかしそうした和歌は、一葉にとっては今日の私たちが考えるよりずっと大切なものであったはずだ。私は心残りがあっていま一度一葉が自らと和歌とを繋ごうとした努力を問題にしたいと思う。
明治二十六年十二月一日の日記には「いひふるしたるみじか歌の、月花をはなれて、今のよの開けゆく文物にともなひ難きあまり、新体などいふも出くめり。・・(略)・・さりとて、みそひと文字の古体にしたがひて、汽車汽船の便りあるよに、ひとりうしぐるまゆるaとのみあるべきにあらず」と記され、当時若者の間で流行してきた新体詩に比較して新しい時代の和歌のあり方が問われている。この文章の中では新体詩の好みに偏りすぎた放縦も心配されているが、同時に和歌の旧態依然とした有様も心配されている。さらに続けて「俗中に風流あり、風流のうちに大俗あり。新たい詩歌の俗の様に覚えて、かのみぢか歌のみやびやかに聞こゆるは、ならはしのみのしかるにあらず、人の心に入りて人の誠をうたひ、しかも開けゆくよの観念にともなはざれば也。詞はひたすら俗をまねびたりとも、気いん高からば、おのづから調たかく聞えぬべし」とも記され、<人の誠>を詠うことの大切さや開けてゆく世の中の新しい観念を取り入れることの大切さが語られる。またここでは新体詩、和歌といった形式の<ならはし>を超えるものとして<気いん>の高さが尊重されている。確かに一葉の和歌には精神主義的とも言えるような緊張感があり、その気迫によって雪月花以上の何かを表現しようという意欲が透けて見える。しかし、<気いん>や<人の誠>を大切とする論は総論であっていかにも抽象的であり、この範囲では景樹の歌論をなぞるものでしかない。一葉が本当に和歌に願ったものはこうした歌論に隠れながらもう少し別の形で現れている。
翌二日の日記には「かひなき女子の何事をおもひたりとも、猶蟻みゝずの天を論ずるにもにて『我をしらざるの甚だし』と人しらばいはなんなれど」と前置きした上で朝鮮半島との関係や英国との外交における不利を憂うるなど、いわゆる天下国家の問題に強い関心を寄せ、「かゝる世にうまれ合せたる身のする事なしに終らむやは。・・・さても恥かしきは女子の身なれど」と次の歌で結んでいる。
吹きかへす秋のゝ風にをみなへしひとりはもれぬのべにぞ有ける
上の句の風が社会状況の比喩であるとするなら、下の句のおみなえしは一葉自身であろう。独りでは守りきれないほどに濃い紅の意思を湛えているという。あるいは独り取り残されまいという強い紅のような意思を湛えているという意味でもあろうか。いずれにせよこの歌は古風な風体のまま先行する文章に支えられて、意味を帯び、強い述志の歌として読める。もともと観念的な思考を好み、社会への関心は強かった一葉だが、この時期、文学界の人々と交流する中でより意識的に社会と自らとの関わりに思いを致すことになったかもしれない。そうした一葉の近代に相応しい自意識は主題となって散文の中で告白されつつ育ち、例えば「にごりえ」のお力の志へと託されてゆく。一方で和歌にはここに見えるように象徴的に自らの志や意気込みが濃縮した形で託され、題詠によって形作られる現実離れのした空間から一歩生身に引き寄せられている。しかし、これも散文の補強あってのことであって、一葉は和歌を私的な磁場に引き寄せるとき必ず長い詞書きをつけるようになる。
例えば日清戦争を詠んだものでは敵国の艦隊提督の死について「丁汝昌が自殺はかたきなれどもいと哀也さばかりの豪傑をうしなひけんと思ふにうとましきはたヽかひ也」という詞書きがつき、
中垣のとなりの花の散るみてもつらきは春のあらし也けり
と詠まれている。ここでは主題は詞書きの方に表現され、和歌はその象徴として添えられているに過ぎない。しかし一葉が抱えた主題としての日清戦争は、文人としての一歩醒めた視点から敵味方を超えて人間に近づくものでもあって、この詞書きこそが彼女の短歌改革であったと言えるほどである。一葉と歌との関わりを見てゆくと、面白いことに和歌的世界からはじかれたものが散文の主題として回収され発展して居るようにさえ見える。一家の家計を支え、文筆で世に出ようとする一葉は誰よりも先に女という制度に気づかざるを得ない立場にあった。しかしより正確に言えば、一葉は新しい女ではなく、家計を支え世に出るというそれまで男性のものであった文脈を女の生身で生き直そうとする実に困難な主題を抱えた主体であった。それゆえ一葉は古い制度に囲われた和歌に恋着し、同時にそこに男社会に互すような気韻の高さを求め続けたようにも見える。
一葉の歌の弱さは、一つには自らを囲む生活の夾雑物や新しいボキャブラリーを取り込めなかったところにあるだろう。また晶子のような大らかな主体をうち立てる強さがなかったことにもよるだろう。しかし、もう少し目を近づけて眺めると、一葉にあって晶子にないものがあることに気づく。それは、一葉が執拗に歌に込めようとした志のようなもの、女による述志の系譜ではないかと思うのだ。