白鳥からとどくもの

— 初期牧水と現代 —

初出「かりん」98.5

 

 (一部書き換え『未知の言葉であるために』所収)

 

 

 海哀し山またかなし酔ひ癡れし戀のひとみにあめつちもなし

 「海の聲」若山牧水

 海斷えず嘆くか永久にさめやらぬ汝みづからの夢をいだきて

 

 夜半の海汝はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が聲を聽く

 

 わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳は燃ゆるかな

 

 くちづけは永かりしかなあめつちにかへり來てまた黒髪を見る

 

 初期牧水のあの甘美さや叙情性をさらりと通り過ぎるか、あるいは立ち止まってそこに何かしら尾を引いて訴えるものを感じるのかの差は、実は近代以降の短歌にとって意外に大切な岐路となってきたのではないか。牧水について付されているイメージ、酒、旅、恋、自然主義なにをとっても良いのだが、そうしたイメージを牧水ほどすり抜けて行く歌人もいない。どのキャッチコピーも牧水の愛唱性を支えるわかりやすさへと開けているが、しかしそのどれもが牧水の何かに届かない気がする。通り過ぎた荒々しい時代の変化を透かして眺めるとき、近代から現代へ流れ込んでくる歌群の奔流のなかで、初期牧水のあの純情、透明感、まっすぐな抒情性は、弱々しくまた世馴れぬナイーブさにさえ映る。〈酔ひ癡れし戀のひとみにあめつちもなし〉と詠い放たれればそうか、と苦笑したくなるし、〈永久にさめやらぬ汝みづからの夢をいだきて〉と押されれば青年の純情をなぐさめたくもなる。しかし、この、恋と海との単純な構図の中の想いの膨らみは不思議に尾を引いて、その透明感ゆえにかすかな痛みとなって心のどこかに射し込んでくる。現代が私たちに課しているさまざまな重い問いのうちで、自我への問いはその有無も含めて依然として重いものの一つだろう。近代という時代が喚起した新しい自我の開花への夢は、いかにも複雑な経緯を経て現在のわたしたちに回答不可能の沈黙を迫る。あなたの自我はいかほどの大きさか、という問いは私たちに途方もない愚問に響くが、初期牧水のこうした歌が見せているのは、目の前の一枚の海と〈たたかひ〉を迫るほどに膨らんだ〈わが心〉の震えなのだ。この震えが、現代に生きる私に痛みのさざなみとなって寄せてくる。この痛みを重要なものと感じるか、ささやかなものとして受け流すかはあるいは現代の一つの選択ではないかと思うのだ。

 

1. 初期牧水とアニミズム 

 園田小枝子との恋愛を背景にして作られたことで知られるこれら「海の聲」の一連は、よく見てみると相手の女性の顔や存在はほとんど描かれない、陶酔しきった青年のモノローグである。純朴な、そして相当ひとりよがりな青年の初恋の心情だといってもいい。しかし、そうした幼さを差し引いてもあまりある言葉の張りや韻律、余りなく震えている心の柔軟さは、一人の青年の恋を超えてさらに切実な生命の希望へと開けていないだろうか。とくに、前半部分は海へのオマージュといってもいいほどに心は海へ海へと寄せている。恋愛を契機として全幅に開けた一つの自我と心は、恋の相手を通り越してそれを受けとめうる海へと寄せているのである。この〈海の聲〉(明治四十一年)は、のちに〈獨り歌へる〉(明治四十三年)とともに〈別離〉(明治四十三年)に収められ一連の恋愛を背景にした初期牧水の世界が眺め渡せる。そのなかに、

 

 吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ

 

 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の國を旅ゆく

 

 も加えられている。ここにも、失恋後の気分とともに自然へ寄せる奥行きある信頼が感じられるだろう。〈さびしききはみ〉は、秋の野草が醸す気分であり牧水の心情でもある。両者の間には明確な区別はないと言っていい。秋くさと牧水の心は溶けあい一体となって、澄みきった輪郭が君へ差し出されるのである。二首めにははっきりとしたアニミズムの感覚が読みとれる。山と海とがまるで凭れあうように眠る〈かなしき〉情緒に満たされた〈春の國〉にさまよう牧水は、自らの輪郭を失うほど全幅の信頼で自然に抱かれており、またそうしたアニミズムの世界において自我は山にも海にもしみこんでいるといえる。また、冒頭にあげた〈くちづけは永かりしかな〉には、いっそう濃厚な融和の感覚が描かれており、まるで恋人たちが躰や心の殻から溶け出してひととき世界を満たしている光や空気にでもなっていたかのようである。

 この、自我も自然の一部であり自然が自我の反映でもあるような世界観、自我意識は、自然を〈私〉の対象物とみなさない。この牧水の自他の不思議な融合とその融合によって自我を拡大し解放してゆく無意識な方法は、当時、〈アララギ〉の同人たちを戸惑わせたらしい(注1)。その中で、

 

 風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寝む

 

 について、島木赤彦は、「〈松と落葉の木の叢のなかなるわが家〉は外から我家を見た所でなくてはならぬ。所が第五句に突然〈いざ君よ寝む〉となると何だか家の内の事に思はれる。〈いざ入りて寝ん〉などあれば外部から見た感じとは合つてゐる。或は二三四句は矢張家の内に居て自分の家を斯く意識してゐるかも知れぬが夫れでは〈松と落葉の木の叢のなかなる〉といふ詞は説明的になってしまふ。一体〈いざ君よ〉など相対的に云つて居乍ら相対的な情が全体に沁み出て居らぬから結局相対的に〈君よ〉など云つてる功が無くなつて無駄な詞になつてしまふ」と批判的な見地から精細な歌評をしている。そもそも〈別離〉の一千首のなかでこの歌がそうした精細な批評に価するかどうかは疑問が残るが、ともかくここには赤彦の客観的な自然観から見れば不可解な牧水の自然に対する姿勢が逆に透けてみえる。少なくとも〈いざ入りて寝ん〉では風と松と落ち葉と同格の大きさ、あるいは小ささにまぎれた恋人たちの静かな鳥獣のような安らぎ宿の感じは出てこない。牧水にとっては自分たちの位置よりも、むしろそれを曖昧にしてしまうほど自然の一部となりえた感覚の表現の方が大事だったはずである。牧水はこれに対して「少し位い眼がすがまうと私は生きた人間の歌が詠み度い、眉目整然たる人形を作り度くないのである」と弱々しい反論を試みるが、これはたちまち伊藤左千夫によって「牧水氏は吾々に反対して生きた人間の歌を詠みたいといふが、吾々は生命ある即ち生きた歌を詠みたいと主張してゐるのである」と反論される。牧水の〈生きた人間の歌〉とは、現実と格闘する生活人の生という意味ではなく、自然と心との境目のない流動であり運動であったと考えた方がよさそうである。たとえば書簡に「海が戀しい、狂人になるほど戀しい、あゝ冬の海、冬の海!」と唐突に記すような生命感のほとばしりであったろう。そういう意味では牧水は生活感覚の乏しい人であった。また友人であった前田夕暮も牧水を十分に理解したうえで「で、若山君の芸術は、どうかすると余りに至醇に過ぐるの傾があつた。どうかすると殊更に醜を避けんとする癖があつた。自分は思ふ。も少し突破した態度でも少し醜い方面をも、暗い方面をも歌つて欲しい。歌うべき対照を少しく選択し過ぎはしまいかと思はれる」と批判を加えている。技術論に重きを置く赤彦らがあえて追求したのは、そうした夢見がちな精神がたとえば語句の選びや連なりにおいて、どのように現実との接点を持ち、自我の態度を明瞭にするのかという一点であったようにも見える。またそうした赤彦の批評の基本姿勢には、厳しく自我と世界とを峻別する認識がしまわれていたとも言えよう。その点では、牧水は無防備であり無垢であった。しかし、語句の構成などでは説明の付かない、言葉が投げられる空間の広がりや波紋の予感のようなもの、物語的に融和された自我と自然の境目のない広がり、そこを無視しては初期牧水の詩精は読めない。それは、おそらく恋という一見他愛ない情緒に託された人の至福境への憧れであり、またそうした憧れのエネルギーによって膨らみうる、ありうべき自我への理想ではなかったろうか。

 この牧水の歌のありようをたとえば古代からのアニミズム感覚とのみ直ちに結びつけてはならないと思う。牧水は、その書簡や日記などを読んでいると、初期から観念的な哲学的匂いのする物思いを好む性格であったことが伺える。後年、私の藝術の對象は全部〈自己〉そのものである。あらゆる外界の森羅萬象も悉くその〈自己〉といふものに帰着せしめて初めて其処に存在の意義を認める。そして、私は宇宙の間に生み落とされた〈自己〉の全部を知り確かめむがためにのみ生存して居るものといふやふに思って居る。畢竟、我が生存の意義は〈自己〉を知り、自己の全てを盡すことに由つて初めて生じて來るものと信じて居る(明治四十五年〈牧水歌話〉)と記すようになるほど自己に対する関心の深い歌人であった。牧水のアニミズムは、新しい自我への希望と結びつきながら、自然に自我を反映してゆく方法への自覚を胚胎したものであったといえる。また、そうした自我への探求心と共に詩編のなかで、

 

 われみづからの小さき知慧にたよるな。

 

 おのれを空しうしてただ神の前に立て。

 

 と記すように、ほとんど信仰といってもいいほどの自然への信頼の情が貫かれていた。牧水は、生来の自然へのアニミズム的愛着と文芸の新しい思潮としての自然への態度の結びつくところに近代の名に相応しい自我の可能性を模索していたのである。その意味では牧水のアニミズム的な感覚は、いっそう切実な自我への問いを含んだ近代的な性格を帯びていたと言える。

 

2. 晶子と牧水をつなぐもの 

 牧水が〈海の聲〉を刊行した明治四十一年、「明星」は終刊を迎えている。その前年から鉄幹は、北原白秋や、木下杢太郎らとともに九州旅行をするなどいきづまった浪漫主義に活路をもとめるかのように活動している。いかにも現実離れした浪漫趣味の歌が時代に訴える力を持たなくなっていたとき、しかし浪漫精神への憧れ自体はなお強く当時の青年の心中にそれなりの価値をもっていたと見えるのである。その一人である牧水の当時の書簡を見てみると〈先日或會合の席で鐵幹と會って、本日の明星で僕の悪口が書いてあつたことについて大喧嘩をやつて見た、もう少しも新詩社が恐くないので、馬鹿々々しいホラをも吹いてやった〉(明治四十年)などと友人に誇らしげに書き送るなど、しきりに明星を意識し、活気と覇気に満ちて、明星にかわる次の時代を開こうとしている青年像が伺える。また、同一の友人に宛てたと思われる書簡には、〈ラブを求むるといふ文句が君の葉書のなかにある、愚の至りだとおもふ、求めて得らるるラブならば路傍の馬糞と何の選ぶところも無からうぢやないか。ラブはそんなお安いもんぢやなからうと思ってる〉(明治四十年)、〈昔の人は戀を絶對に安置して居た、だから、戀すれば天地悉く消滅、われもなくかれも無かった、が、近頃はさうではない、先日頃新聞でやかましく叩かれた森田白楊の戀人が「君とわれとは要するに二個の存在に候」と書いたが如く、この自我意識のいよ濃密になればなるだけ絶對の戀といふものゝ、權能は薄らいで来るわけだ、戀文にこんな文句が入って来るやうになつては戀ももうお仕舞だ〉(明治四十一年四月)とある。こうした書簡からは当時の牧水にとっての恋は滑稽なくらい抽象的なものであり、しかし自我意識とおおいに関わって時には対立さえする至福の融和と調和として夢見られていたことがわかる。恋愛の渦中にあった青年として思うにまかせない現実に悩みながらも、牧水の態度には自らの文学的欲求の培った恋愛至上の気分があらかじめ溢れている。恋は一大事であり、人生を賭けうるのだという気分に没入してゆく態度にはもっとも素朴な浪漫性の発露がみえるといってもいい。明星的浪漫主義は衰えながら、しかし浪漫精神自体は新しい器を求めて牧水らに新しい道を開かせようとしていたと言える。

 日本浪漫主義から日本自然主義へという、表面的にはまるで夢への解放から現実との相克へと一見相反する方向に流れるように見えるこの文芸思潮は、じつは根底で一つながりの流れとして支えうる思想性を抱えていたといえるのではないか。それは与謝野晶子と初期石川啄木との明星における交流にみられるような人脈的なものである以上に、そうした青年たちを引きつけうる明星のもっていた近代性に、のちに牧水や啄木を自然主義へ向かわせる何かが文芸としてしまわれていたとみるべきである。そもそも晶子自身のうちにも『みだれ髪』(明治三十四年)に見られるような奔放な官能や夢の世界と、それから「君死にたまふこと勿れ」(明治三十七年)にみられるような社会の状況にコミットし相克する精神とはつねに共存していた。しばしば晶子像をとらえようとするものを戸惑わせる、晶子の社会への評論活動と、古典の滋養をたっぷりと含んだ浪漫世界とのギャップは、意外にその精神において奥ふかくで繋がれ、一つの根を持っていたと考えられるのである。

 明治三十七年、晶子の「君死にたまふこと勿れ」に対し、即座に大町桂月の批判「明星の厭戦歌」が寄せられたが、それに答える晶子の「ひらきぶみ」には晶子の浪漫精神の根を伺わせる思想性が色濃く滲んでいる。桂月は、〈教育勅語、さては宣戦詔勅を非難す。大胆なるわざ也〉、また、〈家が大事也、妻が大事也、國は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、餘りに大胆すぐる言葉也〉とイデオロギー色濃い言葉を連ねて批判を向けているが、「暖簾のかげに伏して泣く/あえかにわかき新妻を/君忘るゝるや思へるや/十月も添はでわかれたる/少女ごゝろを思ひ見よ/この世ひとりの君ならで/あゝまた誰をたのむべき/君死にたまふこと勿れ」のフレーズに関しては、〈こはなほ實況にして可憐也〉と見逃している。しかし、この一見可憐に見える情緒の描写は、晶子にとって桂月が考えるほどとるに足りないものではなかったように思う。

 晶子の「ひらきぶみ」は、〈君〉への呼びかけではじまり〈あす天気よろしくば、光に堺の濱みせてやれと母申して寐たまひ候〉と結ばれる夫に宛てた書簡の形を取り、実家を子連れで訪ねた妻としての細々とした日常身辺の描写が全体の半分以上を占める。年齢も社会的地位もはるかに上の桂月の激しい批判をかわすべくいかにもたおたおとつつましくみえるのだが、晶子がこうした書簡の形を取ったことは、実はもっとも激しい桂月への反論であったと思われるのだ。晶子は、〈私の好きな王朝の書きもの今に残り候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿体なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや〉また、〈私はまことの心をまことの聲に出し候とより外に、歌の読みかた心得ず候〉と、直接の反論を試みると同時に〈庭のコスモス咲き出で候はば、私帰るまであまりお摘みなされずにお殘しくだされたく〉などと夫に語りかけて生活の些事を心に掛け、その大切を書き留める。この文章において晶子が桂月に代表される人々に見せつけたものは、一個人の生活が、いかにこまやかな心に満ちたものであるかであり、こうした生活の息づきからにじみ出た、〈君死にたまふこと勿れ〉という呼びかけこそ真実の量感と深さにおいて、桂月の硬直したイデオローグにもっとも根本的に答えうるということではなかっただろうか。

 第二次大戦後に、この文章は詩とともに晶子の平和主義を表すものとして高く再評価されることになるが、晶子には、そうした表層的な時代の思潮ともたやすく相容れない文芸のラディカルが透けて見える。それは、コスモスの花を慈しみ、弟の安否を気遣うようなひとつの〈まことの心〉が呼び寄せる言葉は、天下国家の問題よりも大きいのだという文芸の優位に対する想いではなかったかと思うのである。晶子がしきりに訴えているのは、古典世界において言葉は文芸自体のものであり、〈今時の讀物をあさましと思〉うほどの王朝文学への愛着である。晶子の浪漫精神とは、女であることによってこそ果たし得た奔放な心と文芸との優位の宣言であり、それによってはじめて新しい自我への希望を励まし得たと言える。文芸によって果たしうる心の優位が導く新しい自我の可能性は、古典の蓄積を武器に天下国家の問題と渡り合い、さらにそれを押し返すほどに力強いものであるはずであった。その点において浪漫精神とは常に社会に拮抗し、それをしのぎうるほどの言葉と精神のラディカリズムであったと言ってもいいのではないか。そうした精神に支えられた〈みだれ髪〉であればこそ新しい生き方を模索する当時の青年たちに希望を与え、深い影響を及ぼしたと言える。

 牧水もじつはこうした浪漫精神のありようをかなり深く受けた一人ではなかっただろうか。桂月と晶子の論争について牧水は書簡で〈桂月は、先日の演説でも晶子の詩を、いぢめました、例の大拙辯で〉(明治三十八年鈴木財三宛)と軽く揶揄しつつ晶子に賛意を示している。この件に関してはこれ以上の接点はないのだが、晶子らの歌に関しては牧水は少なからぬ関心を持ち続ける。「明星」解散後の晶子が「スバル」をはじめたころ、牧水は「所謂スバル派の歌を評す」と題した文章のなかで、私は曾て晶子女史の〈佐保姫〉を評して〈佐保姫〉には歌ばかり書いてある、晶子といふ人は出てゐないと言つたことがある。既往同氏の作られた歌は何百或は何千首かあるであらうが、夫等のうちの一首々々は皆誰が作つた所で差し支へのない歌が多い。晶子といふ人間、唯一絶對の或一生命とは殆んど何等の關係が無い、極めて普遍的に遊離した、雲の様な歌が多い。歌としてはそれは如何にも美しいのがあり、をかしいのがある、けれ共不幸にして我等はたゞ眼さきをのみ刺戟せられて、終わることが多い。その奥に作者の影が、否な作者そのものが一杯に動いて居るのを以て満足とする。歌そのものを見るのは私のねがひでない、歌を透してその作者の生命を見む事が私の希望の全てである(明治四十三年)と晶子の歌がもはや自分のめざす文芸とはかけなれたものであることを宣言する。ここには、批判の形で期待を裏切られた思いと、〈作者の生命〉を全面に押し出すことによってそうした晶子にとって変わろうという気概があふれている。〈佐保姫〉を見てみるとたしかに形骸化した恋愛感情や狭い心理に陥った描写も多いが、

 

 逆しまに山より水のあふれこしおどろきをしてわれはいだかる

 

 海に居てはやちの風に耳なれし岩はねむれりいかづちのもと

 

 といった、今日の眼から眺めれば牧水の歌とさほどの大きな差を感じさせないものも多い。牧水は、晶子の浪漫性が現実に拮抗しうる力を失いつつあるのを敏感に察知しつつ、しかしそのゆえに浪漫精神がその根に抱えていた心の解放と人間の優位を別の器に盛りなおしうる表現の道を示しつつあったと言えるのではないか。少なくとも、このたったひとりの〈私〉の恋はまぎれもなく世界に対峙しうるのだという意識において、牧水は確実に晶子から新しい自我への夢を励まされたはずである。それゆえ、逆に形骸化してゆく明星派の歌を幾たびも攻撃せずにはいられなかったと思われる。

 

3. 過渡期牧水から滲むもの

 明治四十年前後は、日本の近代が大きな曲がり角を迎えた時期と言っていい。ことに、四十年の大逆事件は知識人に大きな影響を与えたことで知られるが、このとき牧水は小枝子との恋を胸に、中国地方をめぐって郷里延岡に至る旅の最中である。事件に触れた文章は特に見あたらない。これに対して、啄木は後に公判記録を借り出して徹夜で書写し、日記に〈今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。ーーー帰って話をしたら母の眼にも涙があった〉(明治四十四年)と記す。じつに対照的な風景だが、牧水はこの旅の途中、

 

 幾山河越えさり行くかば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく

 

を作り、また、この年

 

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 

を作っている。啄木が社会に敏感であり、直接にその動きに身を投じて傷ついていったのに対して、牧水はこのころからいよいよ本格的に酒や旅に心を寄せるようになる。社会の底で何が起こりつつあるのかを牧水が自覚していたかどうかはわからないが、この歌は確実に時代の曲がり角にある青年の痛みを代弁し普遍的な哀しみを象徴した。これは、一面では偶然であろうが、反面では目に見えぬ時代の感情のさざなみをどこかで自らの痛みとして感じる牧水の情緒のありようを証しているように見える。牧水は自分が編集していた「創作」にしばしば原稿を依頼するなど啄木を深く敬愛し、二人の交友は啄木が死ぬまで続く。そうした経緯にも、牧水が社会に対して切実な関心をよせようとし、ひとりの青年として傷ついていったことが察せられる。こうした啄木と牧水の接点に対して、同世代であった尾山篤二郎は、〈牧水と啄木は殆ど似てゐる。〈別離〉と〈一握の砂〉と、また〈死か芸術か〉〈みなかみ〉と〈悲しき玩具〉との類似を考へてみればよい。その相違は、牧水は惑溺すれば、そのままくたくたになるか、自省して淋しがるかしただけで、見栄も外聞もなくなつたが、啄木は必ず見栄を切つた。彼はその事自身を空しく言ふか、自嘲の形を借りるかして、人々からそんなに可笑しくとられないやうに用心深く見栄をきつた。牧水はさもきまりが悪さうにしたが、啄木は其処をうまく誤魔化して口を拭つて了ふ〉(注2)と評している。啄木と牧水とは社会に対するスタイルは違ったが、まるで双子のように近代の岐路に立ちその痛みを共有していたと言えるだろう。啄木はまもなく死に、その後を牧水は生きることになる。そのことによって牧水はあるいは啄木より切実にその浪漫精神を試されることになったともいえるのではないか。

 

 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり

 「路上」

 おもひやるかのうす青き峡のおくにわれのうまれし朝のさびしさ

 

 わが髪にまみれて蟻の這ふことも林は秋のうらさびしけれ

 「死か藝術か」

 醉うて居れ、醉うて居れ、ほんたうに醉うて居れ、外目をしながら心が斯う呟く

「みなかみ」

 飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきこころとなり

 

 啄木との交友期間からその後のしばらくの間、牧水に破調が目立つようになる。加えて、一首目のような心象的な風景が増えて、牧水が非常に内向的になり、かつてのように自然に全幅の信頼を置いて自分を投影してゆくことが叶わなくなっている。いびつな、自虐的な気分が漂っている歌も少なくない。しかし一方で雲の切れ間のように、心がほどけている二首めのような歌には、後年牧水が自然との調和に再び自分の居場所を見いだしてゆくことになる予兆のような情緒が漂っていよう。破調は詩の形式への挑戦であると同時に、自然におおらかに自分を解放してゆけない自我の翳りとたわみをどのように正直に歌に反映してゆくのかという自問自答でもあったのではないか。牧水はそれをひたすら破調という詩形への試みとして世に問うたのだが、その内実は、失恋を背景に世界との軋轢のただなかにある自らの心の軋みをなるべく裸で表わすということではなかっただろうか。形式や自然との調和に包み込まれることによって静まるであろう、ある真実の断念にいたたまれなかったのではないか。破調の問題は、そうした魂が要求するたった一つの具体にすぎない。私はそれを痛ましい思いで見つめる。自然への信頼は、一方では牧水を短歌に引き留め、いたたまれぬ自我を抱き留めた。しかし、一方で旅や酒にあずけるしかない自我の余りをも残したようにみえる。それをどう評価すべきなのか、破調への評価と共に私には依然として難しい。しかし一つだけ言えるとすれば、この時期の牧水が訴えてくるのは、この詩形は、たとえそこに抱き取られるにせよ、一条の純情の光を必要とするということではないか。

 

4. 白鳥の位置 

 近代から現代へ、きれぎれにとどく一筋の細い光の糸のようなものがある。近代の名にふさわしい自我の開花の可能と不可能、その過渡期に、ありうべき新しい可能性を模索しようとする細道がきれぎれにつながっているのがここには感じられる。それは、近代という時代がひととき見せた自我への夢と、国家主義への道をひたはしってゆく現実との深いギャップに架けられた危うい吊り橋のようにも見える。あるいは牧水が学識に支えられた知識人であったなら、あるいはもっと強力な方法論に支えられていたなら、たとえば永井荷風のように、夏目漱石のように、姿を変えて渡りおおせたかもしれぬこの橋を、牧水はほとんど裸で渡ろうとしたようにさえみえる。牧水の自然主義とは、形を変えた魂のラディカリズム、すなわち浪漫主義の一変形として危ういほどにも純な自我の獲得の夢を携えていた。それは、言い換えれば、人の心を押し流してゆく社会や時代に抗して、たった一人の人間の心の大きさと、それがいかなるところにありうるのかを探るための道であったとは言えないだろうか。明星的浪漫から自然主義にいたる道程に、多くの試行錯誤を繰り返しつつ牧水が刻んだものは、旅の形を取り、また、恋の形をとりながらじつはそうした個人の心の置き所そのものではなかったかと思う。それは、どのような文芸にもあらわれるレベルの問いである以上に色濃く切実な、自我の有無に直接に関わる問いであったような気がしてならない。またそれは、まるで時代のはざまにふと生まれでた何ものにも染まることのできぬ純情な魂の置き所といった姿をしており、そのことは、近代の一つの節目に生まれ、叶うことのなかった希望として考えさせるものがある。あの甘美なセンチメンタルな叙情性というものが、じつは、意外に強靭に時代をくぐり抜け自己を果たそうとする欲望の変形であり、あるいは〈近代〉の幕開けにあたって人々が見た、新しい自我の実現という夢が潰えるべくして潰えてゆくなかで、それに対抗するように紡がれた細く強靭なレジスタンスではなかっただろうか。いわば、牧水はその果たせなかった近代の宿題を抱えてさまよい、歌を杖にしつつ行き倒れた、とは言えないだろうか。

 私たちが、私たちの置かれている世界の複雑さや未来の見えがたさの前に沈黙を選ぼうとするとき、しかし、ただ一度きり生きて物思い、世界を感じる命の側から押し返してくる声にどのような言葉の可能性があるのだろう。たとえば、表現者として卓越した感性をもっていた斉藤茂吉の、それゆえにどこか薄暗いものを含んだ自我の繁り、巨大な暗闇の突出としての自我の量感を思うとき、牧水のそれはいかにも頼りない理想主義に見える。しかし、時間の厚みの彼方からいま、あの一筋の光のような牧水の純情を眺めるとき、私たちは近代に何が起こったのかを直感する。それはじつに漠然とした不安の降り続く現代までの道と、その続きを照らし出す微量の遠い光として、自我への疑いに馴れすぎた私たちを立ち止まらせる訴えを秘めていないだろうか。


(注1)

篠弘〈近代短歌論争史〉「若山牧水と伊藤左千夫の「別離」論争」にその経緯が記されている。

 

(注2)

篠弘〈自然主義と近代短歌〉「若山牧水の破調歌」より。