万華鏡覗きの快楽(けらく)

— 阿部定と茂吉の風土 —

『木野評論』36号京都精華大学刊

 

 阿部定は大島渚監督の『愛のコリーダ』や大林宣彦監督の『SADA』などの映画、さらには渡辺惇一の小説『失楽園』などのモデルとして記憶に新しい。料理屋の女中阿部定が愛人吉蔵を殺害し、「局部」を切断して持ち去るという昭和十一年五月に起きた事件は、当時から今日に至るまで何度かのブームを呼びさまざまに解釈され描かれてきた。この特異な犯行はエログロ的好奇心を集めながら、一方では愛ゆえの犯行とされ、常に「極限のエロス」「絶対愛」「純愛」という賛美の言葉と共にあった。戦後、坂口安吾が「純情一途な悲恋」として持ち上げたことも事件のイメージを定めたかもしれない。しかしこの事件が今日なお忘れられないのは、それが結局「純愛」ではないからだろう。解釈され咀嚼され尽くしたものは忘れられてゆく。もしこれが「純愛」で片づくものならば語るべき事はもうなく、数知れぬ心中事件と共に忘れられたはずだ。しかし何度「純愛」のラベルを貼っても事件はそこをはみ出す。だからこそ忘れられないのだ。

 歌詠みである私は、斎藤茂吉の不思議な歌を思い出す。茂吉は当時五十代でこの事件を「体験」している。

 

 行ひのペルヴエルジヨを否定して彼女しづかに腰おろしたり 

 『暁紅』

 

 彼女とは阿部定である。ペルヴエルジヨ(perversio)は性的倒錯のことだから、定は自分は変態ではないと言って腰を下ろしたという事だろう。「しづかに」がもたらす効果であろうか、その姿を描く茂吉もほっとしている、そんな風情のある歌だ。純粋に歌として鑑賞してみるとそれほど出来がよくはない。だが妙に意識に引っかかる歌なのだ。茂吉自身がこういうシーンに立ち会ったわけではなく想像のうちに詠まれているのだが、この歌が不思議なのは、茂吉がさながら阿部定と一体化しているような錯覚が起こることだろう。当時の新聞には定が連行されながら微笑むあの有名な写真や、「『もう死刑になって結構よ、いつ死んでも嬉しいわ、死ねば石田があの世にいるから』と極刑を待っているかのようである」(「読売新聞」昭和十一年五月二十二日)などという記事も載っていたから、茂吉も当然こうした報道の影響を受けている。他にも次のような歌が詠まれている。

 

 阿部定が新聞記者に話したるみじかき言(こと)もわれは悲しむ 

 『暁紅』

 サダイズムなどといふ語も造りつつ世人(よひと)はこころ慰むらしも 

 同

 この二人の男女(をとこをみな)のなからひは果てとなりけり罪ふかきまで 

 同

 阿部定が切り取りしものの調書をば見得べきもなき常の市民われは 

 同

 

 これらの歌は茂吉にしてはお行儀が良すぎ、ちょっと気の抜けた作品と言うべきだろう。阿部定が事件を語った予審尋問調書は当時の人々の好奇の的であり、どこからか漏れて地下出版されたりするほどであったらしい。四首目はその調書を手にすることの出来ぬ無念を詠んだものだが、悔しさを滲ませながらもどこか迫力に乏しい。それ以前の茂吉が女性や心中事件によせた強い関心を知る者にとっては解せないところが残る。例えば大正十二年の有島武郎の心中事件に関しては次のように詠んでいる。

 

 心中といふ甘たるき語を發音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす

 『石泉』

 有島武郎氏なども美女と心中して二つの死體が腐敗してぶらさがりけり 

 同

 抱きつきたる死にぎはの遘合をおもへばむらむらとなりて吾はぶちのめすべし

 同

 

 この関心の寄せ方は異様であろう。特に二首目などは、「美女」と心中した男への妬ましさと悪意が露出している。三首目には心中そのものよりその背後の男女の情交に想像は膨らみ、妬ましさで爆発しそうになっているのである。この事件に対する情動の激しさと比較すると阿部定事件に関する茂吉の不思議な落ち着きは明らかだ。もちろん阿部定の事件は有島の心中から十年以上の年月が経ち、茂吉は一層老いている。さらに昭和八年に起こった妻のスキャンダル、いわゆる「ダンスホール事件」以後別居状態にあり、茂吉の愛への渇望は一層屈折したものになっていた。それも要因の一つではあろう。しかし、そうであれば一層事件のインパクトは有島事件より阿部定事件のほうが強く、エロチシズムや愛への幻想をかき立てる度合いも強かったはずだ。阿部定の事件の後事件を直接には詠っていないが、次のような歌も詠まれている。

 

 奥ふかき男女(をとこをみな)のまじはりの時に尊くおもふことあり 

 『暁紅』

 彼の岸に到りしのちはまどかにて男女(をとこをみな)のけぢめも無けむ 

 同

 

 これらの歌には沈潜するような愛への憧れが滲む。あるいは茂吉にとってこの「絶対愛」の物語は自分にはとうてい手の届かぬ愛の高みとして、吐息をつき、眺めるほかないようなものであったのかもしれない。そうであれば茂吉のお行儀の良いこの事件への反応は、気の抜けたというより、強い情動の後の弛緩のようなものであろう。さながら定が予審訊問調書に残した次の言葉のように。

 

「私は石田を殺してしまうとすっかり安心して、肩の重荷がおりたような感じがして気分が朗らかになりました」

 

 茂吉はさながら定と呼吸を合わせるように同時代の空気を吸っていた。「サダイズム」と詠まれるこの事件への世間の共感は、阿部定が一人ではなく、その情動に自分を重ねる人々が多くいた事を証していよう。もちろん下世話なお祭り騒ぎとして面白おかしく楽しまれただろうが、事件の背後に鬱々として潜在する時代の空気は見逃せない。この事件の起きた年には直前に二、二、六事件が起きている。翌年日中戦争が始まり、南京大虐殺事件が起こる。「まったく当時は、お定さんの事件でもなければやりきれないような、圧しつぶされたファッショ入門時代であった」と坂口安吾は定へのインタビューの中で語っている。定の「純愛」は個人の在処が失われてゆくファシズムと戦争の時代の暗雲を一時振り払ってくれたと当時の大衆は受け取った。事件への下世話な好奇心と同時にたれ込める暗雲を突き破るような何かへの期待が事件を煽り、自在に解釈していった。茂吉も一市民としてファシズムへと雪崩れてゆく空気を共有し生きていたわけだが、確実にそうした空気は反映している。当時の歌には鬱屈した心情の滲むものが多い。

 

 かくばかり圓(まど)かなる女(をみな)もの戀(こほ)しく映畫のなかにほそき聲あぐ 

 『暁紅』

 うつくしきをとめの顔がわが顔の十數倍(じふすうばい)になりて映りぬ

 『暁紅』

 

 映画好きであった茂吉は憂さ晴らしによく観たようだが、その興味の持ちかたは独特で、映画の全体を素通りし、極端に部分に集中している。一首目に性的な情動の動いていることは明らかだろう。この時茂吉は乙女の「ほそき聲」に集中している。また二首目も拡大された乙女の顔を驚き喜んで眺めている姿が彷彿とするようだ。ある種の痴呆状態さえ思えてしまう。ここでは映画の全体やらそれに対する自分といった関係性を消失した、実にいびつな視野が広がっていると言うべきだろう。また次のような歌も頻出する。

 

 よしゑやし鼠ひとつを殺してもわれの心は慰むべきに 

 『暁紅』

 鼠等を毒殺せむとけふ一夜心樂しみわれは寢にけり 

 同

 家ダニに苦しめられしこと思へば家ダニとわれは戰ひをしぬ 

 同

 

 鼠やダニは確かに害虫であるが、それでも茂吉がこれらの小さな生き物に向ける憎しみは尋常ではない。充満した感情の捌け口として鼠やダニは茂吉の神経に直接に触れては怒りを爆発させる起爆剤となっていたようだ。こうした歌には、いびつに抑圧された感情が伺え、先の映画の歌と並んで、ある種の視野狭窄を感じさせる。それはちょど阿部定が吉蔵を殺してしまうまでの視野と似ていなくもないのだ。

 阿部定の予審尋問調書を読んでいると不思議な気持ちになる。最初はさまざまな人間との関わりを語っていたものが、次第にその関係性が消失し、吉蔵との関係のみに収斂してゆく。吉蔵は肉体のみに集中して語られ、不思議に顔の見えない男なのである。これは一体「関係」と言えるものなのだろうか、と不可解な気持ちになる。予審判事に「被告はなぜ、そのようにまで石田を恋慕、愛着したか」と問われた定は次のように答えている。

 

「四十二とはとても思えず、せいぜい二十七、八に見え皮膚の色は二十代の男のよう」 「情事の時は女の気持をよく知っており、(略)一度情交してもまたすぐ大きくなるという精力振りでした」

 

 その後も続く濃密な情交の告白は肉体に限定されており、また異様なほど「局部」へと集中してゆく。世界との関係性を捨象してゆくこの不思議な視野には吉蔵という他者の気配がないのである。そして

 

「この人は自分に殺されるのを望んでいるのかしら」

 

 という世界に入ってゆき殺害に到る。この過程はまさに自らの周囲からさまざまなものが欠落してゆき、自らの見たいものだけが見える視野となってゆく過程なのである。しかし最期の訊問で定は次のように答えてもいる。

 

「実際石田は死にたくはないのだと考えていましたが、帰したくないばかりに殺してしまったのです。(略)せめて気休めに石田に『殺されても良いか』と一言きいて納得させれば良かったと残念でなりません」

 

 ここで定は相手の意志というものを意識している。吉蔵には吉蔵の意志があったはずであり、殺されて良いかどうかは不明だったのである。そうであれば、一層犯行当時の定の視野は吉蔵という他者が不在のいびつなものであったことが明らかだ。私はこの調書を読む時この当時の茂吉の視野と定の視野は似ていると思う。すなわち、極端な視野狭窄と他者不在の感覚において。阿部定が自らの感情と世界との関係の結び方を知らぬ未熟な自我を抱えていたとするなら、茂吉も同様に自らの巨大な自意識をどこに落ち着けるべきかを知らぬ人であった。おかしなことに、定の未熟さは「純愛」物語として大衆に迎えられ、茂吉の知識人らしからぬ不明さ未熟さは彼の不可解な魅力となって人を引きつける。まるで日本の風土全体が、自他の関係を喪失して狭い視野にのめり込んでゆく万華鏡覗きを楽しむかのように。そして、今もなお阿部定の物語がブームを呼ぶたび、それを「純愛」として読みたがる風土は日本に息づいている。

 この事件は「純愛」ではない。それゆえに片づかない重要なものを残しているのではないか。すなわちこの事件を印象づけている「局部」である。このグロテスクな視野狭窄の視野の象徴こそが、「純愛」をはみ出し、今も名付けられぬままこの風土に放置されているのだから。