語り残された自我

— 葛原妙子論 —

「現代詩歌研究」04年第6号

 

 葛原妙子の存在は今日いよいよ重く、作品は時代を超えた普遍性を得つつある。しかし、その存在感に比して短歌史的な位置づけは曖昧なのではなかろうか。とりわけ昭和三十年前後、短歌史的には女歌論議から前衛短歌論争にいたる時期に交わされた議論の中で、葛原の目指した文学の意図は充分に理解されないまま宙に浮いている気がしてならない。例えば上田三四二が、次のように語るように。

 

「葛原妙子は、この時期、昭和二十年代後半から三十年代初頭にかけて、いわば『前衛短歌』の先駆的、もしくは倍音的存在として、そ のエコールの呼び水の役割を果たしたのである。彼女の二つの文章、『再び女人の歌を閉塞するもの』(「短歌」昭30・6)と『難解派の弁』(「短歌研究」昭和30.1)には、歌壇ジャーナリズムの上において、思わずしてそういう役割を振られた葛原妙子の、苦い顔が映っている」(『戦後短歌史』三一書房)


 ごくおおざっぱに通説的な見取り図でイメージするとき、葛原は女歌議論の衰退と共に前衛短歌に加えられ、その伴走者として、まさに「先駆的、もしくは倍音的存在」として定着し今日に至っているように見える。しかし、この時期に交わされた議論の中で葛原が訴えていたものは、折口信夫に先導された女歌論議とも、方法論を主体とする前衛短歌運動の議論とも本当は噛み合っていなかったのではなかったか。昭和三十一年、大岡信と塚本邦雄の間で交わされた議論は、前衛短歌運動の始まりを告げる論争として記憶されている。口火を切った大岡が当初論敵としていたのは塚本ではなく葛原妙子であった。葛原もそれに応えた。それにもかかわらず、この論争の流れはいつの間にか葛原を置き去ったかに見える。そのような漠然とした力に押し流され見えなくなったものがあるのではないのか。葛原が目指していたものは何なのだろう。そしてそれはどんな意味を持つものだったのかを検討する必要があるのではなかろうか。

 

1 「女流の歌を閉塞したもの」と葛原

 「女歌」論議は周知のように、折口信夫が昭和二十五年の「女人短歌序説」(「女人短歌」6号)、昭和二十六年の「女流の歌を閉塞したもの」(「短歌研究」1月号)の二つの論文においてアララギの「写生主義」とは別の方向の可能性を示唆し、女性歌人達を励ましたことを契機とする。折口は、「女人短歌序説」で「明星が百号で終つて、やがて子規一門根岸派の時代となつた。根岸派の後を襲つたアラゝギの盛時には、女性は無力なものとなつた」と述べ「長い埋没の歴史をはねのけて、今女流短歌が興らうとしてゐるらしい」とアピールしたのに続いて、「女流の歌を閉塞したもの」では次のような論点を挙げ、より具体的に女性歌人の取るべき方向性を示唆した。

 

・今の女の人には却つてポーズがなさすぎ、現実的な歌、現実的な歌と追求して、とうとう男の歌に負けてしまふことになつたので、もう少し女の人には、現実力を発散する想像があつてもいいでせう


・新詩社時代の女の人たちは、かういふ口から出まかせなと見える歌に長じてゐた。さういふものが出来るまでは、かういふ事を詠まうとは思はずに、語を並べてゆき、そして最後に近づいて、急に整頓せられる。(中略)この頃の歌に、生命の流動が乏しくなつたのは、この点に関する考慮が欠けてゐるからではありませんか。口から出まかせといふと語はわるいが、自由に語を流して、魂を捉へるーーさう言ふ行き方を、てんで罪悪のやうにして、態度が硬化してかゝるところにあるのでせう


 折口は、さらに「鴎外美学が結局新詩社を壊滅させるに至つたのだとも言へます」とこの論を結ぶ。折口はアララギに止まらず、さらにそれ以前の鴎外美学が封殺してしまった歌の伝統としての女流の歌の復興を語り、近代全体の流れを見直すべきことを示唆したのだった。折口がこの文章を書いた頃は、敗戦直後から起こった新歌人集団、人民短歌運動などの戦後短歌が曲がり角に来ており、折口の言葉で言えば「あまり現実主義の歌ばかりを正しいものにいひたててゐるうちに、今日のゆきづまりを招いた」状況にあった。折口にとってみれば、近代を覆った写実主義の代わりに「現実主義」が来たことは大した代わり映えとも言えない状況で、相変わらず歌の伝統は殺されていたのである。そのために具体的に折口が挙げた省みられるべき女流の特質が「現実力を発散する想像」であり、「ろまんちつく」な「口から出まかせと見える歌」であった。

 この時、折口の頭にあったのは与謝野晶子や山川登美子など新詩社の人々の歌である。折口にとっては一貫した持論であり短歌史的展望に立った示唆であるにしても、しかしこのときすでに半世紀ほども前の歌が思い描かれていることに無理はなかったのだろうか。敗戦を潜り、欧米の思想の影響を受け、戦後の厳しい生活と闘い、より屈折した内面を抱えた女性達にとって、新詩社全盛のころの若い晶子や登美子の歌のエッセンス、「ろまんちつくな靄の様なものに包まれゐる気分」が直接の参考になったとは思えない。折口自身この文章の中で「ポーズ」のある歌を推奨しつつそれをためらってもいる。晶子の「乳房おさへて神秘のとばりそとけりぬ。中なる花の紅ぞ濃き*1」を挙げながら、「ぽうずばかり盛んで、之を具体化する前に大きな誤算をしてかゝつてゐたのです」と逡巡し、「ぽうずを持つてかゝ」るということを「暫らく見逃して置きたい」とも保留する。この言い淀みには晶子の文学の行き詰まりが頭にあり、「文学の座が浅」いものに止まった事が影響しているだろう。折口は新詩社がその後どのような方向に展開すれば良かったのかについてここに述べられているより先の展望を持っていただろうか。折口の掲げる女流の方向性は、非常に大きな枠組みでは女性達を励ましながら、しかし方向や方法においては現実味の乏しい示唆に止まったのではないかと思えるのだ。この点について次のような指摘も出されたことがあった。

 

「折口氏が『アララギ』のリゴリズムを批判したのは正しいが、現在の作者は皆まがりなりにもリアリズムを通過している、そこを揚棄 しこの主情歌というのがどんな方法をもつものなのかは説かれていなかった。『女人短歌』の人たちの多くは、この折口氏の説に追随したが、これを理論づけ発展させることはできなかった」(高尾亮一「女人短歌批判」『女人短歌』*2 30号昭和31年)

 

 確かに折口が示唆したものは、反写実主義、反現実主義の大枠で女性達の共感を呼んだものの、その先に戦後社会に対応できるような「理論づけ」可能なビジョンがあったようには思えない。折口は別の機会に「現代短歌が、短歌の形でとゞまるーーーといふことを前提にすれば、なほ若干、ろまんちつくな作風だけが短歌の領域に残されてゐる」*3と述べて、晶子らの方向性に「残した為事」としての可能性を見ている。同時にこの論では「この方向に、今から若い歌人たちが赴くことを決して望むわけではないが」という保留もついており、折口が新詩社風の「ろまんちつく」な歌風を女歌の伝統に繋がるものとして思い描きながら、しかし新しい社会に対応しうるものかどうかについてはためらっていることが伺える。この論文が若い晶子や登美子の歌を掲げたとき、そこには歌が纏う時代特有の女性像やスタイルが自ずと現れ歌の理論を支配していたのではなかったろうか。私はこの問題は重要だと思う。葛原はいち早くこの点への反応を見せている。 

 

・しかし女流歌人が「女性の特質」、もう少しはつきり言へば、直感的、感情的、主観的、無批判的、社会及時代性の欠如、などをむしろ 武器として自己の周辺のみを探り、自己の作った殻の中にのみ籠らなければならなかつたといふ理由はほんとうはいづれの時代にも無かつたと云ふ方が正しいかも知れない。


・女性が今日でも尚、勝手に定めたがる「女性の特質」に自ら甘へ縛られる事の愚は少くとも今後は避けたいものである。女流歌人からこの「女性の特質強調意識」を取除かない限り女流の歌は飛躍することは不可能である。 (『短歌雑誌』昭和26年10月号)


 この文章は、女流自身の自覚を促す形で書かれているが、その奥に折口の示唆への抵抗がある。葛原は折口の励ましを大枠では追い風としながら、しかしそこに含まれている「女性の特質」への囲い込みを危ぶんでいた。折口が新詩社ふうの「ろまんちつく」な歌を可能性として思い描いたときに、同時にそれが限界ともなっていることを葛原は見抜いていたのである。

 葛原は昭和三十年に発表した「再び女人の歌を閉塞するもの」(『短歌』昭和三十年三月号)において、折口との関わりを次のように述べ、前置きとしている。

 

「現在女流の歌は旺んになりつつあるといふ。頷いてよいことかも知れない。しかしそのことは、先に述べた折口氏の言葉とは、直接のかかはりはないのである。なぜなら、それをひとつの啓示めいた言葉として受取る程、特に、その時分まだ若かつた作家達は、聰くはなかつたからである。むしろ、今までの女流の作品の概念から、ややはみ出した作品は、折口氏の発言の前に、それぞれの小さな巣に生み落とされてゐたと言へるのである。作家達は各々の個性にしたがつて、至つて気侭に歩いた。それにもかかはらず、今日考へてみるときに、折口氏の予期と作家の歩み方は、それ程ずれてゐるとは思へない。」


 この論文は、折口の論文から時間も経っており、中城ふみ子の登場によって女歌がセンセーショナルな話題の中心になると共に集中的に批判を浴びたのを受けての弁明の役割を負っている。一人歩きし始めた議論を修正し元を糺したい意図で記されたこの部分は、「女歌」を折口が励まし女流が発憤し、といったごく大まかな見取り図で見てしまうとき見失われるものを語ろうとしていた。女性達の動きは折口の発言と同時平行的なものであって、「折口氏の言葉とは、直接のかかはりはない」と言い切る。そして昭和二十五年に女人短歌の数人が折口に意見を乞うた事があったが、「戦後にあらはれた女流達はこの席には無関係であつた」とも語る。この距離の取り方には、折口の示唆をまともに受けた戦前の女性達とは別の所に自分の道を拓こうとする自負がある。少なくとも葛原にとっては折口のイメージする「ろまんちつくな靄の様なもの」や「ポーズ」のエートスの範囲では描けないものが大事であり、むしろ真っ向からそのようなスタイルの支配と対立してきた。またそうであるからこそ批判の対象となっていたのである。

 

2 女性像と自我

 「再び女人の歌を閉塞するもの」が直接の反論の対象とした近藤芳美の「女歌への疑問」(『短歌』昭和29年12月号)と山本友一の「素朴な清新さを」(同)には次のような女歌への疑義が出されていた。

 

・もつと清潔な知性に満ち、もつと現代の共感と理解の上に立ち、それで居ながら女だけの知る悲哀を情感として静かにたたへた、そのや うな女性の歌が、今日の、歪んで奇型児めいた流行的な「女歌」に代わる日を待ちたいと思ふ(近藤)


・言葉を痛めつけた佶屈した語法、肉体をくねらせたやうないやらしい表現、何の事か判らない比喩、ひとりよがりの観念、何か無理に存 在を主張した様な態度、周囲に対する好意のこもらない目、肉親を素材に扱ふのがまるで恥と思つてゐる様な口吻(略)私には想像もつ かないマゾヒズムとも云へる潮流が女流歌人の間には奔流となつて流れはじめてゐるのではあるまいか(山本)


 こうした反応は、よく見てみるとかなり強く生理的な好悪が働いている。主題の是非や表現の出来不出来を具体的に問うような手続きを踏んだアプローチではなく、感覚的な拒否が働いていることは見逃せない。近藤の語る理想も山本の語る嫌悪感も、意地の悪い見方をすれば、歌の批評であるより多く女性の歌への好みが吐露されているように読めてしまう。ここでは、ほとんど無意識に近藤らが規範とし理想とする女性の歌のスタイルが批評の基準となっており、それから外れていることが批判されている。「清潔」な知性でなく、「静か」な情感ではないから「歪んで奇型児」なのであり、素直で純真でないから「佶屈」で「いやらしい」のである。葛原にとってはまさにこのような批評のありかた自体が反論の対象であったはずだ。葛原は、まず、山本に対しては、次のように反論する。

 

・氏に了解を求めたいことは、戦後の女性の内部に、氏の見知らぬ乾燥した、また粘着した醜い情緒があるといふ事実である。そしてひよつとしたら、さうしたものの一部は、女性の本質の中に昔からあつたものかもしれない。それと同時に今迄の短歌的な情緒とはやゝ異質なものが、別に生れてゐるといふ事も確かである。それらを露はにする多少の勇気を、限られた現在の女流の人達が持つたと云へると思ふ


また近藤に対しては次のように述べる。

 

・今日中年女性の周りには家族制度といふ厚い壁が、いまだに厳然と存在してゐることが忘れられてはならない。さうした中年婦人の環境 が、自我を著しく屈折せしめるときに、どのやうな現象を生むか、近藤氏には推察されることはむづかしいであらうか


 このように、近藤や山本らの嫌悪したスタイルが、女性を取り囲んでいる社会と自我との相克の表現であると訴えるのである。ここには表面的な好悪に止まっている批評を、その表面から主題のほうへ導こうとする意図がある。そしてこうした主張は中城ふみ子への擁護に際してもっとはっきりと語られてゆく。「一人のエゴイスチックな女性の、鮮烈な生き方をとほして、それは如実に戦後社会を反映してゐる作品である」と社会性の不足として指摘されてきた点を擁護、そして「自身の内部の矛盾を曝すことなく、社会の矛盾を取り出すことは、彼女自身の立場としては少くとも負目であつたに違ひない」と個人の内部を曝すことが日本の社会の不幸を表現することになるのだと強調する。そしてさらにそれは、「むしろ日本の不幸そのものの摘出であつた」とするのである。このような、従来社会性とは呼ばれず、むしろ社会性の不足とされてきた部分を覆して、それこそが社会性だとする論は画期的なものではなかっただろうか。これは今日なお充分に理解されたとは言い難い論点だが、重要な問題だ。このようにして葛原が探っていたのは、個人の内面表現がどれほど社会に対応し対抗しうるのかということであった。

 葛原は近藤や山本によって反語的に提出される女性のあるべき歌のスタイルを拒否し、むしろ嫌悪される表現に新しい歌の可能性を見ようとしていた。葛原らの歌を表現として迎える前に既成の好ましく懐かしいスタイルに押し戻そうとする力、これこそが女流の進展を阻むものだと葛原は感じていたのである。

 折口が提出した女歌の方向性も少なからず折口の思い描く女性の歌のスタイルが支配するものだった。ここで近藤や山本らが批評の物差しとしているのもそれぞれが思い描く女性歌のスタイルなのであり、その点で見るかぎり女流の歌へのアプローチは似ているとさえ言えるかも知れない。折口は励ましというポジティブな形で、近藤らは批判というネガティブな形で女流にあるべき歌のスタイルを論じたとも言える。葛原はいち早く折口に対してもその点で反論をしており、あらたな形で「女流歌人の特質」に囲い込まれることを警戒した。葛原にとっては表現と自我の問題とは切っても切れない関係にあり、『橙黄』刊行から『飛行』までに苦しんだ文体の確立の問題は、すなわち自我の確立の問題とイコールであった*4。自らの内面の醜さを晒すことが戦後の女性の生の表現、ひいては社会を表現することに繋がるという確信は、自我と表現との深い一体化によってしか正当化され得ない。その確信こそは葛原が苦しみつつ自らのものにしてきたものだったのだ。『橙黄』にあって葛原を代表する次の歌は同じ一連の中に置かれ葛原の原点となっている。

 

 女孤りものを遂げむとする慾のきりきりとかなしかなしくて身悶ゆ

 

 わがうたにわれの紋章のいまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる

 

 ここでは表現を求める自我そのものが主題となっている。「われの紋章」とは自分の文学、自分だけの文体であるとともにその根拠となりうる自我を指してもいる。もしそのように読まなければこの歌は創作の悩みを吐露しただけの愚痴になってしまう。葛原は敗戦からこの歌を得るまで、自らが育った土台である『潮音』の日本的象徴との格闘を通じてすでに充分「女性の特質」と闘ってきていたのだ。

 

 地震ゆれて朝しづかなり白牡丹はつかにみする蕋あえかなり

 『潮音』昭和18年6月号

 越えきます碓氷よいかに草の穂に秋の灯をかかげてぞ待つ

 『潮音』昭和19年11月号

 

 これらの歌には私たちの知る葛原の面影はない。牡丹の蘂にも、灯を掲げて夫を待つ姿にもすでに充分すぎるほど「ポーズ」と「ろまんちつく」があるといえる。葛原はまさにこのようなスタイルから脱出することなしに新しい歌はないことを『潮音』の伝統と格闘しつつ知っていたのであり、またそれが新しい自意識と不可分のものであることを痛感していたのである。そして『飛行』では、幻想と現実とを往還しつつ、孤独と引き替えるように自我の手がかりを手に入れてゆく。それは自ら進んで家族との齟齬を創りだしてゆくような直接的な日常体験を含みながら、より幻想的な表現となって結実してゆく。

 

 わが死を祈れるものの影顯ちきゆめゆめ夫などとおもふにあらざるも

 

 きつつきの木つつきし洞の暗くなりこの世にし遂にわれは不在なり

 

 一首目の歌の背後に具体的な事件などを想像する必要はない。夫という存在をどこまで突き放し他者として意識できるかを試みている作品だと読んだ方がいいだろう。先の夫を待つ歌との違いは言うまでもない。葛原は自らの内にのめり込み、半ばは幻想に踏み込みながら自我のうちに展開する世界を探索し、その深みから他者としての姿を現した夫という存在を見つめているのである。きつつきの歌にはより象徴的に孤独が詠われ、葛原はこの歌で自らの幻想を表現に載せる手がかりを掴んでいる。それは一面では確かに近藤や山本の批判するような「マゾヒズム」的傾向を持つものでもあった。しかし、その根本に起こっていたのは自我への渇望であり、新しい女の自意識の創造という大仕事だったのだ。あるいはこれは近代以来自我の表現を求めつつ挫折してきた日本の文学にとって看過できない問題ではなかったのだろうか。折口もその後の評者も戦後の自覚ある女性達に訪れていたこの問題を素通りしている。女流の歌をスタイルの側から論じたとき、男性達の視野からは葛原が表現の根本に据えた自我の問題は見えにくくなってしまったのかも知れない。

 しかし歩みを共にしてきた女性達にとってはそうではなかった。女性達はこの時期、それぞれのやり方でこの問題と向き合っており、それぞれが抱えるものに敏感であった。森岡貞香は、葛原の抱えている自我について中城と比較しながら次のように語る。

 

「同じ角度から言つて飛行は、易々とモラルを抜け切つてゐる乳房喪失のやうな魂ではない。(略)風のごとき性格と己れを言つてゐる中城さんとは対象的な真直な本質を持つてゐて、ためにかへつて原罪にくるしむ態度が見える(略)原罪にくるしむやうな精神は不思議と 乳房喪失には無い。葛原さんの本質は作者の苦闘を勝利のごとく昇華させてゐるけれど。」(『短歌研究』昭和29年9月号)


 さらに森岡は中城を「手に触れるあらゆるものを掴んでみた勁さ」と言い、葛原には「従来の短歌にあるあの東洋的な詩精神とはやや異なり、それは絵硝子の中に押しこめられてでもゐるやう」と付け加える。この文章には中城と葛原の対照的な自我の形が鋭く認識されている。森岡が語るように葛原の自我意識は少なくとも東洋的な雰囲気のものではない。かといって他者や神との対話によって成り立つ西欧型の自我でもなく、もっと内向的な姿をしたモノローグに見える。しかし、人間が普遍に抱える「原罪」のような問題に向き合って苦しみ、苦しむ自らを「絵硝子」の中に閉じこめて晒すような独特の激しい姿をしていた。中城の苦しみが、より人生的、具体的で分かりやすかったのに比べると、葛原のそれはもっと抽象的で見えにくいものであったと言えるだろう。自らの人生を丸ごと晒した中城は、それゆえ普遍的な問題を突き詰める暇なく自らの時間を駆け抜けていった。葛原はむしろ人生的な部分を捨象し時間を止めて普遍に向かった。ゆえにより深く「原罪にくるしむ」ことになったのである。

 このような葛原は、「人間の命がどんな時代が來ても孤獨であるといふ考へ方を、人生觀に根本的な革命が來ない限り私は捨て切れないと思ふ」(『短歌研究』昭和27年6月号)とエッセイにおいて告白し、最も大きな課題として孤独と向き合っていた。これは生涯を通じての問題となってゆくのだが、この時期の葛原にとって自我とは孤独と引き替えに手に入れるほかないものでもあった。これを直ちに原罪意識と言えるかどうかはわからないが、少なくとも葛原にとって自我の模索は自らの深部に眠る痛みを掘り起こすような辛い作業でもあったのである。それゆえその自意識は生身の混沌を抱えており、方法論として明快に理論化できるものではなかったとも言える。

 

 殺鼠劑食ひたる鼠が屋根うらによろめくさまをおもひてゐたり 

 『飛行』

 さながらに鯨肉の暗きわが臓の一つに充ちくるものの質ならむ 

 『同』

 

 こうした歌には自我の明瞭な輪郭よりは茫洋とした翳りが描かれている。一首めなどには茂吉の影響も伺え、葛原は生理的、感覚的なものを積極的に学ぼうとしていた形跡がある。「幻想と云ふものは精神の特殊な病的生理に起因するので特殊の感官を必要とする」(『潮音』昭和27年6月号)と目指そうとしていた幻想的な方法について述べている。この点でも葛原にとって方法と自我意識とは未分化であり密接なものであった。二首めはより生理的、感覚的であり、視覚や皮膚感官など感官に訴えてなまなましい。これまで覆われてきたものを裏返すかのように、生々しく重い表現で内面を描写しようとする。こうした方向は、混沌とした∧私∨もろとも言葉を差し出す方法であるが、葛原はこれについて全く無自覚であったわけではない。「この個的な、いはば呟きがリズムのもつ誘引によつて他人の心に応和の世界を作つた時に、それはもはや個人のものではあり得ない」(『女人短歌』17号昭和28年9月)はずだという見通しを持っており、それが「抒情詩といふものの本質」であるとも確信していた。

 

3 前衛短歌論争と葛原

 ちょうどこのころから葛原は塚本邦雄を意識し始めており*5、歌を引用して次のように述べる(『潮音』昭和27年12月号)。

 

 火藥商たちの兩掌はくつしたのやうにしづかに腐蝕してゆき

 

 法王の喪の夕べのみ休息を葡萄壓搾器はたのしみき

 

 内容は総じて体験的であるより観念的であり、云ひ替へれば生理的であるより知的であると言へる。これらの歌を構成してゐる重要な言葉がたいていの場合一つの「観念形態」を持つてゐて、それが解ける者には案外にすらすらと解る。むしろ解りすぎる。


 さらに、ここで使われている「火藥商」「葡萄壓搾器」といった「外來臭」ある言葉は、古典中の「紅葉」「鹿」「螢」などのように「暗示するものが大体規定されてしまつた」言葉とおなじなのであり、「それ丈に日ならずして手垢がつき歌が類型化する危さをはらむ」とする。

 ここで塚本の特長として挙げられている「観念的」「知的」であることは、「体験的」「生理的」であることを目指す葛原には対照的であり大きな方法的違いであった。そしてこの直感は今日の目から見ても塚本と葛原の大きな差として重要である。塚本の言葉が記号のように役割を振られて使われているゆえに類型的になりやすいとする指摘には、自我の沃野から掘り出される言葉には類型化が訪れない、という葛原の素朴な信念が働いている。そしてさらに奥には「女性の特質」が規定するスタイルではない、これまで表現されることのなかった表現の文脈への期待もある。∧私∨の深みに沈むものを幻想によって掬い上げ、生理的、感覚的な方法で普遍に押し上げてゆこうとする葛原と、とりあえず表現の表から∧私∨を消し、より方法的論理的な世界を再構築しようとする塚本。方法的には塚本の方が明らかに風通しがよく、論理的な後押しがあれば解りやすいものでもあった。この後に来る前衛短歌論争が論理の時代であったことを思えば、葛原の抱えていた自我の問題は、方法論として不利なものをその性格ゆえに負っていたとも言えるのである。

 昭和三十一年、『短歌研究』三月号の誌上で大岡信と塚本邦雄が論争する「前衛短歌の方法を繞ってーー想像力と韻律と」で大岡信は、

 

「詩人は歌いながら同時に歌つているおのれ自身を常に批評した。つまり言葉を不断に検証した。そういう形で、サンボリスムは詩人の中にはつきりと、自覚した批評家を生み出したのである」


とし「サンボリスムによつてはじめて、自我それ自体が考察の対象となった」近代詩が獲得した自我とその方法とを強調する。そして

 

「ぼくの考えでは、「明星」があえなく崩壊して「アララギ」全盛時代が現出したとき、そして一方、詩の世界にサンボリスムが導き入れられたとき、短歌の進路は近代詩の進路と別の方向を向いたのである(略)短歌が『明星』において漸くつかみかけた近代的な自我意識 が、こうした形で再び埋没しさったのではないか」


と短歌が自我の問題を通過していないと指摘した。この論は難解派と呼ばれた塚本邦雄や葛原妙子、森岡貞香、さらに中城ふみ子らの歌が対象となっていたが、主な論敵としては葛原妙子があげられ、サンボリズムを正しく通過していないゆえの「批評精神の欠陥」が批判されていた。この論文はさまざまな角度から難解派が論じられたものだったが、その大きな部分を自我の問題が占めていたことにあらためて注目したい。

 塚本邦雄は「氏が誇りかに謂うサンボリズムとは一体誰が獲得したものだろう」、「西欧と日本との『近代』の目もくらむような落差を、どうして見ぬふりをしているのか」と応え、「魂のレアリスム」を主張した。塚本もやはり自我の問題を焦点としていたのだった。そもそも塚本は初めてジャーナリズムに登場した「モダニズム短歌特集」(『短歌研究』昭和26年8月)において「モデルニスムといふ旗印は「近代に生きること」の痛切な證しであり、過去の『海外のヴォーグに浮身をやつすこと』とは何ら関りをもたぬ」と宣言していたのである。

 このような議論の流れならば近代日本の自我の問題を問い、では今日の日本に相応しい自我の表現とは何か、と問う方向で議論が発展してゆくはずだろう。しかし、その後の議論は、大岡がわずかに提言した「新しい調べの発見」を最大の争点にした方法論争として展開し、塚本邦雄、岡井隆らが中心となってゆく。この年の評論展望にも新しい調べと韻律の問題としてまとめられ、そこには葛原ら、女性歌人達の名前は挙がっていない。当然女歌が問い続けた問題は見えなくなってゆくのである。しかし、もし論点が調べの問題に移ったとしても葛原がこの時点で造っていた文体にはその新しい調べが伺えたはずだった。塚本が「オリーヴ油の河にマカロニを流しているような韻律」からの脱出を訴えたとき、葛原こそはすでにそれに応えていたのではなかったか。すなわち、「言葉を痛めつけた拮屈した語法」、「歪んで奇型児」のようなと批判された文体、それこそがまさに戦後という新しい時代を生きる自我の「新しい調べ」だったからだ。

 葛原は大岡の批判に対して次のように答えている。

 

・若しそこに「近代日本」にふさはしい「或詩型」が誕生してゐたとすれば今日の吾々の苦しみは少くとも半減してゐたのかもしれない」(『短歌研究』昭和31年4月号)


・特に女性に取つては長い歴史によつて拒まれてゐた自我意識の表出の一つの方法を、敗戦といふかなしむべき事を契機として再び自らの 手によつてとり戻したと言へるであらう(同)


 この悲鳴のような短歌史への異議が前衛短歌運動の論争のなかで黙殺されていったのである。

 


【参考文献】


「潮音」

「短歌研究」

「短歌」

「日本短歌」

『戦後短歌史』上田三四二

『葛原妙子全歌集』砂子屋書房

『現代短歌史Ⅰ』『現代短歌史Ⅱ』篠弘

『扉を開く女たち』阿木津英、内野光子、小林としこ

『折口信夫の女歌論』阿木津英

『葛原妙子 歌への奔情』結城文

『折口信夫全集 廿七巻』

『折口信夫全集 廿八巻』

 

(1)文章中の折口の言葉に従つた。

(2)「近代日本短歌の方向」『折口信夫全集』第廿七巻。

(3)「歌壇」において連載中の拙稿「葛原妙子と世界」平成15年6月号より9月号。

(4)昭和26年8月の「短歌研究」での「モダニズム短歌特集」が契機か。この特集はすぐには話題にならなかったため、葛原のこの反応はかなり早いものと言えよう。