初出「歌壇」94.8
(一部書き換え『未知の言葉であるために』所収)
「何かの事情で海に行けず陸の水、つまり淡水に閉じこめられた魚を陸封魚といい、これらの魚には、変身の現象が起る由である。(中略)妖しげなこれら漁族の、お伽話めいたはなしを聞きながら、木の葉の散り交う北ぐにの水辺で私は疲労の極に達していた。」(『狐宴』葛原妙子)
葛原がその論文「再び女人の歌を閉塞するもの」(『短歌』昭和30・3)であらわにした自らの歌への無理解への苛立ちは、現在に至るまで女流の歌を検討する際にしばしば言及されてきた。葛原の論文は、当時の女流の置かれた位置を物語るものとして、常に議論の口火を切る役割を果たしてきたのである。それにもかかわらず、この論文は、葛原妙子という歌人を全体として理解する試みの中に位置づけられることはなかったように思う。当時の女流の例に漏れず、論文においては決して多弁ではなかった葛原の歌業の中で、この論文のあふれるような勢いは、いわばノイズのようなものとして孤立しているように思われてきたのではなかろうか。<幻視の女王>、あるいは、<魔女>とさえ呼ばれる超然とした葛原のイメージとこの論文の人間臭い憤りの表明とは私の中でも長くそぐわなかった。<絢爛とした言葉の王国の住人>である詩人は、「自身の内部を曝すことなく、社会の矛盾を取りだすことは、彼女自身の立場としては少くとも負目であったに違ひない」と中城ふみ子の社会性について、しかもその人生の告白によって文学に寄与したことを確認する。またさらに、「戦後の女性の内部に、氏の見知らぬ乾燥した、又粘着した醜い情緒があるといふ事実である。そしてひょっとしたら、さうしたものの一部は、女性の本質の中に昔からあったものかもしれない。それと同時に今迄の短歌的な情緒とはや異質なものが、別に生まれてゐるといふ事も確かである。」と論じ、自らと他の女流に底流する情緒についてくりかえし強調している。
この激しい弁明は、例えば上田三四二が『戦後短歌史』の中で、「葛原妙子は、この時期、昭和二十年代後半から三十年代初頭にかけて、いわば『前衛短歌』の先駆的、もしくは倍音的存在として、そのエコールの呼び水の役を果したのである。彼女の二つの文章、『再び女人の歌を閉塞するもの』と『難解派の弁』(『短歌研究』昭30・1)には、歌壇ジャーナリズムの上において、思わずしてそういう役割を振られた葛原妙子の、苦い顔が映っている」と解説するように、この時期における葛原の歌壇での位置の特殊さ、ジャーナリスティックな勢いが書かせたものである事を考慮したうえで読まれなければならない。しかし、彼女がしきりに強調する、他の女流との情緒の共通性、あるいは<女性の本質>という言葉は、もどかしくも理解されないある大切な部分をさして身悶えるようでさえある。
昭和三十年代は、妙子が歌人としての位置を得てゆく時期であるが、同時にそれはさまざまな歌論の間で揺れた時期でもあった。しかしそこには、<前衛運動>の歩みとともに認められ、磨かれることになった葛原像とは別のなにかが取り残されはしなかっただろうか。
塚本邦雄によって「彼女がさういふ日常的なテーマに乾いた目をむけ、冷酷な態度で抒情することも、それから遁れ得ないといふ事実をいささかも消し得ない。彼女の豊富な創造力も、一本の綱で脚を縛られた、牝のペガサスの飛翔力とえらぶところがない。彼女すら日常と環境の地獄から脱出したところで創作の場がもてないのだらうか(「魔女不在」『短歌研究』昭35・4)」と『飛行』における生活の現場からの飛躍の不十分さを指摘された葛原は、一方ではまた全く反対の批判に曝されてもいた。
昭和三十四年十一月の『短歌』、作品月評では、前月号の「葡萄木立」三十首中、次のような歌が批評の対象となっている。
1. 猛き風去りたる窓に茨の實と、硝子切の尖の微粒のダイヤ
2. 卓上に胡椒の壷ありたかはらの星とひかりをむすべる夕
3. ひとは死ぬことあらめやも透きとほるめがねをかけてつね在りふるに
4. うすらなる空の中に實りゐる葡萄の重さはかりがたしも
5. 月をみたりとおもふみごもりし農婦つぶらなる葡萄を摘めば
6. 原不安と謂ふはなになる赤色の葡萄液充つるタンクのたぐひか
7. いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の斑のある鰈を下げて
山本成雄は、このうちの4を評価しつつ、全体については「才質の華やかさや豊かさは認むべきだが、内部にいかに豊饒な詩心が渦巻いていようと、ただ矢鱈にこれを撒き散したところで、一個の詩を結晶せしめることはできない。ぼくは、彼女に犠牲と抑制とを要求しよう」と論じた。また、葛原繁は、5・7などを挙げて「一歩観念に傾けばぐる廻りになるのではないか」、「作者の人間世界と何迄並走し得るか」との疑問を示した。武川忠一は、1・2などを挙げて感覚の現代性などを指摘しつつ、「その感覚は何によって培われるべきかという課題が、依然として殘されたままである。現代感覚の追求は、當然現代の人間生活の追求であるべきだ」と述べている。
これらの批判は、当時の状況のもとでそれぞれに説得力を持ちつつ真っ向から対立し、葛原を挟み撃ちの状態にしていた。方法論の確立を急ぐ塚本にとっては、3の歌に見えるような私生活のデータの名残は口惜しいものとして映り、また、反対に言葉の空転を恐れる評者にとっては、そのきらびやかさ、貪婪さは<抑制>を要求したくなる危ういものとして映った。こうした相反する二つの評価の間で葛原は何を育みつつあったのだろうか。
ここで改めてこれらの歌を読んでみると、一見すると冷たい響きを帯びて趣味的に配置されているようにも思われる言葉は、あるはるかな距離を隔て、世界を違えながらお互いに呼び合っていることに気づく。4や5の歌には、巨大な世界の生成の気配や、ゆっくりとした流動のなかで確かな存在感を得ている葡萄がある。葡萄はそれ自体単独で存在しているのではなく、そこはかとない大気の広がりや、妊婦とその胎内に宿る命との一瞬の重なりという関係によって存在感を得ているのである。むしろここでの葡萄は、空気や農婦との偶然の関わりを得ることによって初めて誕生したかのようであり、また空気や農婦も葡萄の存在との関係を得ることによって初めてその<うすらなる>ことに気づき、また、小暗くも力強い命の圧倒的な重量感を得る。
こうした、関係性によって初めて誕生する物の意味や真実の発見に葛原がいかに没頭していたかは、成功しているとは言えないものも含めて、1から3の歌にむしろよく見える。<茨の實>と<微粒のダイヤ>、人の命と<めがね>の呼応、ことに2の<たかはらの星>は<卓上の胡椒の壷>と出会うことによって初めて自らの光の意味を察したかのようである。
葛原はこうして素材を放恣に取り込んでいったが、そこには言葉を操る技術の冴えよりも、むしろ孤独な人間が一つ一つの素材を結び付け出会わせてゆく、祈りのような一途さが見えるように思う。6の葡萄の搾り汁に充ちた<タンク>によって喚起される<原不安>に見られるような感性は、常に不安定なところに宙づりになったまま自らを現わす言葉を貪婪に求め続けていたのではないだろうか。
中井英夫は、「現代の魔女」(『短歌』昭38・12)の中でこの「葡萄木立」一連について触れ、4の歌を「すべての作品を超えて美しい」と述べるなどして、「この世ならぬ非現実界へまで降り立って、逆に現実の意味を探ろうとした歌人」と葛原を絶賛している。「かつて梶井基次郎が一顆の檸檬の重さに『総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算し』た幸福感を感じたように、ここでの作者は虚空に吊された一房の葡萄に、手を当てても計量器でも計り得ない無限の虚無感を抱いている。何の故の絶望か、おそらく物質の根源に逐に手触れ得ない疎外感を籠めてのことであろうけれども」と評した。ここで中井は視線を葡萄に集中して、その新しい圧倒的な存在感に注目している。
<虚無感>や<絶望>は、葛原の反現世的なエネルギーを讃える中井らしい反語であるとしても、しかし、果たして葡萄は<虚空に吊るされ>ているのだろうか。梶井の檸檬が青年のアンニュイを映す書籍の重なりの上に置かれることによって力と輝きを得たように、葛原の葡萄はその淡さを感じとるほどに空気と密な関係にあることによって限りない重たさを得たのではないかと思うのだ。
中井の読みでは葡萄の存在感とそれゆえの孤独が強調されるが、私は背景との関係性に注目したいと思う。この葡萄は微かに呼吸しており、その生命感のゆえに尋常でない重たさを獲得しているのではないだろうか。この作品が書かれたころ、すでに葛原は『原牛』の出版準備に入っていたと考えられ、「原牛」一連を含むその主な作品はすでに発表されている。評価の高かったこの歌集を形づくる作品の後にあってもなお葛原が生活と幻想との板挟み状態にあったことは興味深い。そしてその二極分化のただなかで、葛原が物と物との出会いとその関係性が創り出す宇宙に新たな命の輝きを見いだしていたことはもう一度考えておきたいことなのだ。
また、塚本邦雄は、この評に先だつ昭和三十八年九月号の『短歌』月評で、
ゆふぐれに何を泣くこどもよ汝が涙汝を抱ける父に溢れぬ
部屋をあゆむたちどまるよりさびしきに硝子に透きてビルの裏みゆ
椅子にしてわが思ふべく夏の山晶やかにして迷路に充つ
裏海の波みゆるところ廃坑の奥ふかく尽きし銀の脈あり
などの含まれる「市街」、「銀」のふたつの連作(『葡萄木立』所収)を対象として、「彼女の異次元の感覚は、そこへ自らを運ぶのではなく、日常の次元にそれらをひきずりこむ、執拗でひややかな悪の感覚である。見えないものを視ようとするのではなく、見てはならぬものを視てしまったのだ」と、その独特の感覚に賛辞をおくり、高く評価している。こうした評価は、当時のいわゆる<リアリズム万能論者>から葛原を擁護する大きな力であり、またその感覚が単に感覚にとどまらぬ力と深さとを持つことを広く知らせてその可能性を開いていったが、しかし、他方ではその読みの勢いのゆえに、葛原の歌に、ある絶対性、神秘性を過剰に付加していったようにも思う。さらに葛原を<見てはならぬものを視てしまった><魔女>と呼び讃えるとき、その作品の背後に動いている世界のどこかにつながりたいと願うような切ない裸の視線は受けとめられにくいものになったのではないだろうか。
例えば、一首目の、幼い子どもの柔らかく悲しい存在感や、父親という存在との不安定な、しかし思いがけないつながりの発見などは印象的である。この歌が収められる一連(『葡萄木立』所収)には、
父が與ふる匙をとり落すをさなごよ汝は掴まむとこころみながら
をさなごの指を洩れゐるものあまた花絡のごときもの星のごときもの
などの歌も見え、妙子は嬰児をみつめるもう一人の嬰児となるまでその感性を解いている。そしてここには、子育ての経験的な感触が微かに尾を引いていると感じさせるものがある(上田三四二は、「葛原妙子論」(『短歌』昭34・5)のなかで<母性>という観点を提出しているが、これについては改めて触れる必要があると思う)。硬質な文体のマスクのしたには存在への畏怖とともに、事物へ寄せる幼児のような原初的ななつかしみの感情が動いている。人間を含む、この世界の存在のすべてがそれ単独では意味を持ち得ず、常になにかを呼び続ける未完成であることがくどいほどこれらの歌には刻まれていると思う。
かつて「魔女不在」のなかでその私生活の痕跡のゆえに口惜しいとされた葛原は、確かに「市街」や「銀」においてはイメージを縦糸とした方法意識を鮮明にしている。しかし葛原の歌には、ブキッシュに見えながら素材に寄せる経験的な感覚が生きており、言葉の綺羅の内に丸裸の視線を宿して、それは時にはあまりにも無防備でさえある。葛原は、その方法を危ぶむ側と絶賛する側とに常に挟まれながら、結果的には<魔女>や<幻視の女王>というイメージに回収されていったと言えるだろう。しかし<魔女>は尋常でない力を持つものであったとしても人間ではない。人間ならぬものの透視力への賛嘆は葛原をより方法的、感覚的な面で磨きあげていったが、反面、人間の女ゆえの感性や哀しみを読み残していったかもしれないと思う。
葛原を、その出発に遡って考えるとき、そこにはいろいろな顔が見えてくる。
乾燥野菜木屑のごとくちりぼひぬ嚴かならむ冬に入るとて
乾燥野菜木屑のごとくちりぼひぬおのもおのもに影もつときを(改)
甘え寄るこころのよりど火の山もみ雪積れば威嚴にか似る
あくがるる山となりたり火の山にみ雪積るは威嚴にか似る(改)
夜の葡萄唇にふれつつ思ふことおほかたは世に祕すべくあるらし
ぶだう唇にふれつつ思ふことおほかたは世に祕すべくあるらし(改)
『燈黄』は昭和四十九年刊の『葛原妙子歌集』(三一書房)に収められる際、葛原自身によっておびただしく筆が加えられ再編集されており、ことに後半は照会が難しいほど作品の編成が変わっている。この、出発から二十年以上を隔てての改作には葛原の作歌意識の変化が明らかに見えるように思う。<乾燥野菜>の歌では、改作後の野菜屑はより厳しい孤独な存在として表現されるが、原作では季節の厳しい威厳に晒されながらもそれを受け入れていこうとする、自然へのおおらかな信頼が働いている。<火の山>の改作前の歌にはそうした大きなものとの信頼関係がさらに明らかに見えるが、ここでは作者の主観がより抑えられ、山の姿の描写に置き換えることによってその甘やかさを削っている。この浅間山を歌った雪山のテーマは、後に『葡萄木立』で蔵王へと対象を変えながら追求され、
みちのくの岩座の王なる藏王よ盲となりて吹雪きつ
という鮮やかな映像と内面を併せもつ歌へと実っていったと考えられる。しかしここで印象的なのは、初期の葛原が外界への非常に素直な親和感を持っていたことであり、後年それを意識的に削っていることである。これは単なる技術上の改作ではなく、作意そのものの変更である。オリジナルが、戦争中の、生死を危ぶみながらの厳しい疎開生活の中で書かれたことを考えると、大いなるものへのこうした心寄せが必ずしも単純な甘さでないことは明らかである。それを削らずにいられない妙子の歩みには、技術上の稚拙を嫌ったという以上に、彼女が自らに課した掟のようなものさえ見えるように思う。蔵王の歌がなにか壮絶な美しさを持つのは、底に流れる自然への信頼や畏怖と、それを厳しく抑えようとする作歌意識とが五分五分の力で均衡を保っているためであり、そうした交流を削る改作を施された歌は、どこか生命感に乏しい。
葡萄の歌では<夜の葡萄>が、<ぶだう>に改められており、おそらく葡萄の色も黒から青に変わったのではないかと思われる。葡萄の種類が変わることによって、<祕すべ>きことの内容もかなり異なったものになる。この歌は原作では、<致死量の目盛りを示し夫の瞳瞋りのごとくはげしかりにし>など、死を覚悟した敗戦の日を回想する一連に置かれている。この場合は、<夜の>という言葉の平凡さを嫌ったための改作であるとも考えられるが、さらに踏み込むならば、一連の状況を伝える歌と重なって<夜>が醸し出す詠嘆的な調子を、<>の詩的な透明感のあるイメージの広がりに置き換える操作であるともいえよう。
菱川善夫は「現代短歌論のための葛原妙子論」(『日本文学』昭46・5)のなかで、全体としては塚本の葛原論に沿いながら、「だが葛原の世界は、まず徹底して現実を生き、現実に在ることによって、生命を縛るものを超えようとする感受に根ざしている」と指摘している。『燈黄』の世界にはそうした葛原の現実との格闘がよく見えるのであり、改作ではそうした格闘を感じさせる部分が意識的に削られている。しかし、後に葛原が嫌った「現実を生きた」部分は代表作を生んでいくことになる象徴的な手法の歌に厚みを加えるものとして忘れがたい。
奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり
この歌の収められていた一連も、後年の加筆、再編集によってそのかたちをかなり変えている。一連の中にあった<女孤りものをげむとするのきりきりとかなしかなしくて身悶ゆ>の一首も削られている。子どもを持つことの重たい切なさと、軽やかに走り去ってゆく馬との美しい対比がこうした直情の背景を持つことは、葛原が唐突に幻想性や象徴性にたどり着いたのでないことを証していよう。さらにそこに、
長き髪ひきずるごとく貨車ゆきぬ渡橋をくぐりなほもゆくべし
『飛行』
うたびとは蹌踉たりしさうらうとしづけきをゆるせしぞむかし
『原牛』
と、後年の作品を重ねて読むとき、葛原が常になにか重たいものをひきずりながら詩的な世界を願い続けていたことが分かるように思う。そしてそれは、歌集が重なるほどに混沌とした悲しみとなってゆく。
「再び女人の歌を閉塞するもの」で葛原が強調していたのは、戦後の女性が内面の真実を表現する術を得つつあるのだという自負であり、また、それが正しく理解される評論の土台が出来ていないということであった。この時期の葛原の歩みを振り返ってみると、自らの抱えたものを現す空間を模索し苦闘する道程がよく見える。論によって磨かれ、揉まれていったこの時期に葛原が求めていたのは何より自らの感性や情緒を解放し、タブーを超えてゆく道であって、葛原自身がそれをがんじがらめの女性像からの解放だと強く信じていたことが、この論文からよく窺える。その意味では、葛原の<幻視>はむしろ<告白>に近いと言えよう。しばしば『燈黄』から『飛行』への歩みは、現実から<幻視>への飛躍のように語られるが、それはそんなふうに唐突なものではない。華麗に見える葛原の言葉の一つ一つは、現実の重石のような悲しみをよろめきつつ幻想との間に移し植える、遅々とした作業であって、今日の言葉へのアプローチから見ればむしろとても不器用に見える。そうした放恣と抑圧のせめぎあうはざまに生まれた幻想世界にはまぎれなく葛原の戦後女性の一人としての出発が刻まれており、それを抜きにして<幻視>の意味は語れない。