世界をあばく感官

— 梅内美華子「若月祭」書評 —

「かりん」00.4

 

 ちょっと目を閉じて自分のことを考えてみる。自分が今どこにいるのか、何者なのか、世界はどのように自分の周りで蠢いているのか、たぶん表現するということはそんなことを感受することとそう遠くない。自分の皮膚の外に世界が広がっていて、その皮膚一枚で自らの混沌とめぐりの混沌が分かたれているということの不思議。様々なもの、価値や規範や予定のようなものが見えなくなって自らを囲む外界の意味が溶解していくとき、この皮膚一枚の境界はとても重要になる。自らの感官や感性を集中し、そこにこそ次の時代の世界の姿を見いだしうるような最前線として。

 

 ティーバッグのもめんの糸を引き上げてこそばゆくなるゆうぐれの耳

 

 『若月祭』のなかでこの歌はやはり感覚の冴えで目立つ一首だろう。耳の、ことにも柔らかい皮膚の感覚が一首全体を息づかせている。湯の中にそよぐティーバックの糸、引き上げると茶葉の重みでピンと張る木綿の糸が皮膚感覚を刺激している。一見脈絡ない感覚的な取り合わせの歌に見えるがそうではない。ティーバッグの糸、しかもそれが木綿の糸であることへの気づきが示すのは、感官の息づきであり、どこか全身の感覚を伴った鋭敏さであろう。目覚めているのは皮膚だけではなく五感や知性すべてであって、神経質なトリビアリズムではない。ここにこれほど敏感に外界を感じようとする言葉の主がいる、その言挙げが背後に滲むことによって世界が有機的な、手触りのあるものに変わりはじめるのだ。

 この歌を見たとき河野裕子の次の歌を思い出した。

 

 ももいろの封筒の角ちろちろと猫の舌ほどしめしてゐたり

 『森のやうに獣のやうに』河野裕子

 

 かつて河野裕子が、『森のやうに獣のやうに』で登場したとき、読者は河野の全身の感官を開いて世界を感受するような言葉とその新しさに驚いた。それは体の感覚、人の原初的な力をもって既存の言葉を揺さぶる力を持っていた。この歌においても微細でトリビアルな場面、封筒を閉じるという何気ない場面に集約的に現れている。それは舌先の濡れた感触に思わずあらわれた命の感じ、世界に反応する全身性である。河野の場合、この全身は太古や原初のようなさらに大きな命の循環の枠組みへの深い信頼を引き連れていた。この歌の場合も猫という獣が人の身体を感覚器に昇華するためのバネとして働いており、自在にそうした獣の体を潜ることによって身体はより活性化している。河野のこうした感覚がもった意味は、どこかで言葉を意味や比喩の重層性から解き放ち肉体と直結することによって世界の全体性を掴み直すところにあったと言えるのではないか。

 梅内の特徴を考えるとき、河野と異なるのはどこか命の循環などの全体性をあきらめたところから出発せざるを得ない、もっと見えにくい世界に向かって感官を開かざるをえないという時代の宿題をかかえていることだろうか。身体感覚そのものについて言えばさらに鋭敏でありニュアンスは複雑である。だが、そうした表現が言葉で覆われ意味で汚される以前の世界に向かっている点では共通しており、それゆえ身体の感覚は時に痛ましい深さで身の巡りの世界を露わにする。

 

 風立ちてマロニエとわれをあばくときじっと動かぬ皇居の森は

 

 この歌に、例えば天皇制の問題などをすぐに結びつけるのは間違いだ。梅内はそのような記号化された世界へのメッセージを信じていないし、そこから抜け落ちてしまうものにこそ本当の手応えを感じている。風が吹き抜けて木々や衣服やいろんなものをはためかせ捲ってゆく。<皇居>や<われ>などはあっけなく風に捲られその存在をあばかれてしまうのに、皇居を包む森は風を寄せ付けない。むっつりと厚く何事かを覆い続けている。<あばく>という言葉の直接性が強く全体に働きかけ、あばかれるものを持つ何かと持たない何かが鮮やかに峻別される。現代の皇居の森とはそのような不可思議な存在感で私たちを拒んでいるのではないか。そこには天皇制が言葉で云々される以前の直感的な何かが迫り出している。河野において身体感覚は世界への信頼回復のエネルギーであったが、梅内においては世界を覆う表層を剥がすエネルギーである。さながら梅内にとって詠うことは何かを<あばく>ことであるかのように。

 そのような梅内の歌の質が活きた例として「チェンマイの夜」の一連は不思議な手応えを感じさせる。

 

 外側とはやすらけき位置バンコクの中央駅に疲れうごめく

 

 オフコースが民謡にきこえるチェンマイの薄ら笑いの夜は輝く

 

 性欲を呼び覚ます暑さアユタヤの焦げし遺跡に手を触れてゆく

 

 食用ガエル皮剥がされて積まれいるそこに照るもの光と呼ぶか

 

 このタイ旅行の一連は、例えば観光という言葉が示すような見ることに終始してゆく限定感がない。目、耳、皮膚などの感覚器がフルに活動しているのは一見して分かるが、その底に官能と言っていいより深い感覚が働いているのが印象的だ。旅人としての違和感が、まるで異性への違和のように活性化し息づいている。生命感とアンニュイのない交ぜになった濃い空気が満ち、その空気の隅々に作者の気配がある。これは確かに旅行詠には違いないのだが、タイという異国にもっと深くめり込んでその表層を剥がしてゆくかのような手際が新鮮だ。

 一首め、バンコクの駅で感じ取られる<外側とはやすらけき位置>、この告白に大人びた疲れを感じるのは私だけだろうか。<外側>はつまり旅人としてその社会の外にいるという意味であろう。その位置が安らかで心地よいのは旅する人間なら誰もが感じることだ。しかし、私にはこの歌が何かもっと切実な響きを帯びているように感じられる。一般的な旅人としての安らぎや華やぎの気分であるよりは、もっと内面的なものの滲んだ告白に見えるのだ。<外側>の反対は<内側>だが、このフレーズが暗示するのは内側にいることの不安でもあるのではないか。駅の雑踏、流れる異国の人波はそのなかにいる人々の疲れと不安を映し出す。しかし自分が外国人であることでそうした疲れや不安から放たれているかというとそうではない。外側から見る異国のこの風景はまさに自分が日本という内側にあったときの姿を映す鏡として自身の不安や疲れを見せているのではないか。そういう意味ではこの一連は、異国を見るのではなく、自らの内部を見る旅になっていると思われるのだ。

 その感覚は、二首目以降の歌にいよいよ強い。二首目、土地の民謡かと思われた音楽が実は聞き慣れた自国のポピュラーであったというのである。どこか怪しく切ない異国の夜の華やぎの中でじんわりと自分の住んできた世界が裏返るような感覚がこの歌にはある。また三首目、アユタヤは、かつて日本人街などもあった場所である。この歌がそうした歴史的事実を背景にしているとは思われないが、暑さの中で焼け残ったかあるいは熱く焼けついた遺跡がまるでなつかしさを呼び覚ますように性欲を呼び覚ますというのである。眠る遺跡と眠る身体が触れあうことでともに蘇る。そこには直接に何の関わりもない。しかしそれゆえに新しい内面としての身体が発見される契機となっている。そして四首め、私はこの歌を一連の中で最もインパクトのある歌として記憶している。素材としての食用蛙は、アジアの街角の風物として特に珍しいものではない。しかしこの歌が忘れられない強さを持つのは、皮を剥がれた蛙をみている梅内自身がまるで体表を覆っていたものを剥がれてでもいるかのようにどきどきと鋭敏になっているからだ。ごく表面的には蛙を食べる食文化への違和感の歌に見えるし、切っ掛けはそんなところにあっただろう。しかし、この歌は蛙の肉の照りが自らの赤裸を照らすかのような接近によって、異文化という表面的な違和が無意味になっている。蛙も蛙に象徴される異文化も皮を剥がされているのであり、ついでに異邦人の作者も表面的なものを失って裸同士が向き合っている。だから、そこにあるものを光と呼ぼうが闇と呼ぼうが身体感覚は言葉を越えて剥かれた蛙に及び文化の内面に及ぶ力を湛えている。

 梅内のこうした身体感覚、ことにも鋭敏に五感に集中してゆく表現は個性でもあるがそれだけではない。九十年代を修辞と言葉の勝った時代だったとすると、今はその後を睨みつつ言葉の背後のさらに信じられるものを模索している時期だと言えよう。梅内はその後の世代として、価値の流動する今をより確かにごまかさずに掴む方法を無意識に手に入れようとしている。振り返ってみれば体の感覚は、またしばらく置き忘れられてきたものだったかもしれない。梅内のそれは、じんわりと崩れてゆく世界の輪郭に沿いながら、それが温かいか冷たいか、痛いか柔らかいか、そんなことを言葉に昇華してゆく作業にも見えるのだ。実に難度の高い技であるが、しかしそれこそは梅内が女性であるからこそ無意識に選び取った最良の方法であるかもしれない。

 それはこんな恋愛の歌にも反映している。

 

 ふと君を思い出すとき象の背に乗りていること婚姻のごとし

 

 ざぶん、ざぶん雨宿りするいっときも君を思えば揺り返される

 

 わが首に咬みつくように哭く君をおどろきながら幹になりゆく

 

 

 これらの歌では従来の女性男性という枠組みが見えなくなっている。それは例えばフェミニズムを意識したボーダレスとも異なっており、実に自然に全身の感覚に昇華されている。例えば一首め、大きく豊かな獣の背中に揺られるように婚姻が安心できるものとして考えられているわけではない。むしろ逆に婚姻自体は作者の中であらかじめ形のないものなのだ。象の背に揺られながらイメージするのは温かくゆっくりとどこかへ行く感じ、君への思いが連れてくるのはそのような感覚であり、それをふと婚姻と名付けてみたと言った方が正しいだろう。二首目の波のような韻律は、ごく自然に体を溢れた感じがある。この海のイメージは比喩であるより以前のものであり、君への思いによって触発され溢れてきたリズムのように見える。三首目には感覚で捉えられた相手の存在がよりはっきりと表現されている。相手の心が身体となって唐突に自分を掴まえる。その身体感覚が<咬みつくように>という表現を選ばせている。

 こうした対象の捉え方、そしてこれまで見てきたような世界との関わり方は、一方では自閉と隣り合わせであることも否めない。他者を見失いながら全てを自らの感覚に取り込み翻訳してゆく作業、短歌がしばしば陥るそうした危険から梅内が逃れているのは自分の位置と在処を見失わないことによる。梅内の歌に初期から通底しており、『ゼブラゾーン』においてその歌を年齢以上に大人のものにしたそうした特徴も確認しておくべきだろう。

 

 夏の風キリンの首を降りてきて誰からも遠くいたき昼なり

 

 黙秘する意志のなかなる官能を台北行きの列車に思う

 

 月の窓訳のわからぬさみしさのやって来たれば目を開けておく

 

 

 一首めの爽やかな孤独感、自分を育てるために欲する健康な孤独への希望のようなものは、第一歌集の世界に最もよく現れたものだった。『若月祭』に加わったのは二首目、三首目のような自己確認だろう。台湾の鉄道、おそらく下級客室の喧噪の中でじっと黙って自分を堪えている。黙秘の意志を官能が支えるという連想は唐突だが実に鮮明に自己に内向してゆく時の心の輪郭を捉えている。黙秘、言葉を殺すとき例えば官能のような感覚として自己が鮮やかであること、それは逆に言えば世界への違和をこのような形で表現しうるということでもある。三首目の<目を開けておく>態度とどこか共通した芯の強い自己意識がさせた発見だと言えよう。こうした歌は輪郭を喪失したかのような世界や他者への向きかたとは対称的に、より知的な鮮明さを伴っている。この自己把握のつよさが梅内の感覚の繁茂を根本で束ね、感覚に終わらない何かを生み出していると言えるだろう。

 もし、『若月祭』を注意深く読むなら、九十年代以後おそらく最も新しい表現の方向が示されていることに気づくだろう。そこには身体感覚という世界把握の方法が息づいており、輪郭を失いつつある世界に潜り、沿って捉え、また暴いてみせている。その最も深いところに官能を伴ったエネルギーが隠されていることは見逃せない。