小守有里歌集『こいびと』書評

— 希望の印としての恋人 —

「ミューズ」

 

恋の終わりはいつなのだろう。小守はその終わりを水平線の彼方まで延期することで妻となり母親となった後のみずみずしい世界を開いている。

 

 

 合歓の花ひそひそ咲いてわが身体しいんと温い水を張りゆく

 

 君のこころ巻き絞めていく蔦のように六月を白い妊婦となって

 

 水仙のつぼみ叩いて雨の降るいちがつわれは青い裂け目持つ

 

 きさらぎの水を叩きに行く子どもとりどりの靴光らせながら

 

 

 これらの歌は、かつてなら青春歌と呼ばれただろう鮮度の良さ、透明感だ。妻となり、母となるということがかつての重い物語を脱いだとき、乙女の感受性はそのままこんこんと太ってゆく。妻としての屈折した愛の襞や、母となる不安や重圧から無縁なこれらの言葉は、まるで熱帯の植物群のなかの一本のように健やかだ。しかし、よく見てみると、細やかで緊張感ある言葉の構成の裡にこの世界に確かに存在しているという感触を刻んでいる。水を満たしつつある身体の感触や、「君のこころ巻き絞めて」いく妊婦である自分の不思議な生命感。第一歌集の時より、注意深く、そして確実に自らの在処が確かめられている。小守は違和感を介して世界を認識するタイプではなく、限りない親和感によって世界を感知してゆくタイプだ。「青い裂け目」は、それゆえ、傷口ではなく、植物が持つひとつの器官のように時を得て自然に世界に向かって開いてゆくスリットだ。例えば出産もそうした自然への親和の契機であったろう。「青い裂け目」は自らの肉体が世界に向かって開かれた記憶として備わり、消えることがない。

 

 わたしから放たれる言葉かぎ括弧に括らなければ区別されない

 

 つまさきに静電気帯び朝礼でうたった国歌春の君が代

 

 そして例えばこのような歌にはどのような時代に生きているのかという感触が表明されているだろう。性急な肯定や否定をひとまず置き、言葉を研ぎ澄まして感じること。自らと他者、違和と親和などがより見えにくく、生きにくい時代は、小守にとって細やかな命の歓びを見いだしてゆくべき世界である。「こいびと」は、水平線の彼方で世界を歓ぶための言葉を待つ切ない希望の印であろう。