大口玲子論

— 意志持つ木々への恋歌 —

「短歌往来」

 

 大口玲子の歌の芯となるものは何だろう。国際感覚とか、民族や国家といった大柄な主題など、目立ちやすい部分に覆われがちだが、私は大口が抱く人間や世界に対する純粋で健康な愛を抜きにはその歌を語れないと感じている。それは、例えば一対一の男女の愛のような限定されてゆくものではなく、もっと大らかに人に対して世界に対して開けてゆく予感に裏打ちされたものである。

 

 唐突に眼鏡はづして我を見る君は樹木の視座を持つ人

 

 足裏の皮を「?ヒレだあ」と言ひ食つてみせたる男はよけれ

 

 おそらく君に騙すつもりは無けれども耳の裏まできつね色なり

 

 心の緒とぎれとぎれに語りくるる合間にしやんと鈴を鳴らせり

 

 これらの歌から透けるのは、恋に踏み出す前の心楽しい<ながめ>の視線である。あるいはここで対象になっているのは異性ではないかも知れない。一首目や三首めが女友達であっても少しもおかしくない。自分の心に触れてくる対象をつくづくとながめ、粉飾なしに肯定してゆく大らかさが基調となって、恋というある意味での情緒の型をはみだしている。例えば二首目など、異性に対してこれほど構えのない表現は新しいのではなかろうか。結句の<よけれ>は何とも朴訥な納めかただが、また同時にこのそっけないような肯定によって女友達の前でふざけてみせる男の含羞も浮かび上がってくる。三首めも、あらかじめ相手の嘘を呑み、心を寄せているのだ。呑んでしまう気負いでもなく、分析する犀利さからも遠い。そこにいる人物の心の裸を裸の視線が捉えるのである。そして四首目。<しゃんと鈴を鳴ら>すのは相手だろうか自分だろうか。おそらく自分のほうだろう。相手を励ますように心の鈴を振る<私>。これら全ての歌の<私>は、あらかじめ自立している。抵抗なく宙に浮いているのではなく、躍起になって自立を宣言しているのでもない。例えば樹木が初めから世界に一人ですっくりと立つような自立。この自立の感覚において、大口は確実に新しい世代を感じさせるのだ。

 

 名を呼ばれ「はい」と答ふる学生のそれぞれの母語の梢が匂ふ

 

 納豆を毎日欠かさず食ふことはトーマス、君の矜持と思ふ

 

 学生も我も見上ぐるはつ夏の漢字系統樹さやげる部分

 

 簡潔で荒々しくて率直なナショナリズムの夕立が来る

 

 これら、〈海量〉を特徴づける日本語学校を背景とする歌は、民族や国家といった主題の大きさによって目新しいのではない。歌を詠む<私>がすっきりと自らの足で立つ自立を知っているからこそ、同じように自立する<それぞれの母語>を感じとれるのだ。<私>がこの言葉によって立つようにそれぞれのの言葉によって立つ学生たち。そして世界。先の異性に向けた視線と同じ視線がここでも注がれていることに気がつく。自らが意志を持つように相手が意志を持つことを認めるときに始まる明るい心動きのようなもの。それはまるで原生林のように健康で率直で、何よりそれぞれがすっくりと自らの力で立つ力強く風通しの良い世界への予感である。エピグラフ、「意志持つ木々に」とは、この歌集がそんな木々への恋歌であることを告げている。