紀野恵論

— 空白への怖れ —

「ミューズ」

 

『LaVacanza』書評

私たちの言葉は今どこに向けて漂っているのか、そんな不安や懐疑に対して紀野恵はかなり明確なスタンスを見せ続けている。

 

 つめたくもなくぬくくなくくくめるはくるしくもなくくくや山鳥

 

 考へぬ。世紀さいごの数秒にいふさよならのいくつ耀く

 

 ねむらむとして散りゆくは何んの花しらしら知らに風に捲かれて

 

 この驚くほど透明な感情や視線を私は怖いと思ってしまう。この人はこのように世界を知ってはいけないのではないか、そんな気がしてしまう。紀野は歌がどこにも向かっておらず、ずっと以前に近代という船を降りていることや、言葉がつきつめれば人間にではなく美に奉仕するものだということをはるか昔に知っている。そんな気がする。

 私はモーツアルトがどうも苦手だ。うまく言えないのだが少しだけ理由をつけてみると、たぶん、あまりに洗練され、また、あまりに軽々とその才の踊るのについていけなくなってしまうのかもしれない。紀野の歌を読みながら同じような取り残された感覚を味わうことがある。そんな時、この作家がもしあとほんの少し愚かであったなら、と思う。蒙昧な情熱や、頑固な希望やら、諦め方のわからぬ苛立ちや、そんなものに掻き立てられて発散するであろう体温や体臭、ひいてはこの世界への手触りのようなものを恋しく思う。

 世界に対する諦めの美しさ、澄んだ知性、洗練された遊びの感覚はこの歌集にいよいよ明らかであり、全体は室内楽のように美しい。だが、私にとってやはり遠いのだ。

 少し親しい表情を見せてくれるのは例えばこんな歌である。

 

 金柑の枝水差しに重りゆく十一月は吾に重りゆく

 

 枝分かれしてゆく木々の心持雨止むまでを駅に待ちをり

 

 こうした歌に見える、言葉を御す意思のようなものに手触りを感じて立ち止まる。紀野恵の世界がひとつの王国であるとして、パスポートなしに読める歌だ。ただし、こうした歌でこの歌集を理解したことにはならないのだろう。LaVacanzaは、バケーションであり、また、空白でもある。紀野の示すこの空白が私は怖い。