棕櫚の実

 

欲しい、という感覚をあれほど強く持ったのはあれが初めてだったろう。廃校になった小学校の校庭に、棕櫚の木が一本植わっていて、ある時それが実をつけた。古い木造の校舎はもうすぐ壊されることになっていて、広い校庭は近所に棲むわたしたち子供のものだった。棕櫚の木は気付かぬほど昔からずっとそこに立っていて、古い校舎のある風景に溶け込んでいた。わたしたちはその木をそのとき初めて「発見」してつくづくと見上げたのだった。

 棕櫚は南国から迷い込んだまま途方に暮れているような木だ。仕方なさそうにまっすぐ伸び、先端に破れた傘に似た葉をつけている。だれかがあそこに実がある、と幾本も突き立てられた破れ傘の根元あたりを指さした。五月の木洩れ日が強すぎてみんな目を細めた。そう、あった。光に目が慣れてくると、幹を覆っている茶色の樹皮の間から金色の角のような実が覗いているのが見えた。すげえ、と歓声が上がる。どこどこ、とせがむ声が寄ってくる。子供たちは貧相で味気ない棕櫚の木が隠していた秘密を知らされてときめいた。

 だれかが上級生を呼んできた。日焼けした肌から鉄棒を握りしめた時のような匂いをさせている少年は、何も言わずゴム草履を脱ぐと、棕櫚の木を登り始めた。私たちはいっそうぎっしりと木を囲み、少年の動きを見守った。少年の手が金色の角に届きかけると、私たちの歓喜は頂点に達し、がんばあれ、がんばあれ、と声を揃えた。少年は金色の実を一つ、もぎ取ると、口にくわえて用心深く木を降りた。降りる最後の瞬間、彼はぴょん、と跳躍し、草履を掴むとそのまま子供たちの群れから走り去った、あっという間だった。

 少年を追いかける者、自分も登ろうとする者、子供達の群れはちりぢりになって金色の実を追いかけた。泣き出す者もいた。棕櫚の実はいまや世界中の何より素晴らしいものになっていた。残った実に石を投げつけて落とそう、と言う者もいた。私も石を投げ続けたが不思議なくらい一度も当たらなかった。私は一度だけあの実に触れたかった。誰かが、神様、お願い、と言って投げた石が当たった。実はびくともしなかった。鉄棒の匂いの少年がどこかであの実の金色の皮を剥がしているのだと思うと彼が英雄に思えた。あの実の重たさや、感触を手に出来るならどんなことでもしたいと思った。残った金色の角は柔らかな湿った秘密を秘めて木洩れ日のあわいにちらちらと見えているのだった。

 あれは何だったろう、と今も思う。手にした実をどうしようというのだったろう。むろん食べられるわけではない。皮を剥がして、中身を見てしまえばそれでお仕舞いのはずだった。ただどうしようもなく切なく、手が届かなかったのだ。あの時と似た感じを大人になって、味わったことがある。相手は棕櫚の実ではなく、人間の異性の姿をしていた。棕櫚の木は毎年五月に実を付け、そのたびごとに子供達に「発見」されてきたにちがいない。棕櫚の実の姿をしてありありと現れたエロスが、私には哀しかった。このうえなく平凡で、しかしこよなく唯一のものである性。目を閉じると今も少年の零した実のかけらが少し散らばっている。乳白色の粟粒のようだ。子供達の足下でそれは踏みつぶされていた。