少年Aシリーズその3

 

母の心は複雑だ。女心と秋の空どころじゃない。捻れよじれ絡まり合って何が何だか分からないくらいだ。まるで地底探検の最初の一日みたいじゃないかと思う。何しろ森の地中で絡まりあった樹の根をかきわけて進むんだから。あっちに引っかかったりこっちで方向を失ったり、真っ暗だし、途方に暮れる。エンジンも傷むし、修理費もかさむ。ジーゼルエンジンの排気ガスで森も汚れる。巨費を使ってモグラ一匹に勝てんのか、とか何とかエンジニア同士の喧嘩も始まる。え、と、何の話だったっけ。そう。母の心だ。

 何から話せばいいのやら。こういうときは単刀直入に言うのがいい。そう、息子が失恋したらしいのだ。正確には息子の弁当箱が、それはもう完全に失恋して帰ってきた。何を証拠に、と言われても、こういう事は直観でわかる。何にしろ息子の弁当箱と私は仲がいいのだから。 

 朝、気合いを入れて押し詰めたご飯にも、詰めすぎて潰れたおかずにも全く箸がついていない。それどころか包みを解いた気配さえない。脱力しながら私は私が作った弁当に再会する。朝、死にたてのホヤホヤだったシシャモは三匹並んで完全に死に、青々としていたブロッコリーは茶色く不機嫌になっていた。潰れた梅干しがご飯に沁み広がり、これ以上情けない食べ物は世の中にあるまいと思われた。どこの遺跡から掘り出された土器だってこの弁当よりはもう少し愛想がいい。どこか具合が悪いのか尋ねるより前に黙りこくった息子は姿を消し、世界中の誰からも愛されない手つかずの弁当と私が残った。

 皆が元気に弁当を広げている昼休みの校舎の隅で、少女から宣告を受ける息子の姿がありありと目に浮かぶ。「私たち、将来のために勉強に打ち込むべきじゃないかしら?」。俯いたままの息子が短く「ああ」、と言う。「そうよね、私たち初めからちょっと無理してたと思わない?」。「ああ」と言おうとする声が掠れる。「いいお友達でいてくれてありがとう」。息子は今度は返事をしない。校庭の彼方にサッカーゴールが光り、少女の顔を見ることの出来ない十八歳の少年はゴールポストを眩しそうに眺める。口がからからに渇き、言葉が出てこない。

 弁当食べるどころじゃない!と私は思う。この弁当箱がきれいに洗われて帰ってきた日だってあったじゃないか。ピンクのハートがついた爪楊枝が加わって返ってきた日だってあった。初物のサクランボを多めに入れてやったら種さえ残っていなかった。カラコロと嬉しそうな恋愛中の弁当箱を思い出すと、どっと寂しくなる。遠い日、少女の私に走った痛みの光りがつつつ、と身体を走り抜ける。私は弁当箱が可哀想で涙ぐむ。ゴミ箱に重たい中身をそっくり捨てると、ぼむ、と鈍い音がした。そう、私は間接的に失恋したのだった。