葛原妙子の戦後

明治記念総合歌会短歌講座 2008年5月6日

 

ただいま過分なご紹介をいただきました川野里子と申します。いま篠さんのほうからご紹介いただいて、あ、そうだな、そういえば、葛原についてずいぶん最初の頃から書いていたんだなということを改めて思い出しました。それにしては、ちっとも進歩していないというのも現実なので、きょうは本当にこうやってお話し申し上げるほどの内容があるのかどうか、はなはだ心許ないのですが、葛原の読者の一人として、こんなふうに読めるのではないかということの一端をお話しできたらと思います。
きょう演題となっております「葛原妙子の戦後」 ですが、後ろの演題のほうには「葛原妙子と」と善かれています。これは準備してくださった方の間違いでは全くありません。私の方で、だんだん準備していくうちに、「と」 ではなくて 「の」 のほうがいいかなと思いまして、レジュメのほうは 「葛原妙子の戦後」ということになってしまいました。全く私のわがままで、つい最近そのようになったのです。どうしてかというと、「葛原妙子と戦後」というふうに並べるとごく普通の戦後史との関わりを思います。しかし、ちょっと異色な戦後なのだ、戦後といっても普通の体験とは適う戦後なのだということがあるからなのです。葛原妙子はご存じの方は私などよりもよくご存じでおられるわけですが、どんな人だったかということを申し上げますと、まず明治四十年の生まれです。ですから、もし生きていたら、今年 (平成十九年) 百歳、生誕百年になるわけです。同じ年代だと、たとえば不思議なことですが、中原中也なんかが同じ年代になります。中原中也は私などには近代の詩人というイメージがあるのですが、葛原と同年代ということにあらためて驚きます。そういう、近代から現代へと橋渡しをするような位置に生まれた歌人です。三歳で家族を離れ福井県のおじさんのうちに預けられたりということもありましたし、生母を知らないという複雑な生い立ちをしています。ですが、おおむね非常に豊かで幸福な生酒を送った歌人だといっていいと思います。不幸で美人だったというと、ちょっと関心がわくのですが、けっこう幸福で、しかも絶世の美人というほどでもなかったということになりますと、ちょっと興味が引くのではないかと思うのですが、しかし、実に実に面白い歌人なわけです。歌人としての出発は、正確に出発したといえるのは第一歌集を出した四十三歳の時ということで、これまたたいへん遅咲きの歌人ということになります。葛原妙子が本当に歌人として出発したといえるのは昭和二十年、敗戦を契機にしてというらしい。これは何だか知らないけれども、彼女の中で何かが起こったらしい。それによって歌人として出発していくわけです。きょうはそのような葛原妙子が本格的に活動するよりちょっと前の歌をすこし見ながら、彼女の中に何が起こったのだろうか、そしてそれはどんなことであったのか、いまの私たちに何か関係のあることじやないかということを見ていけたらいいと思います。
まず一番の歌です。
柘榴一顆てのひらにあり吉祥の天女ささぐる宝珠のごとく
この歌は昭和十七年の 「潮音」 に載っている歌です。きょうここでの短歌大会で受賞された方もいますし、歌歴の長い方も多いと思いますが、一見して、これに批評を加えるなら、下の旬がちょっと弱いんじゃないでしょうかという批評がつくのではないかと思います。「吉祥の天女ささぐる宝珠のごとく」といったとたんにザクロが飾り物になってしまうというか、ちょっと美意識の勝った歌というか、美しく作ろうとした歌になってしまっているかもしれないと思われるのではないでしょうか。
その次の歌です。
越えきます碓氷よいかに草の穂に秋の灯をかかげてぞ待つ
これは昭和十九年の十一月号の 「潮音」 に載っています。「潮音」 は葛原が所属していた雑誌ですけれども、それに定期的に歌を発表していたわけです。そこに見える歌の一つとしてこういうのが出てきます。この歌はやはり、歌を詠み慣れた方々の目からすると、なにかしら不滴のある歌であろう。いい奥さんといえばいい奥さんなのでしょうけれども、ちょうどこの時葛原は、戦局が極まってきて浅間の山荘に疎開して、飢えや寒さで生の危機を感じるような厳しい冬を過ごしているわけですけれども、時々東京から日一那さんが訪ねてくる。その身を案じながら、「越えきます碓氷よいかに」といっているわけです。ちょっとポーズの勝った、いい奥さんすぎる歌といっていいかな。歌としてはおとなしすぎる歌。後年の葛原の歌から入った私などにとってみると、まさかこんな歌を葛原が作っているとは、というふうに驚いてしまう歌なのです。
ところが、その次の歌です。ここで戦争が終わるわけです。そして約一年余り、敗戦のごたごたのなかで歌を作れなかったりする期間がありますが、その後発表した歌が忽然と次のような歌になるわけです。
ソ聯参戦の二日ののちに夫が呉れしスコポラミン一〇C・C掌にあり
ちょうど終戦間際にソ連が参戦してきて、私の親などから聞いたところによりますと、ソ連兵から強姦されるとか、男はどこかに連れていかれるというふうなデマが流れたことがあったそうです。その事件がおそらく下敷きになっているのだと思います。旦那さんがやってきて、自害用の薬としてスコポラミンを渡す。その十CCが掌にあるというわけです。旦那さんからひどい目に遭うぐらいならば死になさいという志としてのスコポラミンを渡されたということが、家族の愛の歌に見えるかというと、とてもそう見えない。なんだか奇妙に浮いた感じのする居心地の悪い言葉として、「スコポラミン一〇C・C」 というのが心に残ってしまう歌になっている。
この歌を葛原はずいぶん心にかけていたようで、改作を加えているのです。㈫の歌です。読み上げてみます。「ソ聯参戦二日ののちに夫が呉れしナルコボン・スコポラミンの致死量」、「ナルコボン・スコポラミンの致死量」 というふうにさらにこの薬の奇妙な名前は拡大しています。これが正式名称なのかどうかわかりませんが、とにかくこの名前は不思議な響きを増している。葛原がどれほどこのスコポラミンという奇妙な薬、毒薬に興味をもっていたかがわかる歌です。
スコポラミンはいろいろなかたちで使われる薬なのだそうですが、一方で非常に古くから自害の薬として、とくに女性が用いる自害の薬として使われてきたようです。たとえばコロンビアのインディアンなんかで酋長が亡くなりますと、その奥さんとか奴隷たちが一緒にお墓に埋められるわけですが、そのときに騒がずに死んでもらうために飲ませる薬としてスコポラミンというのが与えられたということも、あったらしい。また、ちょっと嫌な話になりますが、女性を強姦するときにスコポラミンを打つらしい。そうすると、幻覚によってその記憶が消えるということがあるらしい。
どうも歴史的に女性の自害とかそういうこととかかわりの深い薬であるようです。葛原はどこかそぅいうことを下敷きにしていたのではないか。葛原の夫は外科医です。そしてまたお父さんも医者なのです。こういう薬の知識というのは間接的にもかなりあったのではないかと思われるわけです。その薬への関心、その奇妙なものへの関心というのが、この歌の中に際立って不安なかたちで残ってしまう。比べてみますと、「越えきます碓氷よいかに」というふうに夫を待った視線とは全く別の視線がここで生まれているわけです。ここにはまっすぐな夫の愛というふうな純一なものではなく、この自害を迫るものは誰かという問いも遠くに置きながら、これは何か、という問いが生まれているというふうにいえるのではないかと思います。
もう一首、今度は敗戦のときの実感なのですが、次の歌を読んでみたいと思います。
竹煮ぐさしらしら白き日を翻す異変といふはかくしづけきか
敗戦のときの歌というのはよく拝見することがあるのですが、とても晴れていて暑い日で、敗戦になったとたんに空が広かったという歌がずいぶんたくさん作られている気がします。そして、なにか静かになった。平和ってこんなものだろうかという狐につままれたような気分という歌があるわけですけれども、葛原はこれを「異変」というふうにいうのです。平和になったとは決して実感しない。異変というのはこのように静かなものなのだろうかと問い掛けるわけです。竹煮ぐさというのは背が高くて葉っぱの裏が白いので、凪が来るとヒラヒラ翻る。それがたぶん「しらしら白き日を翻す」 という言葉になるのだと思いますけれども、じや、戦争が終わって、敗戦になって平和になりましたというふうには到底感覚できない。感覚するのは何かしら異変が起こったというところなわけです。そのような戦後の異変を通して葛原がもう一度ザクロの歌をつくります。そうすると、次のような歌になっています。
とり落さば火焔とならむてのひらのひとつ柘棺の重みにし耐ふ
これを最初のザクロの歌と比較してみますと、その適いは明らかだと思うのです。ザクロそのものが炎となって、もし落としたならば、ここで燃え上がるだろうという想像は、決しておとなしいものではない。吉祥の天女が捧げている宝珠のような静かなものではなくて、ザクロに炎がこもり、危険なものになったような、そういう感じがありありとここに歌いこまれているわけです。これは一体何が起こったのかといいますと、そこに、私って何だろうかということのある重み。先ほどのスコポラミンの歌ですこしあらわれてきた、これは何だろうかという問いを通して、私とは何だろうかという問いがこのザクロにこもったというふうに言えるのではないかと思うのです。
葛原は先ほども申し上げましたように、戦中浅間の山荘で一冬を越したとはいっても、そこでの窮乏生酒は戦争を体験した方々、そして敗戦後生きた方々を通して見ると、とてもぜいたくなものであるかもしれない。大した体験、苦労話ではないと思うのです。その後も東京の家は、周りがみんな焼けた中でなぜか不思議に葛原の家は焼け残ったわけで、そのまま病院を再開できた。それもとても恵まれていただろうと思います。葛原にとってみて、戦争、そして戦後というのは無傷であったと思うわけです。その無傷であるということを、葛原はこんなふうに自分自身で語っています。『孤宴』というエッセイ集があるのですが、そこでこんなふうに書いています。「いま廃嘘の都会には無数の眉目なく姿のないものたちがさまよっていたが、まもなく彼らは永久に現れることのないものたちとなるだろう。戦いやんで、病なく、手も足も無傷であることの自覚、大胆にいうならば、戦争で一物も失うことのなかった私がそこにいた」。こんなふうに葛原は自分の戦争、そして戦後というものを自覚しているわけです。
この無傷の戦争体験、そして戦後体験を通して葛原がにわかに変貌したのはなぜなのだろうか。これは葛原を読むものだれにとってもとても大きな疑問です。一ついえるのは、葛原にとって戦争が終わるまでの時間がある意味で沈黙の時間であったかもしれないということを私は思うわけです。先ほどすこし申し上げましたように、葛原は四十三歳で出発したわけです。それまでの時間というのは、ある意味で習作の時間なのです。非常に長い長い習作の時間を過ごしている。自分の言葉で自分を表現するということに、ある意味で至らないままの時間をずっと過ごしてきた。それは、考えてみると、葛原だけの体験かといいますと、実はあの時代を生きたかなり多くの女性たちが共有した体験ではなかったろうかという気もするわけです。自分の言葉を得るということがどれほど大変であったか。そして、自分の言葉でものを言うことがなかなか遂げることのできない願望であったという時代を過ごしてきて、突如開けた何でも言える時代。そういうものに葛原が歯がみをするように自分というものを求めていったわけです。
葛原がどれほど戦後、気合を入れて歌壇に出ようとしたかということを感じさせるエピソードとして、女人短歌の発会式でしたか、現代歌人協会の発会式でしたか、そこに出るというので、ギユーギユーに帯を締めて気合を入れていったらしいのです。それで帯を締め過ぎて気を失ったという話がありますけれども、それぐらいすごく気合を入れていろいろな戦後の集まりに出かけていくことを通して、葛原はどんどん自覚を新たにしていったわけです。一人の作家の変貌というか、ある転機というものが、表現のほうが先なのか、それとも主題が先なのかというのは、とても興味深い問題だと思うのですが、葛原の場合はなんとか自分を表現したいという、主題のほうがわずかに先であったような気がします。そういうなかで生まれていくのが次のような歌なのです。六番の歌です。

 奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり

これはたいへん有名な歌です。葛原の家からほど遠くないところにある競馬場があったようですが、おりおりにそこに見に行くこともあったのではないでしょうか。競馬場の馬を見ているうちにさまぎまな事が思われてくる。母であることによって失ったもの。疾駆する馬のような輝やかしいもの。その中には叶わなかった恋や夢のようなものも含まれるかもしれません。それゆえに、「われのみが累々と子をもてりけり」という詠嘆が浮かんでくるわけです。もちろんかなりの数の人が子供をもつわけで、葛原だけではないのですが、なぜか葛原は 「われのみが」 という。しかし表現とは不思議なもので、逆に 「われのみが累々と子をもてりけり」といったときに、私だけではない、私を生んだ母、そしてそのまた母、そのまた母という連なりが見えてくる。その母たちがずっと黙ったまま子供を引き連れ、そして美しい馬の疾走を見送っているような映像が浮かんできます。ここにははっきりととり残されてゆく自分、そして母であることによって、口惜しく見送るしかなかった何かが描かれています。同時にそのように生きてきた女たちの歴史というものが問いとなって表われています。
この歌を作った頃からでしょうか、その前後からでしょうか、葛原はどうも家族の中でとても不和になっていく。あまりいい奥さんではなくなった。先ほどの灯をかかげて夫が来るのを待つというふうな奥さんではなくなる。夜昼逆転して、昼間寝て夜起きるという生活を送ってみたり、あるいはもともと若干タイプが適うご主人といよいよ剋齢が大きくなっていく。家族の中でだ独になっていく。しかし、葛原はいい奥さんをやろうと思えばずっとやれる素質を持ってです。長女である猪熊葉子さん、この方は、著名な児童文学者でおられますが、この方がを書いておられます。そのエッセイとかいろいろな話を何っていると、お裁縫もとても上そうですし、お料理も上手だったそうです。家庭内で新聞を発行したりして、家族とのコーションをとったこともあったようです。とてもいいお母さんだった。それが敗戦を機に歌を一生懸命やることを機にどんどん変わっていった。そのなかで生まれてきたのが、こののみが累々と子をもてりけり」という悔しみの詠嘆。そして、それが単に悔しみであるだ母であるとはどのようなことかという深い悔いを伴った問いとして形を結ぶわけです。
その次の歌です。
長き髪ひきずるごとく貨車ゆきぬ渡橋をくぐりなほもゆくべし
これは二冊目の歌集である『飛行』という歌集に収められているのですが、荷物を積んだい貨車が鉄橋をガタンガタン渡っていくのを見ながら、それが髪の毛を引きずるようだとい鉄橋をずっと渡っていく貨車を見ながら長い髪を連想するというのは、非常に特異な、の悪い連想だと思います。しかし、それがとてもありありと見えるような気もする。それにもゆくべし」 という言葉を付け加えたときに、ずるずるとどこまでも女たちの長い髪がこの貨車となって、また引きずられながら出てくるような、そんな奇妙な連想も読者はもつわけです。ここにもやはり女の長い髪の存在感の重さと女の歴史への問いが表われています。こういう感覚的な表現ですが、こういうものを葛原はこのころたいへん意識的に試みていた。このことを私は、大変面白く思っています。
この頃倉地与年子さんという同じ結社で先輩格にあたるお友達がいまして、その方はちょっと不幸な境遇にあったのですが、その人を別荘に招いたりしまして、一晩語り明かしたりする。その時どんな話がされたかということを葛原は書き留めています。自分の感覚というもの、たとえば貨車を長き髪と感じるような感覚、世界のいろいろなものが自分の感覚の延長であるというふうな感覚、そういうものがとても大事なんじゃないかという話を倉地さんと一緒にしているのです。非常に意識的に自分の身体の感覚を様々なものに投影していくという方法を試みているわけです。もう一つ、葛原が女であるとはどのようなことかを考えざるを得なくなった要因としてキリスト教との出会いといいますか、すれ違いといいますか、そういうものがあります。戦後まもなく、先ほども申し上げた猪熊菓子さん、あの方が大学に入学するのを機に受洗する。戦後まもなく洗礼を受けます。そのことに葛原は大いに反対したようです。けれども、娘はやはりキリスト教の信者になってしまう。そこで母と子の大きな敵賠が生まれてしまうわけです。母であるわけですけれども、娘は神の母、マリアの側に行ってしまう。一体、自分が母であるということは何なんだという問いを抱え込まざるをえない立場に立ってしまう。そのなかで非常に複雑な気持ちをもってキリスト教に対面するわけですが、そのなかで生まれたのが次の歌です。
マリヤの胸にくれなゐの乳頭を鮎じたるかなしみふかき檜を去りかねつ
「マリヤ」というのはあまり肉感的には描かれないものです。やはり神のお母さんですから。救い主のお母さんなので非常に美しく描かれますけれども、しかし決してセクシュアルには描かれない。ところが、ある画家がそれを描いたときにふとマリヤの胸に赤い乳首を描いてしまった。本当は肉感的であってはいけないもののなかにふと画家が点じたその紅。それが聖なるものをはみ出してくる肉とか性というもののやみがたい表れ、せりあがりとして見えてしまう。聖なるものであり性を禁じられている存在に付与された性はとても強い印象を与え、また性や肉をのがれ難い人間の悲しみを思わせます。それは、画家の悲しみであり、そのような聖母に其向かっている自分の悲しみでもあるかと思いますが、それゆえにその絵を去り難いというわけです。ここには決して信者としてではなく、一人の女としてマリアという女に向かう姿勢というものが生まれているような気がします。九番の歌もやはりキリスト教を契機としています。


 悲傷のはじまりとせむ若き母みどりごに乳ふふますること

若いお母さんが初めて子供に授乳するというのはとてもほほえましい温かい姿なわけですけれども、葛原はそれを「悲傷のはじまりとせむ」というわけです。悲しみや傷を負うことの始まりであると見る。それは、ごく始まりとしてはキリストの受難というものがあると思うのです。生まれたとたんに十字架を背負う運命にある子供を生んでしまった母。そして、その母の乳を吸うあどけない子供。その幸福なはずの風景の向こうに不幸が見えている。それがきっかけとして、人類の運命へと思いは広がっていくわけです。そうすると、一人ひとりの母親たちが子供に乳を含ませるということは、考えてみれば、それが悲傷のはじまりというふうにもいえるのではないか。そんなふうに葛原が見たとき、それは自分だけの悲傷ではなく、人類の悲傷ということにつながっていくのだと思うのです。葛原は、先ほど申し上げましたように、自分が母であるということは一体どういうことであるのか、不問のうちに、長い期間ずっと沈黙のなかで子供を育ててきた。そして、そのことがどういうことであったかという問いをきっかけに、では、人類にとって母であることはどういうことかという問いに広がっていくわけです。もっともっと露骨に、激しく女であるという性に向き合った歌として、次の歌があります。
はく士曾つ
生みし仔の胎盤を食ひし飼猫がけさは自毛となりてそよげる
これは私が葛原を最初に読んだときに読んだ歌の一つではないかと思いますけれども、すごい歌だなと思いました。飼っていた猫が白猫で、その猫が子供を生んだあとに胎盤を自分で食べるわけです。これは動物の習性としてみんな食べるのですが、しかし、白くて美しい猫ですから、それを食べているということは非常に凄惨な風景として見えてくる。白い猫がたったきのう子供を生み、そして今日その血の固まりを食べていたということを詠むわけです。そうすると、自猫の向こうに非常に獣めいた母、生き物を生む姿というものがむき出しで見えてくる。葛原はこの頃から眼前にあるものを通して、その向こう側に起こっていること、向こう側にしまわれていることを見ようとだったような記憶があります。そのバナナが大量に輸入されるようになる。あれは緑のまま輸入さいう目線を手に入れようとするわけです。
そして十一番の歌ですが、葛原が戦争を経験した人類をどんな風に考えようかと模索していた歌があります。
みどりのバナナぎつしりと詰め室をしめガスを放つはおそろしき仕事
これは昭和三十年代の歌です。私は三十四年生まれですので、三十年代の記憶はあまりないのですが、四十年代になってもバナナというのはすごく高価で憧れの食べものだったような気がします。おみやげというと、やはりバナナというのは最高で、バナナとチョコレートというと別格の食べ物

(途中掲載作業中)

れて、室でエチレンガスを吹き掛けることによって熟させるそうですが、その作業をたぶん画面かなんかで見たのだと思うのです。葛原は画面を通していろいろなものを見ることが多かったようなので、テレビかなんかを通して見たのだと思います。絵か写真かわかりませんが。バナナというのはとても輝かしい食べ物で、それがどっさり輸入されるというのはとても豊かな感じのするはずのものなのですが、それを見て葛原は 「おそろしき仕事」という。
どういうことかというと、私が即座に連想してしまったのが、やはりアウシュビッツなのです。強制収容所のガス室の光景です。バナナを熟させる室がアウシュビッツのあのガス室に重なってくる。これは最も豊かな、そしてこれから戦争を忘れようとしていく輝きのなかで、なぜか知らないけれども、最も豊かなはずのものに最も陰惨な、悲惨な影がまとわりついていることを、葛原は感じぎるをえなかった。そこに詠み込まれているものには、「恐ろしき仕事」という感覚がどうしても重ねられてしまうわけです。
こういう物とか出来事をじっと凝視していく。出来事への執着というんですか、そういうものを通して葛原は見るということにものすごく執着していく。葛原は非常にモダンな歌作りとして知られているわけですが、実は生涯通して斎藤茂吉に私淑しているのです。心の先生としてずっと仰ぎ続けたのが茂吉なのだと思います。茂吉は言うまでもなくやはり見るということについての執着の深かった歌人です。
どれくらい葛原が見ることに執着したかということを偲ばせるエピソードがあります。きょうここに森岡貞香さんがおいでになるのでたいへん話しにくい状態なのですが、森岡さんから伺ったエピソードがあります。伺った以上この話は自分のものだということで、見てきたように話すわけですけれども、ある時、鳥屋かなにかで見た白いミミズクがとても精惇で見事だったので白いミミズクを手に入れました。あまり素敵なものですから、自分のうちで飼いたくなった。それで自分の部屋で飼いはじめた。ところが、ミミズクは昼間寝て夜起きるものですから、それに生活時間を合わせて夜一緒に起きているようになる。だけど、ミミズクは部屋で飼っているとだんだん元気がなくなってくる。しかも、死んだ餌ばかり与えていると食べなくなって病気になってしまう。しようがないので、どうすればこのミミズクは元気になりますかと聞いたら、ネズミを生き餌に与えるといいといわれたそうです。じやというので今度はネズミを飼い始める。そうすると、ネズミはわんさか増えますから、どんどん増えてしまって、そこら中走り回っていたらしい。そこまでは伺わなかったのですが、これは歌にたくさん出てくる。ネズミが壁の隙間からチョロチョロのぞいているとか、部屋中ネズミがチョロチョロと走り回っているというのが出てくるのですが、そんな事までしてものをじっくり見ようとした。残念ながら、ミミズクの歌はあまりいい歌はできなかったようです。
しかし見る事への執着の強さというのはそのくらいのものがあったわけです。そんなふうにものを見ていくことを通してそれが何かということを問うわけです。
十二番、十三番はすこしあとでお話しすることにしまして、十四番です。
口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも
これはブドウを栽培してそれで葡萄酒を造る工場を見にいったときの歌です。ブドウを口に入れて、それをプチンとつぶしたときに 「わが目ふと暗きかも」という感覚が備わるわけです。ちょっと奇妙な感覚、非常に不気味な感覚です。ブドウというのは黒ブドウだと思うのです。まるで黒目のようにキョロキョロとしている黒いブドウですね。それを口の中に入れてプチンとつぶしたときに生まれた感覚として、自分の眼球がぷちっと潰れた感じというんですが、そんな不気味な感じがここで呼び覚まされている。葛原にとってものを見るというのは茂吉とすこし方向が適って、非常に感覚的なものを強調していく方向であったような気がします。例えばブドウの粒というものをどんなふうに見るかというとき、葛原にとって、見るというのは、絵を見るように平面的に見ることではなくて、それがどのような感覚がするものかということを、自分の肉を通してもう一回味わい直すという方向で味わわれていたような気がします。
そのようなものを見るという、物や事との対話を通して、葛原が手に入れたのが次の歌なのです。
せきしよく げんふあんい
原不安と謂ふはなになる 赤色の葡萄液充つるタンクのたぐひか
これは下の旬のほうを先に見てみますと、「赤色の葡萄液」、赤葡萄酒になるための葡萄液がタンクにいっぱい詰まっているわけです。そのタンクを思い浮かべているわけです。赤い葡萄液がたくさんに詰まったタンクというのは、ただでさえ不穏な不安な感じがするものです。そして葡萄酒というのはキリスト教ではキリストの血としてとらえるわけで、血がいっぱいに詰まったタンクというものを連想させるわけです。それが満タンになってかろうじてそこにたたえられている。重くたたえられているということが「原不安」という言葉を呼び覚ますわけです。原罪という言葉がありますけれども、人間が個々に抱えている罪とか、そういうものを遠くににらみながら葛原が手に入れたのは 「原不安」 という言葉なのです。「原不安」。これは辞書的な意味としてはないのですが、この言葉が意味するものを私たちは直感することはできるだろうと思うわけです。人間が根本に抱えている不安のようなもの。この言葉を導き出すに至ったとき、葛原は遠方に人類が体験した未曾有の悲惨な戦争というものをにらんでいただろうという気がするのです。
この葡萄酒のタンクの向こうにはキリストの血というものもあり、そして、われわれ全体の血がそこにゆたゆたと満ちて揺れている。いつでも砕けてそこに血が飛び散りそうな不安とともに私たちの戦後があるのだということを見ている気がするわけです。
葛原はこのように長い時間をかけて物事を問うということを自分に課してきた歌人だと私は思うわけです。この事は、葛原にとって戦争や戦後がどのようなものであったかを知るうえでとても大切です。ここに一つ非常に面白い例がありますので、引いてきました。十六番から二十番までの歌なのですが、これは全部こうもり傘の歌なのです。十六番です。かうもりは大いなるがよき 目鼻ひそかにかくるるがよき
これは具体的には佐渡に旅行に行ったときの歌です。佐渡で市場かなんかを歩いていました。いろいろなものが売られているのですが、その中でこうもり傘を差した人に出会った。あるいは、こうもり傘を売っている場所にあったのかもしれません。こうもり傘という、ふと意識にひっかかるものに出会う。それを見つけて、「目鼻ひそかにかくるるがよき」 というわけです。これは一見市場で単に傘に出会って、作られた触目詠のようですが、実はそうではありません。なぜかといいますと、葛原はそれ以前にこうもり傘を象徴として深い体験をしているのです。どういう体験かといいますと、次の歌です。
美しき信演の秋なりし いくさ敗れ黒きかうもり差して行きしは
信州に疎開していて、そこで敗戦を迎えた葛原が、その日の出来事として最も印象深く覚えているのは、このこうもり傘なのです。そういえば、黒いこうもり傘を差して信州の秋を歩いたというわけです。なんということのない歌のような気がするのですが、こうもりというものに対する執着が先ほどのスコポラミン同様、浮かび上がってくる。この黒いこうもりって何なんだ、という異和感がせり上がってきてしまうわけです。その次の歌もこれにちなんだ歌です。
一九四五年秋 偏頗傘の黒女山あひに吸はれ消えにき
佐渡に行った一連、三十首ぐらいある中で、これがまたふっと出てきます。これらが善かれたのが、敗戦から十八年ほどたっています。それが佐渡への旅を通して浮かび上がってくる。そうすると、あのこうもり傘って一休何だったんだ、ということが再び問い直されるわけです。もう一度見てみますと、「目鼻ひそかにかくるるがよき」といっていて、「煽蝮傘の黒女山あひに吸はれ消えにき」、これはおそらく自分のことだと思いますけれども、敗戦を契機として目鼻を隠してこうもり傘の下に自分を隠した。様々なものを隠すものとしてこうもり傘というものがここに出てくるわけです。「目鼻ひそかにかくるるがよき」といっている以上、目と鼻というのは非常に表情を伝えるものなので、表情を読まれまいとするしぐさ、それを隠すものとしてのこうもり傘。それが葛原の敗戦の記憶のなかで浮かび上がってくる。
じゃ、それでこうもり傘との縁は切れたかといいますと、そうじやない。またまた出てくるわけです。十九番の歌です。
いまだ顛はるる傘のむれあるべし日本に速断ゆるさざる傘の量あるべし
これはどういうときの歌かといいますと、六〇年の安保闘争の時です。ちょうど国会に市民が流れ込んで行って、そこでの闘争で樺美智子さんが亡くなった時、三十五年の六月十五日だったと思いますが、その時の歌なのです。葛原は、あまり事件や出来事にそのまますぐに反応するという歌はほとんど作らない歌人です。何かがあったからすぐ歌うわけではないのですが、ほとんど一回きりといってもいいのではないかと思うのですが、目立った事件に反応した歌がこの六〇年安保の時の歌なのです。「日本に速断ゆるさぎる傘の量あるべし」ということで、ちょうどあの日は雨の日で、市民たちが傘を差して国会のほうに集っていく映像を私たちも目にしたことがあるわけです。どんどん、どんどん現われてくる傘というものに、葛原は強い感覚を覚え何か非常を感じているわけです。この歌が葛原が先ほど詠んだこうもりと全く無関係とは、私にはとても思えない。別の連作の中にあるわけですが、一冊の歌集の中でちらちら、ちらちらとこうもり傘が出てくるのです。
こうやって読んでみると、敗戦時目鼻を隠し、心を隠した、表情を隠したこうもり傘をふたたび持って、市民たちがぞろぞろと現われてくる光景、そういうものが見えてくる。心を隠す道具であったこうもり傘が、またぞろぞろと現われてくる。それが安保闘争のあの事件であったと葛原は感じている。これはほとんど思想とか理屈ということではなくて、こうもり傘というものに直感的に感じた 「それは何か」という問いが間断なくずっと続いている。そしてそれが日本に現われたり消えたりするのを見ているといっていいのではないかと思うのです。そして安保闘争が終わった時、二十番の歌ですが、次のように詠まれているわけです。
さびしふと空晴れゐたりかの黒き傘の大群いづこに行きし
この一連のこうもり傘の歌、葛原の代表歌とはいえないわけですが、葛原のひとつのものの見方を考えるうえでたいへん興味深いと私は思っています。空が晴れ、こうもり傘が消えたとき、何かが終わってしまった。葛原にとってこうもり傘というものが、敗戦のなかで覆い隠されていたものを、その時は隠しながら、しかし隠しきれずにぞろぞろと出てくる何かとして表現するのに連想がつながりやすいものであったということがいえるような気がします。
さて、話は変わりますが、一昨年でしたか、ニューヨークに行った時の事をお話ししてみたいと思います。ニューヨークに行ったというとすごくカツコいい感じがするのですが、そんなカツコいい話でもなくて、実は息子に家出されまして、しようがないので追いかけて行ったんです。そこでもまた逃げられまして、しようがなくとぼとぼと歩いていたわけです。ニューヨークというのは両側にビルがそびえていて、道が薄暗い感じがする。どこまでも薄暗い街をとぼとぼ歩いていたら、突然すごく明るい場所にぽこんと出た。何だろうと驚いて見たら、そこはいわゆるグラウンド・ゼロで、九一一テロのあの場所だったのです。瞬間的に、ああ明るいなという感じ、開放感を持ちました。しかしそう思って気がついてみると、意外に狭いなと。たったこれだけの場所かという感じがして、改めて見たんです。葛原妙子を通して私が感じる戦後というもののイメージは、このグランド・ゼロで感じたものに近いかもしれません。鬱蒼と茂っていたものが壊されたあとに開ける、ひとときの非常にむごい明るさ。非常に凄惨な明るさというものが、あからさまにしてしまうものというか、否応なく見せつけてしまうもの。
九一一のテロの現場にもたくさんの瓦礫がまだまだ残っていました。ほとんど片付いていたのですが、それでも周囲にたくさん残っていて、大きなビルがなくなったので、壊れ残った周囲のビルに善かれていた落書きとか、立て付けの悪いぼろい扉とか、そういうものが全部あらわに見えている。それから、瓦礫の中でコンクリートから鉄骨がニョキッと出て曲がっていたり、それからまた人が取り残していった帽子みたいなものが瓦礫の中にあったり、そういうことがあって、それは十分に片づけられたあとであっても、やはり見えたわけです。そこで感じたのは、日本のそれってあんなものじゃない、もっと広大なものとして広がっていただろうと直感するのです。そうであればその瓦礫の無惨さと同時に、明るさというのはいかほどのものであったろうか。それは明るさと言ってはいけないものかもしれない。白日のもとにさらすという言葉がありますが、まさにそのようなものとして白々と広がる戦後の姿があったような気がするわけです。そういうところに立ったときに、ふと葛原のことを思ったのです。葛原はもしかすると、この明るさに晒されたものをまざまざと見てしまったのかもしれない。こんなにも明らかに露わになってしまったものは見るほかない、というふうに思ったのではないか、と。そんなところでまぎまぎと見てしまった者は、たとえば戦前の 「吉祥の天女ささぐる宝珠のごとく」といったような、ある美しいものにまとまってしまうような何かであろうはずがなく、そしてまた、「超えきます碓氷よいかに草の穂に秋の灯をかかげてぞ待つ」といったような、ある一途な妻の姿におさまるはずのものでもなく、なにか徹底的に見るほかないところに立ってしまったのかな、そういうところに立ったのが葛原の戦後というものだったのかなと思えてならなかったわけです。
葛原はそののち、いろいろな文体を工夫していくわけですが、文体を工夫しながら、実は何を見ようとしていたのかなということをとても思うのです。先ほど飛ばした歌に戻りたいと思います。十二番、十三番の歌です。白日の明るさに晒されてしまったものというのは、実は例外がなかったという気がするのです。短歌もやはりそうだった。短歌って一体何だということがあからさまな問いになって、やはりそこにぐにゃりとゆがんだ鉄骨のように晒されていたかもしれないという気がします。そうすると、やはり文体というか、短歌そのものにもこれまでとは異なる問いと工夫を加ぇなくてはいけない。それは一体何だというふうに問わずにはいられないなかで、次のような歌も生まれてくるわけです。十二番の歌です。
黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ
これはとてもへんてこな歌で、「黒峠とふ」で七、「峠ありにし」で七、「あるひは日本の」で図にはあらぬ」で七というので、七・七∴八・七という奇妙な音をした歌です。よく読んでみるとんだか奇妙なのですが、どうも第三句のあたりが欠けている感じがする。この黒峠というのは、「ありにし」といっているのですが、これはたぶん葛原がこのとき作ったのだと思います。黒峠という言葉から連想したのだと思いますが、その言葉からそういう峠があったよというふうに言い、「るひは日本の地図にはあらぬ」と言って、こういうものがあったよと空想しながら、しかし日本の地図にはなかったよ、というわけです。もともとなかったものをポトンと日本の地図に置き、そしてそこに欠落としてわざわぎ言い据えるとき、そこにポトンと墨汁でも垂らしたような黒い欠落が生まれる。その欠落と、この第三旬あたりが足りないような音韻が、何か非常に大きな欠落感となって読者に不安な感じを与える。
しかし、私がこの歌を最初に読んだとき最初に感じたのは、これは短歌以外ではないということです。これも不思議なことなのですが、俳句だとはとても思わない。じや、何か別の詩かというと、そうでもない。やはり短歌だというふうに思えた。それはなぜだろう。よくわからないのですが、やはり欠落した第三旬あたりに、ないものに対して意識が執着してゆくからだろうと思うのです。それでもって空白が湧く見えてしまう。第三旬というのはとても大事で、歌を作られる方だと第三旬が失敗すると、いわゆる腰折れというのになったりするわけで、いちばん頑張らないといけない旬であることは周知のことです。ここをなくすことによって、かえってこの歌の第三句というのが存在感を増し、濃いものになってしまう。そんな効果を彼女はずいぶん考えていたのではないかと思うのです。
その次の歌です。十三番です。
築城はあなさびし もえ上がる焔のかたちをえらびぬ
これもなんだか変な歌です。「築城は」で五、「あなさびし」で五、「もえ上がる焔の」で九、そして「かたちをえらびぬ」 で八。五・五・九・八。ほかの読み分け方もあるのかもしれませんが、このへんてこな句の連なりというのはやはり第三旬がちょっと欠けてしまっている感じに読めてしまう。この裏ん中あたりがポコンと欠けた、この黒い空自でもって、むしろ不思議な力をもってくるという感じがしてくるわけです。これは東北に旅行したときの歌です。弘前城を見て歌ったのではないかと思われるのですが、お城を見たときにどういうふうに見るかというので、あのお城の積み上げられた形が炎の形に見えるというわけです。しかも燃え上がる。城というものは建てられたときから燃え上がる運命を持ち、その時を待っているというわけです。いまあるものの中にすでに崩壊していくものを見ているというある目線というのは、まっとうな五・七・五・七・七のなかで穏当に歌ったときには本当に伝わるのかという疑問がおそらく葛原の中にあったのではないか。であれば、むしろ大いなる欠落をつくり出すことによって、定型の強さというものを試してやろうかという意識もあったのではないかという気がするわけです。
こういう問い掛け、物や事を通して、そのものが何であるかということを見る。それから、形式を通してこの型式、短歌とは一体何であるかということを問う。こういうことは、葛原が戦後の出発にあたって自分で背負った課題であったろうという気がするのです。それは、言葉をもって戦後から戦中に架け難い橋をかける仕事ではなかったかと思える。そういう歌い方というのが実はあるのではないか。このことはちょっと現代の私達は注目してみてもいい。それは、思い出すという作業なわけですが、思い出すという作業を通して、何度もそれが問いとして深められていく。抱え直されていく。葛原にとっての戦後というのは、その新たな問いを通して、その向こうにある過去を何度でも何度でも問い直すことを通して続いていったということが言えるのでないかと思います。最近では岡野弘彦さんが 『バグダッド燃ゆ』 という歌集を出されて大変話題になりました。戦争体験を非常に告白的に善かれた歌集なわけですけれども、あれなども社会詠という範疇で読むよりは、このような何度でも新しく問い直される重い問いなのだというふうに読んだほうがいいのではないか。思い出すということは、戦争とは何であったか、ということと同時に、それを思い出すことによって現在を問うているというふうにいえると思います。だからこそ 『バグダッド燃ゆ』 は新しい。葛原もおそらくそういった作業を通して、自分は無傷で通り過ぎた戦争を、そして戦後をずっとずっと問い続けたのだといえるのではないかと思うわけです。
葛原はたくさんの代表歌をもっているのですが、その中からぜひぜひ見ておきたい二首があります。二十一番です。
疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ
とても変な歌です。非常に気味の悪い歌ですね。「さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」、これはサンタマリアといっているわけです。その賛美歌の声が風にさらわれていく。そうすると、風にさらわれた声が「りぁ、りぁ、りぁ」というふうに聞こえるというわけです。これは歌が作られた場面としては孫が洗礼を受ける場面の歌です。葛原は洗礼式に招かれていくのですが、その時に賛美歌が歌われる。葛原は娘も向こうの神の側に行ってしまった。そしてまた孫も向こう側にいま行こうとしている。その悲傷のなかで、ある屈折感のなかで歌声を聴いているわけです。しかし、同時に、この歌は大変普遍的なものへ広がっていっています。生きている人間、人類の苦しみの彼方にマリアという存在があって、人間はいつも助けを求めてきました。私たちはサンタマリアと本当は歌いたいのに、「さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」 にしかならない声を抱えて現代という瓦礫の上を排御し続けているのではないか。そんなイメージをもって私はいつもこの歌を読んでしまいます。決して神に届くことのない祈りの声というか、そういうものを昔も、そして今も人間は抱えている。それを葛原はここで直感したのだろうと思います。
キリスト教を通して、葛原は決して救われようとはしなかった。むしろその反対側に身を置きながら、決して救われないものとして、たとえば 「原不安」 というものを抱え込んで様々なものを見ようとした。それから、定型というものに寄り添いながら、定型というものを磨こうとしながら、定型を奇形にしてしまう。第三旬が欠落したような、そんな奇妙なかたちの定型として差し出す。あるいは、賛美歌を聴きながら、サンタマリアに決してしない。「さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」というふうに、不完全な奇形なものとして聴いてしまう。そういうことを通して、葛原はこの世にずっと痛みながらあり続けようとしたのだという気がしてたまらないわけです。
たとえば戦後という視点にもう一度立ち返ってみると、葛原妙子の戦後は、戦争で傷ついてしまったもの、あるいは歪められてしまったもの、人間性というものに対する非常に深い疑い、根本的な疑念みたいなものを抱えこまざるをえなかった。そして、人類というものを、私自身の内に自覚し直すというところにあったのではないかという気がするわけです。
最後の歌になります。これは葛原の中でもたいへん有名な歌の一つです。
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水
この歌は葛原自身がエッセイを書いておりまして、夕方お料理しようとして鍋をかかげたら、底に穴があいていて、そこから見えた水の風景だと、そんな話を彼女は書いているのですが、それはかなりあとからつくられた彼女自身の意図的なエピソードなのだと思います。実質はやはりかなり言葉に凝りながら、非常に苦吟したのだと思います。「折々のうた」を連載しておられた大岡信さんがこの歌をこんなふうに解釈した。他界というところからこの世を眺めたならば、あの夕暮れの水は静かな的として見えるだろうというふうに解釈したのです。これはとてもまっとうな読み方で、普通そういうふうに読者は読む。それに対して葛原は次のように反論するわけです。それは 「もしも他界から眺めたならば」というような仮定ではなくて、私はもうすでにあらかじめ他界というところにいて、そして夕暮れの水を眺めているのだというふうに訴える。このエピソードも葛原が意図的に一生懸命につくった話でしょう。しかし、葛原の歌のひとつの姿勢というものは見えるのではないか。歌を詠んでいくということがもしこの世の様々なものを眺めるという事であるならば、詠む人というのは他界のようなところからこの世に晒されるものをまざまぎと見るということであるかもしれない。そうであれば、「私」はすでに他界のものであるといっていいかもしれないと思います。もう一度ニューヨークのグランド・ゼロのほうにイメージを戻します。そんな風にあからさまに見えてしまう瓦礫というのはそれほど期間として長くないわけです。あの現場もすでに新しいビルが建ってきれいになりつつある。いまはもう高いビルと公園とが建てられようとしている。地下には地下道ができて、地下鉄が再開通しています。しかし、あの現場にひととき訪れた、あのむごい、三千人が亡くなったという現場空間のあの白々とした明るさ、白日のもとに晒されるというあの感覚を、歌を歌う場合、どこかで忘れてはならないのではないかと思うのです。そして、もし戦後とか戦争というものを歌うとすると、何かそのようなところから今を歌うことはとても大事なことなのではないかなという気がします。
葛原は全部で九冊の歌集を持っていますが、重要な歌ばかりが非常に多くて、きょうお話しできたのは本当にわずかな一端です。しかし、ここを切り口として葛原妙子という歌人を私もまたもう一度読み直してみたいと思いますし、また、皆さまの側でこういう読み方があるよ、ということがありましたら、ぜひお聞かせいただければと思います。きょうはたいへんありがとうございました。