新しさが発酵するとき

— 普遍性をめぐって —

 

「『悪いけど、阿木津英さんをはじめとする三十代女性歌人の注目される時代はおわっちゃったね。』とつぶやいた。三十代の彼女たちが歯をくいしばってやってきたことを、いっぺんに飛び超してしまった」(「短歌」61年7月号、佐藤通雅)」角川短歌賞受賞、俵万智の「八月の朝」五十首についての感想である。何が終わり何が始まったというのだろうか。俵万智を手がかりとして新しさとは何なのかを考えていきたい。
 俵の新鮮さを技法のうえから見てゆくとおよそ三つに分けられると思う。一つは言葉のアナクロニズムである。

 むらぎもの心おもいっきり投げんきっと天気になる明日のため

 あいみての後の心の夕まぐれ君だけがいる風景である

 古語や枕詞、現代の日常語を同じレベルに並べ使いこなしてみせる自在さは新しい言語感覚といえる。本歌取りというほどの重たさもなく、古歌や古語をすべり込ませる。その自在さは第二の特徴として考えられる会話体・口語調についても言える。

 「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君

 「俺は別にいいよ」って何がいいんだかわからないままうなずいている

 この自在さについて、劇画的である、歌謡曲そのものであるという批判をしてみたところでそれは批判にならない。短歌的である、短歌的でないというのは最終的には好悪の議論の域を踏み出すことのないものだからだ。むしろ従来の短歌的なじめじめとした抒情で描かれてきた愛を軽快な現代の言葉で語ってみせたところに一つの手柄がある。
 三つめにあげられるのは新しい固有名詞の使用である。

 大きければいよいよ豊かな気分東急ハンズの買い物袋

 この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカルフォルニア」

 現代の日常そのままとして街に転がっている言葉をひょいと拾ってみせる。そしておや、と立ちどまらせる。そんな魅力がある。これらの技法は、総じて言葉の使い方の軽やかさにおいて共通している。新しいものを持ちこむことに対する気負いもない。まことにすべらかな言葉の地平は、しかし一人俵のものとしてでなく、さまざまな方向を持ちながら現代を描いてみせる作者たちの共有の新しさだと言えよう。
 言葉のアナクロニズム、会話体、新しい固有名詞、のそれぞれについて次のような歌をあげることができる。

 妻・女使いこなせずにたらちねの母になろうかこのままそっと

田中あつ子 

 ヴィヴィッドに生きたいのよ!  と言い放ちそのあと動き始める サ・ビ・シ・サ

林あまり 

 ある時期にかかはりて聴く一曲のブレスあやふき中島みゆき

中山 明 


 俵万智の新しさをどう捉えるのか、これはむしろそうした技法のみに視点を集中するべきではないと考える。

 この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 明日まで一緒にいたい心だけホームに置いて乗る終電車

 若い恋愛のその典型とも言える感情がきっちりと把握されている。キラキラと軽い言葉の下に、様ざまな人や時代を貫く普遍が通っている。「八月の朝」(「短歌」61年6月号)「サラダ記念日」(同誌8月号)一連を読んでみて強く感じたのはむしろそのことであった。たしかに言葉のかろやかさ、語り口の軽快さによって、描かれた愛はいわゆる短歌的な抒情の内でこれまでくり返し描かれてきた愛と多少ニュアンスの異なった軽いものとなっている。しかし、現代的な技法の下にかっちりと表現されていながらその愛はオーソドックスな愛の形、かろやかであってもけっして新しくはない愛の心情である。現代的な技法と、典型としての愛、そのアンバランスな組みあわせにこそ俵の新鮮さはある。現代を現代らしい方法で活写してみせつつ、彼女が基本として据えているのが、それまでにさまざまな形で歌われてきた愛の形、普遍的な心情であるということ、そのことのために、どのように新しい言葉が持ちこまれようと、読者はどこかで安心して俵の作品を読むことができるのではなかろうか。
 「カンチューハイ」に代表される新しい言葉や技法を、広く多くの読者に手渡すことができたのも、普遍性を一つの軸として俵が抱いていたからに他ならない。普遍性をきっちりと描いてみせること、それはそれだけで文学としての手柄だと言える。しかしその限りにおいて何かが終わり何かが始まったわけではない。むしろ愛の普遍と隠当に手を結ぶことによって、現代の日常語は短歌の内に収まった。普遍とのかかわりにおいて俵万智はむしろ古典的であると言える。
 普遍性への対峙の仕方で見ると、冒頭で述べられていた阿木津英は全く逆の立場にあるといえる。

 鞦●に天(あめ)の錘りのごと揺るる小肉塊を子供といえり

阿木津英 


 子供を小肉塊だと言い切る見立て、この見立てによって阿木津は子供に対する従来の見方に揺さぶりをかけようと試みている。「三十代の彼女たちが歯をくいしばってやってきたこと」はまさに、男と女、家庭、母性といったことに対する普遍の認識をどう揺さぶるのかということであった。
 この斬新な試みがそれなりの説得力を持つかどうかは、この歌で言うならば、〈小肉塊〉が読者の目にも〈子供〉に見えてくるかどうかによる。たしかに〈子供〉が〈小肉塊〉に見えてくる言葉の斡旋を経たならば、読者はこの斬新な見方を単なる見立てとしてではなく一つの新しい真実の発見として受け入れることになろう。しかし上句〈鞦●に天の錘りごと揺るる〉という言葉の流れからは〈小肉塊〉はいかにも唐突である。視野をぶらんこのある公園から天という広さへ拡大してみたところで〈子供〉は〈小肉塊〉へと変貌しはしない。
 こうした性急な普遍性への揺さぶりは、一つの主張のおもしろさとして読むことはできても、それがたしかにこれまでの見方を動かしえたかどうかについては疑問を残してしまう。「子供」という言葉を、そしてその言葉の映すイメージをどう揺さぶるのか、子供という普遍を揺さぶるという作業はこのことと分かちがたく結びついている。一つの主張を直截に投げ出すことが普遍性を揺さぶることであるとは限らない。
 同じ見立てという点での成功例として次の歌を読みつつ考えていきたい。

 たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

河野裕子 


 近江という土地を器に見立てるという視点、それ自体はけっして新しいものではない。しかし上句の感覚に訴えた把握が〈昏き器〉を単なる器に終わらせない役割を果たしている。これは母胎をも暗に連想させ、近江という土地を、その中心にある琵琶湖を、子宮に見立てるという飛躍をとげさせているのである。この歌は感覚の移入によって近江という土地名を作者のものとしたといえる歌であるが、また母性という普遍を可能な限りふくらませて土地名にまで投影してみせた歌でもある。普遍性への対し方において、それを揺さぶるという阿木津の方向とは異なるし、その意味ではけっしてショッキングな歌ではない。むしろ古典的な母性の観念をみずからに強く引き寄せることによって成功した歌だといえる。近江という土地のイメージを、深く抱くことによって近江はまぎれなく作者のものとなり、作者の匂いを放つことになった。深く抱いた言葉に個人の匂いをしみこませてやるということが、すなわちその言葉にとっての新しさにつながってゆく。むしろ一つの言葉を個人の主観そのものに磨き上げてゆくという作業、その試みのうちに言葉は言葉としての共有性、一般性を離れ、その言葉の背後にある普遍性はゆっくりと揺さぶられるに違いないのだ。
 俵万智を古典的であると言い切ったその流れから見れば、阿木津の、普遍性への挑戦はたしかに一つの新しさだといえる。しかし、新しさが新しさとしてたしかな力を得るために、言葉はその内側から変貌しなければならない。むしろその言葉の変貌をこそ、新しさと呼ぶことはできないだろうか。

 どのような闘い(1)かたも胸張らせてくれず闘う(2)たたかう(3)だなんて

平井 弘 


 戦後にあって「闘い」という言葉が「たたかい」という無意味な音声へと分解し溶けてゆき、それを経て新たな「闘い」の認識が獲得されてゆく過程をこの歌に象徴的に見ることができる。(1)は一般的に理解されている、戦闘、争い、競争といった漠然とした闘いである。(2)では作者の何らかの経験として体得された闘いとなり、それはけっして胸を張れるようなものではなかったことが語られる。(3)は(2)での経験を経て一つの認識として作者のものになった言葉であり、それは最初の闘いとは全く違った、苦い吐き出すような音節として読者に提出される。(1)から(3)へと闘いという言葉は作者の心の内で大きな変貌を遂げている。そして〈たたかうだなんて〉とつぶやくように語られる時、闘いに対する普遍的な認識や価値観はぐらぐらと揺さぶられる。この歌では、一つの言葉を抱き疑ってゆくことが同時に新しい価値観の誕生につながっている。これはリフレインの効果のうちに作者の胸の内での言葉の変貌の様をそのまま一首に収めたものであるが、このように言葉を抱き変貌させてゆく操作は、別様の方法でも、現われた言葉の裏側で行なわれうる。

 晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて

葛原妙子 

 空きし家に空きたる壜と棲みをれば木の間をきたるあはき黄熱(くわうねつ)

 木立の家に無数の壜の立てるなれ 立つとふこといかにさびしき

 暗き硝子透かしてみよそこにもここかしこしづかなる木の幹立てり

 飲食(おんじき)ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し

 『葡萄木立』の中に並ぶこの一連は、「立つ」という言葉に深くこだわり作られていることがわかる。一首目では、酢が立つという見えない状態を、憶測し、描くことで立つという言葉が深いふくらみを持っている。立つという状態なり動作なりが不可思議なものであるということの発見、その発見に続いて、二首目以降は壜が立っていること、その何気ない状態へ作者は吸いこまれてゆく。そして、三首目では〈立つといふこといかにさびしき〉という立つという言葉への主観の移入が行なわれている。作者の主観となった立つという言葉を透かして周囲にあるものを眺めてみると、四首目、木の幹が立つということも、五首目、空壜が立つということも、無限の不可思議として見えてくる。そしてそれは作者の見たとおり〈さびしき〉物たちであるのに違いない。
 立つという言葉の発見→立つとは寂しいことではないのかという作者の問いかけ→立っている物たちは寂しい。およそこのようにこの一連は流れていく。立つという言葉は、ここでは、作者の胸の内で、表現の裏側で、すでに一般的な認識の枠を超えており、変貌している。
 五首目の有名な一首も、そうした言葉への深いこだわりを経て生まれたものであるのに違いない。一つの言葉への深いこだわり、疑いは、立っている壜の姿を〈泪の如〉く寂しいと見、その向こうに透けている日常の飲食は、まさに寂しさとしてその普遍性を揺すぶられている。
 普遍性を揺さぶるか否か、一つの言葉を揺さぶるか否か、それがただちに歌としての価値を決定するものではない。しかし、どのように多くの新しい言葉や技法が持ちこまれようと、持ちこまれた言葉によって私たちのこれまで馴染んできた価値観、真実、心情といったものが揺さぶられることなくあるならば、私たちはそういつまでも言葉の新しさをのみ楽しんではいない。言葉の新しさにも見馴れたとき、新鮮さは急速に目減りしてゆく。現代の日常語は、今後も否応なくこの短詩形の中に流れこんでくるだろう。それらはむしろ積極的に迎えられるべきだと思う。それゆえ、それらの言葉が普遍性に対してどういう衝撃力となって表われるのか。新しさとはむしろそういう問い方をされるべきである。普遍性の表面をなぞってゆくだけに終わらせてはならない。言葉が普遍性の衣装としてでなく、普遍そのものとして深く個人の胸に抱かれるとき、新しさは普遍性の内側でゆっくりと発酵しはじめる。