短歌の世界で言葉たちは瀕死かもしれぬ。世間一般の表面上華やかで屈託のなさそうな言葉の氾濫を横目に、少くとも短歌を構成している言葉のひとつひとつは健康ではないと感じている。むろん短歌の世界でも言葉の数は増え続けている。しかし、個々の言葉の質や役割はかなり追いつめられた状況にあるのではないかと思う。
陽溜りに重ねし書物そこに置くわが曝涼(ばくりやう)の不発の檸檬
緊張した韻律、それゆえ程良く理性的な抒情、隅々にまで神経の行き届いた魅力がある。しかし、この風景は何かつくりものめいていないか。虫干ししている本の上に青春の悔恨を込めて一個の檸檬を置くのであるが、この単純に切りとられた一シーンにどことなく血の気の失せた冷たさを感じるのだ。知に御された喩、スタイルとしての冷ややかさなどとも別の何かを伴なっている。〈書物〉〈檸檬〉これらの単純な小道具は、実は一首に位置を占める際、累々とした観念の蓄積をひきずっており、それを抜きにしてこの一首は成立しない。〈書物〉は思想や理想といった言葉で説明されるし、〈檸檬〉は青春の象徴(シンボル)となって久しい。そうした一定の意味のこもった言葉を直接的な観念語の代わりに置くことで、この一首は抒情を保っていると言ってよいだろう。それゆえ、重ねた書物の上に檸檬を載せるという行為が、すなわち観念の上に観念を重ねるというパズルになってしまい、ぎこちない映像を提供するのだ。むろんそうした映像効果を狙わないのであるにしても、一つの詩の中の言葉がたやすく他の言葉で説明されてしまうような状態を詩的な貧しさだと感じずにはいられない。むろんここで掲げるべきは江畑一人であるはずはない。むしろこの一首は秀歌だといえる。しかし、言葉の病は、このすぐれた作品にすら見え隠れしている。
ここで不健康さに対する豊かさ、そして今後の言葉の可能性として考えられるものも示しておかねばなるまい。
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり
桐の幹日あたる側をしんしんと蟻かよひゐき午睡ののちも
茂吉の歌について、どのような言葉でこれを説明しよう。研ぎ澄まされた空気やその奇妙なリアリティは誰もが感じていても、それを他の言葉で言い換えることは難しい。或は言い換えたにしろ言い尽くすことは不可能ではあるまいか。〈めん鶏〉に日常を、〈剃刀研人〉に非日常をとそれぞれの言葉をかぶせてみるにしても、そうした抒情の類型に沈んでゆかない迫力ある世界がこの歌にはある。高野の歌についても同様のことが言えまいか。極ありふれた風景を淡々と描きながら、読者にはその表面上の意味内容以上の何かをずしりと手渡している。これらは、分解や読み解きを拒みながらも読者を招くという、暗喩を超えた一つの象徴世界を築いている。
いちめんに唐辛子あかき畑みちに立てる童のまなこ小さし
みづうみの湿りを吸ひてどこまでも春の曇天膨れてゆけり
茂吉の風景画のような一首である。ここでは作者は人体の五感のうち視覚だけにひたすら頼っている。ひたすらに視る、そのことによって〈童のまなこ小さし〉という発見が成され、この一●の絵に龍の目を入れるように生気が吹き込まれる。ここには作者の体感としての目が表現として定着した後にも息づいている。河野の歌はもっと直接に女性の肉体が感取した風景を伝えている。この二つの歌では素材に対する最初の感覚が生きており、その感覚を支えとして言葉は代替の不交能な位置を与えられているといってよいだろう。
五感によって何かをとらえようとすること、例えばひたすら視るということは、即ち表現の裏にあらかじめ意味や感慨を用意しないことでもある。これは写生の基本的な方法である。ただ茂吉に於てはその写生の方法がしばしば写生を超えてしまったと考える。このことは改めて稿をつぎたいが、少なくとも近代の短歌の革新運動の時点では述べるべき意味内容を強く出すことは問われなかった。ではどこで先の江畑の歌を含む現代短歌は、内容性の濃い文字へと転回していったのか。私は現代に強く影響している点から前衛運動以降のことと考える。当時の歌壇に主流をなしていた俗流写実主義への厳しい反発から、濃い意味内容を帯びた自己の短歌のうえで実現してみせたのである。批評性を帯び、自己への洞察を深めた点でこの前衛運動は短歌を以前とは比較にならぬほど力強い文字にしたと言っていい。しかしその反面その足跡が現代短歌の病根となりつつあることも考えねばならない。
短歌は本来の性質など屈折した物言いや複雑な述べに向いていない。挽歌や相聞など人間感情のうちで知や理など高度な思いから遠い、基本的な情感を実現する時この短詩型はその力を発揮してきた。短いゆえに直情が生きるという明瞭な理(ことわり)などを負っているのである。これを一つの性質とすると、濃い意味内容の圧力をかけられた短歌はどこでそれを支えたのであろうか。それはいわゆる難解派といわれるような全体的な表出もしたが、何よりも言葉のひとつひとつにそれまでとは比較にならぬほどの圧力と屈折とを強いたと考える。
五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちて隔たる
この歌には写生の方法の下にある言葉とは全く違った形で収まっている言葉の重層性なり屈折なりが見られる。これは先の江畑の歌とほぼ同じ質を帯びている。この歌は〈五月祭の汗の青年〉を視ることで成立しているのではない。あらかじめそこにかけるべき意味内容があり、それを最もよく生かす暗喩として言葉は選ばれている。しかし塚本の方法はそれに尽きるものではない。
バッハ祭 昨夜生れてまだ盲目の馬臥せり黒き菖蒲(あやめ)なす耳
彼の本領は、むしろ自覚された象徴世界の構築にあると思う。このことは別の機会に触れ直すべきであろう。彼の作品に於て意味内容は言葉のために奉仕することもあり、暗喩は語るべき内容の使用人になりさがってはいない。言葉は彼の方法によって磨かれている。ところが前衛のその後に引きつがれたのは、暗喩と屈折した意味性を言葉にかぶせてゆくこと、ほとんどそれに尽きると言ってよい。そして更に言葉にとって悲運なことには、その方法があまりにもなめらかに普遍化され、比喩或は言葉は貨幣のように了解されて人々の手から手へと渡り歩く安っぽいものとなったのだ。強烈な作者世界の構築という前衛のもう一つの価値を見落として、作者はさながら読者という赤子に意味のスープを無事飲ませようと言葉の裏に構えている。そして述べ伝える内容は時代とともに複雑になり続け、言葉のすぐ裏側にまで露出せんばかりになっている。
いくたびも家族の網を投げられて娶られむとすあかつきの夢
君の桜とわれの桜は異なりてわれはこの世の桜を浴びる
〈家族の網〉はにほんの家族制度の因習的な束縛を意味している。ここでは言葉は喩としてよりもむしろ散文で表現しうる意味を三十一文字の中に縮めて押し込むために使われている。松実の〈桜〉は未だそれほどの圧力をかけられてはいないが、それでも男の桜、日本の桜、同期の桜、という理念のからみつきを感じさせる。これらの歌はそうした普遍共通の理念に拠りかかっている故にとても理解され易い。しかし、意味はそれが散文化しうる内容となった時、詩とともに死んでゆくものであろう。また言葉は散文化した意味を支えきれず、衰弱してゆくのだ。
風の位相高くなりゆき黒髪のモローの騎士の片手の聖盃
黄金(きん)のみづ歌はさやかにしづめども吾こそ浮きてささやさやさや
ここには、これまで見てきたような言葉と意味性との葛藤はみられない。むしろ、重い意味や述べを避けることによってここでの言葉は自由な輝やきを得ている。しかし、井辻の歌などは、彼女が長塚節の歌に対して〈…その喩を…読みとけないばかりに、彼の抒情にほとんど冷淡にしかついてゆけないのである〉(短歌60年2月号)と述べるそのままに、彼女のファンタジー世界に溶け込めない者を拒んでしまう。これは先の茂吉や高野の歌に於けるような読み解きの不可能さとは別性質のものである。また紀野は、深い述べや意味に到ろうとする意志を言葉の軽ろみで吹き流している。これらは言葉に対する新しい姿勢であると共に、これまで述べてきた前衛以降の意味と言葉との泥●への諦念を無意識にその出発点としているのかもしれぬ。しかしこれらが言葉にとって本当の救いになるとは私は考えない。意味が言葉を拉がず、言葉が意味を放棄しないような歌を、と思う。歌は究極、個人の熱い思いの結実なのだから。