一首の歌を詠むことによって、その歌を詠む前と後では僅かに自分の内側が変化している。そんな歌への姿勢を私自身の密かな理想としてきた。歌によって変えられてゆく自分自身、言葉によって壊され、育てられ、成熟してゆく人格のようなもの、そうした運動の総体として浮かび上がってくる思想のようなもの、それらへの信頼が私を歌へ誘い続けたし、現在もその理想は変わっていない。そしてたぶん近代以降の短歌や文学の理想がそうした私の思いとそれほどずれてはいなかっただろう。
しかし現在、一人の作者として言葉に向かうとき、言葉を支えるリアリティーの_み難さに呆然となることがある。言葉をめぐる環境は大きく変化しつつあり、ひとつの言葉をとりのこしたままその背後の環境がそっくり変化し、あるいは消え去っているということもある。そんな時代の作者の一人として、その戸惑いのままに表現の現在について考えてみたい。
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フォルテ3号〔1989年12月号〕で小澤正邦は、溢れる情報のなかでの国家の在り様と作者の関わりについて言葉の側から考案している。次の歌を例としてこのように述べている。
フランスパンほほばりながら愛猫と憲法第九条論じあふ
荷車に春のたまねぎ弾みつつ アメリカを見たいって感じの目だね
「例えば、『憲法第九条』という一語が思想内容としての意味ではなく、その語にまつわる情報を表す、と思って見る。すると、私たちは、思想への作者の指示という機能を失う代わりに、言葉の自由な振る舞いの場を拡げることになる。『アメリカを見たい』についても、憲法よりずっとソフトな感じでやはり同様の用いられ方になっていると思う。アメリカのどこを見たいかを指示せずに、そこにまつわる情緒を読者に伝えること。それは確かに詩の伝達と言っていい機能を発揮している。しかし、その代わりに一言で言えない思想、人格を支える構築の不可能を容認することにならないだろうか」
溢れる情報の波の中で現代の情緒を紡ぐことの困難は作者ならば誰もが体験し続けている。ここで小澤は、そうした溢れる情報社会に対応しつつ、情緒を紡ぎ続ける作者達の内側で起こりうる問題について、〈情報のなかの作者達には何も起こらないのだろうか。作品と作者の離反といった素朴な問題設定を通り過ぎて、作品の増殖を作品自身が許す仕組みが、短歌のなかに見え始めたのではないかとおもう〉と語っている。加藤の歌の「アメリカ」は、実際には存在しないような気分としての固有名詞への昇華を遂げている。また、荻原の「憲法第九条」は具体としては宙に浮いてしまうような憲法であり、それにまつわる思想を記号として伝える「思想の枠型」のようなものとして取り込まれているという。そしてそれによって現代の抒情になり得ていることなどを述べ、このことを小沢は一面では肯定的に捉える。反面、失われる可能性のあるものとして「思想や人格の構築」を挙げている。このことは、言葉と作者との現代的な関わりの問題としてとても大切であるように思う。
荻原のこの作品については、すでに幾つかの議論があったし、またここで小澤は「『憲法第九条』への無関心を装った批評である」との、主として上の世代によってされた読みに対して疑問を提出しているのであるが、この小澤の疑問には注目すべきものがある。「憲法第九条」は、イロニーや批評といった何らかのリアリティーをひきおこすために「フランスパン」や「愛猫」と対置され衝突させられているのではなく、そうした小道具と同じレベルに縮小されているのではないかということなのだ。作者の狙いはその縮小の後のアンニュイな情緒の提示の方にあるのではないだろうか。どのような思想性にも遠いことが引き起こす情緒はそれゆえに前世代のものとは異なる。無論そうした読みがこの作品にとってより良いものであるのかどうかは判らない。ただ、この歌の気分は、思想性というものを限りなく曖昧にし、無力にしたゆえに新しいということは言えるだろう。そして、こうした歌の背景には、イロニーや批評といった、作者の思想や人格の表明に直接に関わる表現が、従来のようなリアリティーを持ちにくくなっている現実が広がっていることを考えてみなければならない。
禁忌なき世を生きにつつむなしかるなんぢら来るな緑の森に
古き枝いたむといえど降る雨にひと葉ひと葉を濡らすよろこび
老樫をまねびてつひに言ふべしや人間ほろべ人間ほろべ
涙おちやまざる夜半を柿の朱しんしんしんと遠近(おちこち)に鳴る
冴えわたる四月晴朗どのような顔か母であり母でなきわれは
背のびしていた踵おろすとき目の高さにてわが生は見ゆ
侵攻はレイプに似つつ八月の濁谷(●ジ)越えてきし砂にまみるる
かぎろひの夕刊紙には雄性の兇々としてサダム・フセイン
青ぶだう一顆の自負を持ち堪ふるべく難かりし八月も過ぐ
伊藤の歌は、反都市の文化や精神が森林に深く移入されている。森林を守り自然と共存して生きるために、自らに様々な掟を課した人々の生活への共感を描きながら、現代の都市の希薄な精神に否を提出している。しかし、こうした主張は、まっとうであり正しいゆえに、かえって読者の心をすり抜けてゆく危険がある。伊藤はそうした事情を充分に承知し、読者への遙かな距離を自明としたうえでさらに訴えるのである。それゆえ、「人間ほろべ」は覚悟の重たさを帯びて、その声の主に存在感を与えている。
松平は、家族の崩壊、別離という『シュガー』に続く物語を、より内面に引き取り、心のひだを丹念に描く。ドラマチックな物語は、それゆえ一つの商品として読者に流通し、希薄になってゆく危険を負うが、ここではその商品化の速度を作者の内面の深化、成長が越えていると言えるだろう。自らとの呵責ない対話が、読者を、流れ去ってゆく物語から作者の精神世界へと誘う力になっている。
「クウェートは私、じゅうりんされる国家」という詞書きのついた黒木の一連は、女としての性をかぶせることによって、困難な時事の読みとりに新しい角度を開いていると言える。血を通わせることの難しい社会詠に、性差別の思いが生気を与えたと言えるだろう。
これらの歌は、それぞれに作者の人格や思想に深く関わりながら成功していると言えるが、また、その表現レベルでの作者の苦闘をにじませてもいる。人格や思想の構築という目標が、従来以上の力量を作者に要求していることが読めるように思うのだ。作者は現在、一度はこうした困難をくぐらなければ言葉のリアリティーを_むことができないのではあるまいか。
より若い世代ではこうした言葉との関係はどのように展開されているだろう。
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
手を叩け海のあおさに驚いたパトカーが椰子の樹に突っ込むぞ
A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル
マルクスの亡霊とするしりとりのいつだって終りは『資本論』
政変ははるかなる国この街はねえスニフなんてしづかなんだらう
何が見える何も見えない眼をひらけ瞼がおもいそんな時代だ
わたくしが生まれてきたるもろもろの世のありやうもゆるしてあげる
いつの世のむかしがたりを織りながら樹冠はるかなひかりのさざなみ
逃げた金魚のつどふゆふやけ逝く夏に手をふりながらぼくはかけあし
いずれも最近刊行された歌集である。
穂村には意味よりも瞬発的なフィーリングで迫ろうとする勢いがあり、彼の歌が読者に届いたかどうかはこの感覚を共有できたか否かによるところが大きいだろう。「手を叩け」では、おもちゃの世界のようなパトカーや風景が描かれ、それは等身大の世界以上に新鮮で生き生きとしている。彼の歌にはこうした少年の世界のようなイメージがひしめくが、また、一首目の歌のような根拠の無い感情のほとばしりも印象的である。それは全く無根拠な涙であるゆえに現代的なのである。豊かでありながらどこまでも意味に遠い、イメージという格子に囲われて、出口を無くした怒りなのである。穂村には、こうした抑圧された感情が時には悪意として、また、時にはアンニュイとして言葉の裏に息づいており、それゆえの新鮮さがある。
荻原はその第二歌集で倦怠や退屈といった気分を、より方法意識に結び付けつつ展開している。一首目のマルクスも「資本論」も歴史的な曲折の厚みや、それにまつわる情緒や思想の匂いを捨象した言葉遊びになっている。そこから生まれる空虚さを現代の気分として表現しており、その気分にこの歌の狙いはあると言える。「憲法第九条」の歌のときにはなお曖昧さの残っていた作者の態度は、ここでは思想にかかわらないという点ではっきりしている。またそれゆえに現在、マルクスや「資本論」を素材にしえたともいえるだろう。荻原の歌には大テーマの不可能それ自体がテーマとしてたちのぼってくる。一冊の歌集がそのまま現代論として、歌論としても読めるのである。その点では他の二人と荻原は異なる。
山崎の歌には成熟したまなざしと少女趣味な世界とがない混ぜになった不思議な味わいがある。少女と老女とのともに棲む青春前期のある時期を拡大し、無限に引き伸ばすことで、薄い殻に覆われたファンタジックな世界を創っている。言葉は柔らかく自在であり、〈意味と律とが適度にたわむれ合っている歌〉と岡井隆が評しているように、意味が像を結ぼうとする寸前で、律がそれをかきみだし膨らませるという特徴のある文体である。明確な輪郭を結ぶことのない、しかし豊かな物語の世界がそこにいるかぎり無限に広がっている、そんな感じだ。そしてそこには「わたくしが」の歌にみられるような世界への醒めた視線も隠されている。
私がこれらの歌から受け取ったのは、一つには意外なほど生な彼らの声であり、共感を求める触手のようなものである。これは同世代ゆえの過敏な感じ方であるかも知れないのだが、訴えるべき思想や、意味で構築された世界をあらかじめ期待しないこれらの歌からは、しきりに感覚や情緒の共通項を探る何かが放たれているような気がする。頻出する風俗名詞や、子供時代の記憶の断片のようなイメージは、読者との共感の回路であるようにも思える。特に『シンジケート』や『麒麟の休日』にはその傾向が強いだろう。彼らはこうした感覚的な共感の世界を開きつつ、成熟を拒否している。それがもう一つの印象である。成熟の拒否は、_みどころのない時代にかそかな抵抗感を生む。そしてそこには現在語られるような時代や状況についての論が自明のこととして引き受けられている。
様々な理想や思想のイメージが壊れ去った後の空白に、従来の価値観では掬い取ることの出来なかった感性の世界が開かれている。それはとても魅力的なことであるし、新しい可能性である。
しかし、考えておかねばならない問題もある。先の小澤の論との関わりで述べるなら、成熟を拒否し、思想にも遠い状況にあるこの現代の物語の世界は、鋭敏な感性のバランスを失えばいつでも作品の自己増殖を無限に許す温床にもなりうる。特に、現代の文学の状況論に敏感である作者ほど、そうした現代への認識と作品との密着した関係がもたらす、作品の複製化は深刻な問題になるだろう。そうした危うさと背中合わせにある世界であるとも言えるだろう。
時代を映す歌と、時代を動かしてゆく歌との間には僅かな差しかない。現在のところこれら若手の作者達の抱えもっているものの総体や、そうした差は未だ見えているとは言えないだろう。ただ、考えておきたいのは、言葉に向かうことによって一人の作者になにかが起こり、それによって作者がわずかにでも動いてゆくという事の重要性である。言葉の自在か、あるいは思想や人格の構築かという、苦しい二者択一を避けてゆくのはおそらく、そうした主体的な言葉への働きかけへの信頼以外にないのではないだろうか。