定型への遠近法

— 三枝 昂之論 —

■特集・かりんの歌人たち

 

 唐突なようであるが、与謝野晶子は何故自身の初期作品を幾度も執拗に書き換えたのだろうか?
 明治三十四年、二十四歳で刊行された『みだれ髪』の作品を四十歳を過ぎるまで改作し続けたほど晶子は初期作品に執着した。当然その晶子の道程には成熟という時間的な経過があった。また、状況的には明星的な浪漫性が飽きられ、自然主義の潮流と共にアララギの写実が受け入れられていくという時代の流れを通過した事も考えられよう。だが、もっと気ままに晶子の内面を想像してみると、『みだれ髪』の奔放で柔軟な詩的エネルギーは、その説明の届かない魅力のゆえに常に晶子を苦しめたのではなかったかと思われる。晶子がその若気を嫌ったことは確かだが、反面ではそうした情熱や浪漫精神という移ろいやすく形の無いものを、どのようにして恒久的な形へと変え、展開してゆくことが出来るのかという問いが常に共に在ったのではなかったろうか。
 結果的にはこの試みは、多くの人の言うように、改作という形で成功したとは言えない。しかし、晶子の改作への執着はあながち若気への嫌悪だけでもなかったように思われる。もちろん、これはまだ私の想像の域を出るものではない。
 少し遠まわりになってしまったが、こうした晶子への想像を発端に三枝昂之の歩みを考えるとき、三枝が、いかに自身の初期作品の奔放な詩的エネルギーを、型という恒久的なものに近づけていくかという課題に意識的であったかが見えてくる。これはむろん晶子の歩みと直接に重なるものではない。しかしそれは、一般的に定型詩に関わるものにとっての宿命的な課題であるという以上に、三枝の精神世界の変遷と重なりながら、彼にとって重要なテーマとなっているように思う。こうした定型詩への意識を論と作品の両面から探りながら、三枝の現在を考えてみたい。
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 「短歌史の巨視的な流れの中でみると、短歌が多様な志向の中に自身を開放してゆくときには、むしろ自身の様式性も同時に問いつづけていて、試みのアナーキーさと求心的な様式性とはつねに複合的に一体であったといえる。そうであれば、これからの短歌には、自身の特定性としての伝統意識や定型意識がますます求められる」〔『短歌』1990年4月号〕
 短歌の国際化時代に触れて三枝はこのように結んでいる。現代の短歌の多様な有り様や、もっとラディカルには諸外国で英語などで短歌が作られている現実を思うとき、この詩型は何をその特定性としアイデンティティーにするのかといった問いは作者の頭をときおり掠めるものであるだろう。三枝のこの文章もそうした状況に触れて書かれたものであるが、三枝昂之という一人の歌人の歩みをそこに重ねるとき、この特定性と言い定型意識と呼ばれるものは自ずから三枝自身の足跡を担って複雑な表情を帯びてくる。
 一人の歌人がどのようにこの型式に出逢うのか、その時期や出遭いのパターンはさまざまであろう。指を折り歌を作るという初めてのその出遭いが短歌の原始的で確実な型式の保証であるならば、また、言葉の奔流を支え舵を取る力も型式以外の力ではない。それらを貫きなおかつ現在の多様な表現の広がりの中に屹立し得る短歌という型式の特定性とは何か。こうした問いは問いとして常に存在するものの、その答えに近づく術は個々の作家の歩みのうちにしか見出せないものだろう。三枝の詩型への問いかけは、状況的にはこうした型式の特定性への問いとして現れ、また、より内面的には次のような発言となって現れる。
 「ずっと歌を作っていくと、ある時点から、自分の今まで作ってきた歌との自己問答をどういうふうにしていくかが、その歌人の切実な問題になってくる。寺山修司はそれを自己模倣という形でマイナスとしてとらえたけれど、必ずしもそうではないわけです。むしろ自己問答の中から、この短歌という詩型がもっている伝統的なものの大切さが見えてくる可能性があるわけです」〔『短歌』1987年10月号・鼎談「近頃、女歌」〕
 〈持続するためには何が必要なのか〉という馬場あき子の言葉を受けての三枝の発言である。会話をそのテーマや脈絡から外す愚は免れないが、これは三枝のある時期からの歩みを語る大切な発言であると思われる。作歌の持続、何を自らに伝統として引き受けていくのかという問いに対して、自己問答のうちにそれを見いだそうという答えは、現在の三枝が立つ地点をよく物語る。
 より歌に引き付けたところでみるならば、第五歌集『塔と季節の物語』以降、三枝の歌にリフレインがよく見られるようになったことがしばしば指摘される。

 不惑不惑といいきかせつつあやめなき身をひきあげる菖蒲湯の闇

『塔と季節の物語』 

 果てる昭和の母が故郷の秋天にくしけずりくしけずる喜寿の白髪

 〈不惑不惑〉は、自らの年齢へのこだわりと戸惑いを滲ませ、また、〈くしけずりくしけずる〉は、昭和という一つの時代への労りと愛着の情を故郷の母へのそれに重ねている。リフレインは技法としてはゆとりやリズム感をもたらし、読者に親しみ易いが、ここではその内容は充分に重い。そしてそれは、三枝の自己問答の重たさでもある。この語の反復は、ひとつにはテーマへの愛着であるが、もうひとつには、三枝がこだわってきたテーマをどのように同時代に訴え開いてゆくのかという課題と共に在ったことも考えねばならない。テーマも技法も多岐に渡り、それらが型式としての根拠を保証せず、それぞれの作者の好みでしかないような、拡散してやまない詩的な状況。その中で自らのこだわりをこだわりとして現在と対話させるときの愛着やたゆたいを滲ませながら、このリフレインは三枝の内的な揺れそのものとして読めるように思う。三枝はまさに自己問答をこそ自らにとっての型式として模索する。

 三枝の様式への意義をその初期の作品から見てみよう。
 三枝はその第一歌集において、

 まみなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミユへ

『やさしき志士達の世界へ』 


といった、六十年代や七十年代の時代性を背景とした青春の息吹を伝えたが、そうした作品群は現在読むと時代や状況の背景を超えて、まず若々しい言葉の魅力として伝わってくる。それらは、政治詠や社会詠であるより、強いリリシズムに支えられた精神世界であったように思われる。観念よりは情念に親しい初期作品については既に触れる機会があったので〔『かりん』1987年9月号「情念の器として」〕、ここではその言葉への意義について注目を移すと、背景となる状況は濃い精神世界を形創る契機として働き、言葉はその情念に支えられてむしろ自在であるように見える。奔放な言葉の勢いを支え励ます力として定型は座っており、それはさながら遠心力として言葉に働いているようである。三つの単語を並べただけの歌を歌として読ませるのは定型の力以外ではなく、言葉はその力に支えられて自在に放たれている。
 しかし、そこでの言葉は

 街は昏れゆきそして世界の夜をつむぐ言葉の東を抑えがたしも

『やさしき志士達の世界へ』 


という歌に見られるように時代の気分や勢いをその拠り所としている。一つの時代に触発された言葉や詩世界を時代性から自分の側に引き取ること、その状況が過ぎた後にも形ある何かとして展開してゆくこと、こうした要求の誘う必然として定型への問いは抱えられたのだと言えよう。
 しかし定型へのより求心的な問いの発生がいつであったにせよ、その言葉遣いをよく見ていくと、三枝が様式美というものに当初から敏感であったことが分かる。

 くきやかな意志の世界と隔たむとして長髪を梳きおりしかな

『やさしき志士達の世界へ』 

 帽子とるその一瞬の垂髪のほどけてちりて塩のごとしも

 洗いてながき髪の秋冷え故里のごとく肩から心に垂れる

『水の覇権』 

 あやめ咲く恋の行方やはさまれてドアにひと夜を葉書はねむり

『血の燠』 

 もろもろの帽子陽を鎖し雨を鎖し一つつたなく自らを鎖す

『暦学』 

 どんな日々にも放蕩はあり花はあり湯を弾く肩湯に解きし髪

 つんつんとおのことわれは菖蒲湯に日々のあやめの折り目を正す

『塔と季節の物語』 


 三枝には髪を歌った作品が多く、ことに初期歌集である『やさきき志士たちの世界へ』『水の覇権』にはそれぞれ十七音という数で歌われている。ここに引いた歌にも〈髪〉〈帽子〉〈あやめ〉の語が注意深く使われ、こうして意図的に引いてみるとこれらの言葉が綾を織るようにからまりながらその詩のうねりや人生的な時間の量を伝えていることが分かる。試みに〈髪〉という言葉を見ても、一首目の詩的世界への旅立ちを告げる、柔らかなナルシシズムを感じさせる〈髪〉から、六首目の〈湯に解きし髪〉までには、生活の重たさを担いつつなお心の自在を遂げようとする陰影が加わっている。〈あやめ〉は〈郭公(ほととぎす)なくや五月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな〉というよみ人しらずを引くまでもなく、文目(あやめ)に重なり、またそのすがしい花の色や姿が重なってくる。〈あやめ咲く〉では恋の変節とその行方への予感を古典の歌の雰囲気を引き出しながら鮮やかに伝え、また、〈つんつんと〉の歌では菖蒲とあやめの姿をだぶらせながら生活の時間と心情とを伝えている。こうした古典的な言葉への愛着と共に、〈帽子〉のような自らの言葉の好みを永い時間にわたって持続し展開し、徹底して自らのものにしてゆくのは三枝の重要な個性であると言えよう。ことに、初期歌集においてその姿勢が鮮明に打ち出されていることには注意したい。
 三枝のこうした言葉へのこだわりは近年では次のような歌の評によく伺われる。

 鷲肝〔フォアグラ〕をのみくだすわが心中に「末の松山」てふ異国あり

塚本邦雄『詩歌●』 


 「おそらくこの歌は、和歌史の中で大切にされてきた『末の松山』という歌枕の、その音感美しく人生的な暗示に富んだ姿を、美しさのまま歌にしたいというモチーフから生まれたものである。このモチーフは十分に歌の美しさとなっている。〔中略〕『詩歌●』」からは、様式を正しくかかえもったときに言葉はいかに美しいか、伝統を血肉化したときに言葉はいかに豊かであるか、そんな歌についての肝要なものがよく伝わってくる」〔『短歌公論』1988年3月号〕
 ここには、三枝の定型詩、ことにも文語定型詩をどのように現在に生かすかという問題意識が反映している。この塚本の歌の読みについて強調されているのは、「末の松山」という歌枕をそれ自体の美しさとして味わおうということである。手垢にまみれやすい歌言葉をフォアグラという異質なものと出遭わせることによって、その言葉本来の美しさを引き出した点において三枝はこの歌を評価し、そこに今日的な様式美の可能性を見ている。
 さらにここに「歌言葉の行方」と題する論文〔『かりん』1985年8月号〕を重ねると三枝の論点はよりはっきりとしよう。

 爪の星菱星といふ民ありき耕して耕して無名に逝きぬ

山中智恵子 

 月日経て苦しきものは積るらし瘤ある林檎樹花散らしをり

馬場あき子 


 三枝はこの二首を引き、山中の歌については、「耕しつつ無名に逝く民とは、最愛の夫君の生涯へのいとおしみと、星の命名の由緒への感嘆とのダブルイメージである」とする。また、馬場の歌については「〈自然〉は満身創痍であってもなお、詩人の渾身の言葉によって詩的な生命力を保つことができるという認識を思い起こさせるものがある」と読む。そしてこれらの歌を通じて「言葉は〈言葉の累積性〉の中に存在しており、つまり、基層としての言葉を現在性として浮かびあがらせるものこそがすなわち詩なのだという意識によって成立している」とする。これを私なりに解釈すれば、詩語として様式のなかに成立している言葉に生命を与え、それを現代に生かす何かをもって詩は成立するのだということになる。その何かを心や情念や思想と呼んでも間違いではないだろう。こうした論には三枝の「歌言葉の生命力は状況に晒された言葉の生命力とはちがうものだ」いう思いが一貫している。
 歌言葉の恒久性への信頼や、それを現在に押し出す生命の付与という論点は、一面では移ろい易い時代のなかで、どのように信頼するに足る確かなものを生みだすのか、という課題を担ったものであり、また他方では心や思想という形の無いものをどのように形にしてゆくのかという問いを抱えている。それらを包容しうるという歌言葉への信頼と様式の再発見は、三枝が自身の歩みから引き出した短歌という型式の現代における特定性への一つの回答である。
 しかし、第五歌集である『塔と季節の物語』以降、こうした定型論と三枝の作品とはすこし附き過ぎるのではないかという疑問を持つことも確かである。

 勝ちて勝ちて勝ちつづくべき一生をあやめのごとき四肢に背負いて

『短歌研究』1987年5月号 


 「勝負」と題した一連。〈浮かばせる菖蒲の尖り湯にしずむ父と息子をつんつんと突く〉などの歌もあり、父として、男としての哀しみや切ない自負が伝わってくる。歌言葉としての〈あやめ〉への愛着は既に見てきたが、様式としての美しさも備えている良い歌であると言えよう。ただ、三枝の作品に親しんできた者にとっては〈あやめ〉の語から引き出される世界への衝撃はやや薄くなってしまう。繰り返し歌われているからというのではなく、言葉と場面と抒情とがしだいに接近し、密着し、〈あやめ〉から父と子や男というテーマが切り離せないという図式化に陥りはしないかという危うさを感じさせられるのである。言葉が自ずからそうしたテーマを呼び、幾重にも意味の衣を着た、動きの少ないものになっていくことを私は恐れる。三枝の言葉への愛着は、言葉を不自由にしていくことではなく、幾度でも新しい意味や味わいを呼び込むものであったはずだ。
 しかし、もとより三枝は、言葉がテーマやモチーフを束縛する力として働くことを望んでいるわけではない。様式性への志向がそうした詩の硬化への危険も孕んでいることを承知の上で、現代における定型詩の力を模索しているのだということを認識しておきたい。

 「朝起きて働き、夜に酒で一日のウサをはらして眠るという、まれびとなき、単純な絶対性があるとすると、『〈私〉が同時に〈われわれ〉である地平への歌の希願と私の発語』というような『水の覇権』のモチーフは、はたしてその絶対性に耐えることができるか」と『暦学』の覚書に記した三枝は、日常という時間をその世界に引き込んでゆく。

 キャンベルを煮るあまやかさ家にみち実れるものは季節濃かりき

『暦学』 

 真に偉大であった者なく三月の花西行を忘れつつ咲く

 これらの歌には生活の時間や自然の営みの時間への切ない認識が込められている。〈まれびとなき時間〉の〈その絶対性に耐えることができるか〉という自己問答は、自らが抱えてきたテーマや情念の世界へのこだわりであると同時に、日常に生きる多くの人々や自然という素朴で分厚い世界との対話のはじまりでもある。そうした一見素朴な、世界への親和感と屈折とを滲ませた歌は三枝の持つもう一つの魅力であろう。
 『暦学』以降の〈まれびとなき時間〉との対話は当然にも三枝の定型意識に影響を及ぼしてゆく。初期歌集に見たような、言葉の奔放な連なり、さながら遠心力として働いているような定型への信頼は、〈歌は根こそぎにされることからどこでまぬがれることができるかという、旧くて新しい問題の反趨〉へと動いてゆく。
 これは、一つの時代の磁場の衰え、作品の受け取られていく場の縮小を予感したうえで、どのようにして自らの世界を展開してゆくのかという三枝の自問であり、新たな定型への問いかけでもあった。この新たな定型への模索が、時間という絶対者や、自然や日常という明らかに素朴な主題との対話として始まるのは、三枝の世界の行方を見るうえで興味深い。
 三枝は「原感情の血肉化」〔『短歌』1988年3月号〕と題した論文で、窪田空穂における自然主義や浪漫主義に触れて、次のように結んでいる。
 「重ねていえば、浪漫とか写実とか自然主義とかいう表看板は本当は重要ではない。その表看板の下で志向されたものの共通性こそ、近代短歌にとって大切なのであり、それは主題意識に絞っていえば、〈原感情〉の血肉化への志向であり、より具体的には主題の肉筆化とでもいうべき意識である」
 近代の短歌史の読みとりとしてより本質的な見解であり、先に見た三枝の定型論にも深く通うものである。こうした見方を裏付けるように窪田空穂の見解があるので三枝の文章から孫引きしておこう。
 「新しい歌の運動は、歌を此の情趣の世界から救ひ出して来よう、化石してゐたものを、今一度生気あるものにしよう、といふ所にその中心を置いて居た。そして其の方法は、いはゆる情趣といふものに免りかかり、●りついて歌ったのを、我が中より歌ひ出さうとした」〔前田夕暮『陰影』〕
 こうした近代史の洗い出しは、より求心的に定型の根拠を求めようとする三枝の定型論を背後から支えるものでもある。〈まれびとなき時間〉、日常という無言の絶対者と対話しつつ、なおそこに自らの情念の世界を展開していこうとする三枝は、空穂的な〈私〉の在り方を様式と濃密な心の関わりを保障する大切な示唆として受けとる。そうした型式の現在性を志す歌として次の一首を記憶したい。

 緑蔭をゆきつつ想う父の夢継がざるものはいまだあたらし

『塔と季節の物語』 


 〈父の夢継がざるもの〉は、亡父を想う三枝自身であっても、また未だ夢を継ぐに至らない幼いものであってもいいだろう。むしろそうした息子としての二人の姿を重ねたい。思想であれ文学であれ、父が夢としたものを遺産として受け取れない、その上に安住しえない者としての志を歌っている。これを三枝自身とするならば、そこにあえかな屈折が添う。父の夢を充分に思いながら、しかしそれを夢としたまま対話する。新しさとは、自らの足で歩いてゆくゆえの、折々の苦しみの新しさなのだ。〈緑蔭〉はこの新しさの陰影を映しだしながら、一首を読み終えた後にもすがすがしい。そしてこれは逆説としての継承への志なのだ。

 根を遡り枝をのぼりてほころびるほのくれないの生命と思う

〔『短歌』1988年6月号〕 

 ●原がとうのむかしに見棄てたる政治を蔑し蔑しきれるか

〔『短歌』1989年8月号〕