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2000年代
歌論なき時代の祈りの群像
黒峠としての故郷 — 故...
郷愁と記憶を越えて —...
未知の言葉であるために
評論紀行 — 時代から奪...
<おばあちゃん>を連れて
なぜ歌の伝統を継承す...
文化としてのライトバ...
他2点...
1990年代
「かばん」村への片思い
太陽と柘榴と花
オノマトペの効用
韻文世界と世界文学の...
無思想のための思想と...
伊藤一彦の抒情性は ...
社会の発見
わたしはどこにいるか...
他2点...
1980年代
ドーム球場の世代
誰そ我?—〈私〉の位置...
生存の岸辺から
可能性としての〈うた〉
新しさが発酵するとき—...
個性と普遍性をつなぐもの
言葉、その悴容をめぐって
ラビュリントスいよい...
他5点...
近代
茂吉はいつ老いたのか—...
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与謝野晶子論—「血」と...
女という主題—樋口一葉...
白鳥からとどくもの—初...
茂吉の女
万華鏡覗きの快楽(けら...
茂吉の戦争
歌人論
「日本」と刺し違えた...
前登志夫歌集『鳥總立...
語り残された自我—葛原...
小野茂樹論—戦後の光を...
暗室と薔薇窓—茂吉の孤...
江戸雪、田中槐比較論—...
水原紫苑論—われは「さ...
少女言葉の絶壁―穂村弘論
他18点...
短歌入門のために
いい歌わからない歌
写実の花の歌—そこに咲...